おやつの噂
「食いたいなら勝手に食え」
少年は耳を疑った。
さっき泥棒と言って蹴り飛ばした人物とは思えないほどやさしい言葉だった。
しばし逡巡してから、そっと地面に刺された串に手を伸ばす。
その瞬間、レジーナの手がひらめき、木の枝が少年の爪の先をかすめて地面に刺さる。少年は何が起こったかわからずぽかんとしてから、指を地面に縫い留められるところであったことに気づき、慌てて尻もちをついた。
そのままずりずりと後ずさりながらレジーナを見ると、その眉間にはしっかりと皺が寄っている。
「殺すぞ」
大混乱であった。
食えと言ったり、食べようとしたら殺すぞと言ったり、少年にはレジーナの考えが全く理解できない。端からずっとそうだけれども。
しばらく黙り込んで座っていると、また「おい」と声をかけられて、少年は体を震わせて返事をする。
「はいっ!」
「見てんじゃねぇ、食うなら勝手に食え」
恐れながらも、何一つ見逃すまいと集中していた少年は、ちらりと動いたレジーナの視線に気づいて振り返る。
そこには肉にかぶりついている飛竜と、大きな肉の塊があった。
なぜか飛竜がもう一体増えている。
「あ、あの……、あそこ行って、とってくるんですか?」
じろりと向けられた視線は、『当たり前だろ』という言葉を省略して少年に伝える。
少年はまた唾を飲んでから、のどがカラカラであることに気づいた。
竜の近くに行くくらいなら、水だけ飲んでおいた方がましだ。
ただ、沢の水を飲んで酷い目に遭ったのはつい昨日のことだ。
流石に直接口をつける勇気はない。
地面には先ほどレジーナが水を汲んだコップの他にも、セットになっているであろう、手持ちのついた小さな器が置いてある。
一度意識してしまえば、喉の渇きは待ってくれなかった。
体が猛烈に水を飲めと訴えかけてくる。
「あ、あの……」
それでも少年は、レジーナが肉の向きを変え終わるまで待ってから声をかける。
少しでも機嫌を損ねないようにと、一生懸命に頭を使ってのコミュニケーションだ。
かつてこれ程人の気持ちを理解しようとしたことは一度もなかった。
じろりと返ってきた視線は、先ほどよりは多少優しい、ような気がする。
そうであってほしいと少年は願いながら、かすれた声で続ける。
「その器を、貸してもらえませんか? 水を飲みたくて。わ、沸かしたら飲めるんですよね? お、お礼ならあとで絶対にするので……!」
話が終わる前に、顔に向けて金属製の器が飛んできた。
少年が慌てて手で受け止めると、レジーナの言葉が遅れて飛んでくる。
「適当こくな」
確かにお礼をするという言葉は、機嫌を取るためのおべんちゃらでしかなかった。
少年本人は本当にそうするつもりであったが、当てのない薄っぺらい言葉である。
レジーナはそれを敏感に察知してイラっとしたのだろう。
「つ、使っても、あの、い、いいですか……?」
少年の確認に返事はないが、恐る恐る立ち上がって水を汲み、それを火に近付けてもレジーナは何も言わなかったし、立ち上がりもしなかった。真面目な顔をして肉の世話をしている。
少年がじっと水がわくのを待っていると、後ろから足音が聞こえてくる。
振り返れば最初に来た方の中型飛竜、ムギが沢をさかのぼるようにして近づいてきていた。
水を零してはならないと、器とムギを交互に見る少年。
襲ってこないとわかってからは、少しは竜にも慣れてきたが、それでも近くにいるのは恐ろしい。
そんなムギに向けて、レジーナはあっち行けとばかりに手を振る。
近寄ってくると地面が揺れて肉が倒れそうなのだ。
ムギはお礼を言おうと寄ってきたのだが、どっか行けというレジーナの意図を察して、やはり文句を言いながら空へ飛び立っていった。
野生のコミュニケーションが簡単に成立しているのは、レジーナの気性が分かりやすく真っすぐだからだろう。余計な意図が介在しないので、素直になれば非常にわかりやすい。
しばらくしてもう一頭の飛竜も空へ飛び立っていったが、こちらはムギよりも賢いようで、遠くから何かぎゃおぎゃおと騒いでそのまま空へと消えていった。
近寄ると怒られることが分かったらしい。
おそらく同じ種族であり同じ言葉を話すことのできる少年より、レジーナのことをよく理解していることだろう。
ようやく十分すぎるほどに湯が沸いて、器が触れるくらいに冷めた頃には、レジーナはまた肉をかじり出していた。
一口やけどしそうな器に口をつけて啜ると、熱い湯がまっすぐに胃の中に落ちていく。一気に飲み干してしまいたかったが、胃の中に入っても熱を感じる湯が、少年の腹をしくしくと痛ませた。
腹がすきすぎているのだ。
それでも体はまだまだ水分を欲しているようで、少年は痛みをこらえながら二度三度と湯を喉に流し込んでいく。
満足するまで飲めなかった少年は、沢からもう一度水を汲んで火にかける。
それからしくしくと痛むお腹を撫でて、改めて腹が空っぽであることを悟った。
振り返った肉の周りに、今竜はいない。
立ち上がってレジーナに一言。
「お肉、もらえないでしょうか」
「しつけぇ」
許可が下りた。
今ではその言葉がレジーナによる許容であることが分かる。
レジーナは食事が終わったようで、ぼんやりと空を見て考え事をしていた。
歩き出したところで、空にまた影がかかる。
その巨大な影はそっとゆっくりと降りてきたが、メキメキバキバキと音を立てながら木をなぎ倒した。
中型飛竜の姿にも少しは慣れた少年であったが、今度もまたぽかんと口を開けて、またもや腰を抜かすことになった。
あれほど大きく見えていたタイラントボアの肉の塊が、この竜と比べればちっぽけに見えてしまう。
ナギは、体の下にある倒木を気にしながらそーっと首を動かして、レジーナと肉を交互に見る。他の竜たちからは、大きい肉があると聞いている。
食べてもいいなら食べるし、運んでほしいなら運んであげようかなという、ナギの気遣いである。
「そいつが食ったら食っていい」
肉が欲しいと言った順番は少年の方が先である。
腰を抜かしていた少年は、ナギの視線がレジーナが指差した自分に向いたことに、ただ体を震わせることしかできなかった。





