気持の清算
わずか数年前のことになるのだが、その間に色々なことがありすぎて、今となっては遥か昔のことのような気がしていた。ハルカはじっくりと顔立ちを観察して、ようやく少年があの時のスリの子であると認識したのだ。
間抜けにもボケッと街中を歩いているハルカから手帳をスった、あの時の少年である。
あの出来事は、ハルカがこの世界の厳しさのようなものを痛感した瞬間でもあった。
「そうですか、お元気そうで何よりです。少し心配していたんです」
「……心配?」
どうしたらそんな言葉が飛び出すのか理解できず、少年は思わずハルカの言葉を復唱する。
「あ、ええ、はい。ラルフさんがあまり甘やかすと、却って後で酷い目に遭うかもしれないと言っていたので」
ある意味あの時点でラルフなりハルカなりがしっかりと制裁を加えていれば、少年の人生はまた少し変わっていたかもしれない。手を出したのに何の咎めもない、という状況こそが、少年を追い詰めていた可能性がある。
ラルフもそんなことまで想定して言った言葉ではなかったが、実際には言葉通りの状況になっているともとることができた。
「君も冒険者になったんですね。上手くやれていますか?」
ハルカに悪気はなかったが、それは少年にとって一番厳しい質問であった。
黙り込んだ少年に、何か失敗をしたことに気づいたハルカは、頬をかきながら考える。
「とりあえず……、ご飯を食べてください。あまりおいしくないかもしれませんが」
「うん!」
歩き出そうとしたピナを少年が止める。
「どうしたの……?」
「食べて……いいのか?」
「いいですよ? そのために多めに作ったつもりですし」
「いや、その、そっちが食べ終わって残ってたら分けてもらえないか?」
「ええと……。まぁ、それがいいのなら」
ハルカは理解できないなりに、少年の申し出を受け入れる。
すぐに何かしなければならない事情があるのならばともかく、帰るまではまだまだ時間がある。
ハルカが食事を終えたところで、ようやく兄妹が食事をはじめるが、少年の方はやっぱりハルカたちのこと、特にレジーナのことを気にしているようであった。
妙な状況なので、ハルカはレジーナの近くに寄って話しかける。
「あの、何かありましたか?」
「なんもねぇよ」
「えっとじゃあ、少年と会ってからのことを少し聞かせてもらえますか?」
レジーナはめんどくさそうな顔をしたけれど、小枝をパキパキと折って炎に投げ込みながら口を開く。
「今日の朝、沢の近くでゲロ吐いて倒れてた。水と肉分けてやった」
「なるほど……」
聞きたいことは何一つ聞き出せなかったけれど、とりあえずレジーナがちゃんと少年の世話をしていたらしいことが分かった。丸一日も一緒にいて少年が何も怪我をしていないのだからレジーナにしては上出来である。
これ以上聞いても情報が得られなそうだと思ったハルカは、のんびりユーリと話しながら、二人が食事を終えるのを待つ。
「ありがとうございました」
「ました」
お礼と共に食器が帰ってきたので、ハルカは魔法でそれを洗ってからレジーナに返す。
それから炎にあたっている少年に向けてまた質問をした。
「随分と遠くまで彷徨っていたようですが、あまり無理をしては駄目ですよ。森に挑戦するならば、仲間を募って先輩に案内してもらった方がいいと思います」
ハルカが森に入った時は、ほとんど素人みたいなものだったが、代わりに長いこと冒険者志望として勉強してきた三人と一緒だった。それでもいきなりタイラントボアに出会ってしまって随分と焦った覚えがある。
スリをしなければいけないような恵まれない育ちの子が、冒険者としての知識や技術を身に着けているとは思えない。
少年は黙って俯いただけだった。
心のどこかではハルカと関わったことでこんなことになっているのだという思いがある一方で、身から出た錆であるという自覚もある。
その上、ハルカの言葉はやけに優しい。
とてもスリを働いてきた相手に掛けるような言葉ではなかった。
「……なにか、理由がありましたか?」
そして表情を見て、その心に近付いてくる。
「何か困っているのなら力になりますが……」
近付かれるほど、少年の気持ちはぐちゃぐちゃになっていく。
気持ちが制御できなくなっていく。
「……あんたに、スリをしたからって、〈悪党の宝〉の人に相手をしてもらえなくなったんだ」
ぽつりと少年が呟く。
ハルカにはその意味がすぐには分からない。
自分の影響力を正しく理解していないからわからないのだ。
「街に、居場所がないんだ。冒険者は皆あんたのことをすごい奴だっていう。すごい奴なんだよ。だって、街を救ったんだ。でも俺は、そんな、知らなかったし……」
まだ何もなしていない頃のハルカに対してスリをしたのだから、知らなかったに決まっている。
それでも、街は少年に厳しく接する。
街にとって重要なのは、天秤にかけるまでもなくハルカなのだから当たり前だ。
ゆっくりと事の本質を理解し始めたハルカは、しばし俯いて考えてから、苦笑しながら少年に話しかける。
「当時の私は、冒険者ですらありませんでした。君にとって随分と隙だらけのカモに見えたことでしょう。でもそれは君だけじゃありませんよ。そうですね……、冒険者をしているトットとは、最初喧嘩になりましたし……」
喧嘩というには酷い有様だったが、一応トットの名誉のためにハルカは言葉を濁す。
「ラルフさんの奥さんには叩かれましたね。これは秘密ですが、今はクランにいるサラって子には決闘を申し込まれましたよ。冒険者の知り合いなんて案外そんなものなんだと思います」
妙な話が次々と出てきて、少年はぽかんと口を開けた。
トットといえば、今や街のハルカ派閥の筆頭みたいな存在である。
「だから、心配せずにトットか……そうですね、彼とよく一緒にいる三人組のデニス、ドミニク、ローマン辺りに声をかけて、分からないことがあれば聞いてみてください。最近は先輩風を吹かせたいみたいですから、きっとちゃんと教えてくれるはずです」
「……ほんとに?」
「はい、本当に。駄目なら相談してください。街の拠点には話を通しておきますから」
少年はまた俯いてしばらく黙り込んだ。
たっぷり三十秒はそうしてから、少年は深く深く頭を下げた。
「あの時は、ごめんなさい」
ここまで親切にされて、穏やかに話されて、今更という気もしていた。
無性に恥ずかしいような、情けないような気持ちでいっぱいであったが、それでもどうしても気持ちの整理をつける必要があった。
このままただなんとなく世話になることだけは絶対にしてはいけないと、少年の心に生まれた何かが訴えていた。
「ごめんなさい。ずっと、謝ることもできず、すみませんでした……」
『こいつのせいで』、という醜い気持ちが涙に溶ける。
「兄ちゃん、大丈夫?」
謝れば謝る程流れ落ちる涙に、妹のピナは心配そうにその背中をさするのであった。
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