上下関係
少年が途方に暮れたまま突っ立っていると、頭上から影が落ちてくる。
ものすごい速さで一度通り過ぎたそれがなんだったのかと、少年は空を見上げた。
ここは沢があるお陰で少しばかり開けているから、木々の隙間から空を覗くことができる。
レジーナはようやく焼けたらしい肉をかじり始めたが、上空を気にする様子はない。
「ひっ」
空を見上げていた少年は、思わず息を飲んで小さな悲鳴を上げた。
腰も抜けてドスンとその場に座り込む。
戻ってきた影の正体が竜であったからだ。
ゆったりと降りてきた竜に、少年は体を震わせることしかできなかった。
〈オランズ〉に住んでいる者ならばナギに慣れていそうなものだが、少年はあえてハルカたちがいそうな場所は避けて暮らしてきた。
むしろ、竜がハルカに懐いていれば懐いているほど、自分には攻撃してくるのではないかと怯えていたくらいだ。
自意識過剰以外の何物でもなかったが、それを少年に教えてくれる大人はいなかった。身近にいる〈悪党の宝〉の構成員がハルカに遠慮していることを思えば、少年の思考がそんな風にずれていってしまうのも無理はない。
降りてきた中型飛竜の名前は『ムギ』。
比較的好奇心が旺盛で、時折〈黄昏の森〉の中心部まで羽を伸ばす個体である。
昨日に引き続きレジーナが森をうろついているはずであることを分かっていて、おやつを貰いにやってきたのであった。
ムギは、一斉に空に飛び立った他の中型飛竜たちよりも先にたどり着くことができてご機嫌であった。
勝手に下りてきたムギは、勝手に血の臭いをたどってタイラントボアが置いてある場所を探す。
沢のやや下流で水にさらしてあったため、ムギは沢をたどってどんどん少年の方へと近づいていく。頼りになりそうなレジーナは気にせず肉をかじっており、ムギを止める様子はない。
いよいよ目の前までやってきて、少年がもう駄目だと目を閉じた。
ムギはムギで、なんか人がいるなぁと足を止めてその様子を観察する。
拠点ではムギのことを怖がる人なんていないから、ちょっと珍しいのだ。
いくら待っても何も起こらず、少年が恐る恐る目を開けると、目の前にムギの顔。
体を跳ねさせた少年に、ムギは低い声でギュオギュオと鳴いた。
挨拶は大事だ。
意識が遠のきかけた少年の横をするっと抜けて、ムギは沢の下流へと向かっていく。
その時、ちょうど肉を食べ終わったレジーナが立ち上がり、ムギの後を追いかけて歩き出した。
「あ、りゅ、竜が……」
訴えかける少年を無視してレジーナはムギの下へ向かう。
ムギはちょうど肉の塊を見つけたところだった。
少年はムギとレジーナの姿を目で追いかけてぎょっとする。
ムギと同じくらいの大きさの肉が転がっているのを見つけたのだ。
これまではレジーナと焼いている肉ばかりを気にしていて、そんなにでかい肉が転がっていることも気づいていなかったのだ。
ムギが勝手に大きな口を開けて肉に噛みつこうとしたところで、レジーナがその尻尾を捕まえて後ろに引っ張る。
ガチン、とムギの歯が噛み合った。
痛くもなんともないが、おやつを邪魔されたムギが、文句を言いながら振り返る。
少年の表情は引きつっていた。
体格差は歴然。
竜の尻尾を引っ張るなんて自殺行為でしかない。
引っ張ったことでその大きな竜の体が引きずられたことは、あまりに理解の範疇を越えていたためか、脳が処理しきれていないらしい。
少年のフィルターを通して見えているものは、自分とさして変わらぬ怖い女の人が、竜の尻尾を引っ張り、今にも喧嘩が始まりそうな状況である。
実際はただのじゃれ合いのようなものだが。
「勝手に食うな」
レジーナがムギの鼻の頭を手のひらでたたくと、ムギがやっぱりぎゃおぎゃおと文句を言う。たくさんあるんだからいいじゃん、くらいに考えているのだろう。
しかしレジーナが黙ってじっと見つめると、文句を言う声はだんだんと小さくなってきて、やがてペタリと地面に顎をつけた。
ムギはレジーナが自分より強いことを知っている。
そりゃあ空を飛べば逃げることはできるが、おうちに帰れば会うことになるのだ。
ごめんなさいしておかないと、これから先おやつを分けてもらえなくなる可能性もある。
レジーナはムギの横を抜けて、肉を大きくいくつか切り取ると、ムギに向けて「分けて食え」とだけ言って、焚火の近くへと戻った。
そうして適当な枝に肉を刺して、また炎であぶり始める。
少年はムギが肉にかぶりついたところで、目を逸らして再びレジーナの方を見る。
今の一連で、この小さな女性がもしかすると竜よりも怖い存在であるかもしれないことが分かったのだ。悪い夢を見ているような気分だった。
レジーナは肉をあぶりながらそんな少年をまた睨みつける。
「何か言え」
レジーナは、うじうじとして何も言わない少年のことが気にくわなかった。
だが、このまま濡れ鼠にしておくと、後でハルカがごちゃごちゃとうるさそうである。
『言いたいことがあるなら言え、そうじゃなきゃ見てねぇでどっか行け、殺すぞ』、までが今の言葉に内包された意味である。
一方少年は突然の要求に目を白黒させるしかなかった。
レジーナが自分に何を求めているかわからない。
追いかけてくる舌打ちを恐れてか、熱を生み出せないのに水で冷えたからか体の震えが止まらない。
辺りに腹の鳴る大きな音が響く。
制御の利かない少年の体は、こんな状況にもかかわらずに肉の匂いにつられ、空腹を訴えることを選択したようであった。





