怪しげな経営者
「ちょっと行ってきますわ」
ヴィーチェは一言残して小部屋から出ていった。
店の客は少しずつ減ってきて、間もなく閉店の時間になる。
若い騎士とフラッドはいつも閉店間際まで残っているようだが、今日は話があるので閉店しても帰らずにいてもらわねばならない。別にフラッドは帰ってもいいのだけれど。
店へ出たヴィーチェは、ラジェンダに一声かけてから、若い騎士の隣に腰かける。
「あ、俺は別にいいので、ついてくださるのなら先輩の方に」
「ふふっ、私ここの従業員ではありませんの。そうですわね、経営者、ですわね。冒険者宿【金色の翼】の宿主ヴィーチェ=ヴァレーリっていいますのよ」
さりげなく耳を澄ませていたフラッドが、口に含んだ酒を思わず吐き出しそうになるのを辛うじて堪える。その拍子に喉に流れ込んできた酒で咳き込むと、両隣の女性たちが口々に「大丈夫?」と声をかける。
金払いが良く、身分もあり、それなりに行儀のいい飲み方をするフラッドは、従業員たちからは案外人気が高い。
「あら、どうかされましたの?」
ヴィーチェが流し目を送ると、フラッドは苦笑する。
「いやぁ、別に何でも」
一級冒険者というのは、騎士団にとっても気が抜けない相手だ。
粗相をしたつもりはなかったが、わざわざ出てきたということは、必ず何かある。
後輩の横に座ったことから、思い当たる節は一つだけ。
こんな場所で働いている女性は大抵玉の輿を狙っていることを知っていたからこそ、後輩を焚きつけてきたのだが、どうやらそれがまずかったらしいと気が付いたのだ。
背中にたらりと冷たい汗が伝ったが、知らない顔をしてグラスを傾けて様子を探る。
もちろんそんなことでヴィーチェの目を誤魔化せるわけもない。
フラッドが遊び上手なだけではなく、なかなか察しの良い優秀な騎士であるようだと評価を改めたところだ。
それを悟らせてしまった時点で、ヴィーチェからすればまだまだ青いのだけれど。
問題は経営者と知ってカチコチに固まってしまった若い騎士の方である。
「あっ、すみません、俺、その! 決して悪いことをしたつもりはないのですが! 何かご迷惑をおかけしているようでしたら謝罪します。すみません!」
「悪いことはしておりませんわよ? 誰かに恋をするのは当たり前のことですもの」
恋と言われて少しばかり頬を赤らめた新人騎士は、今度は逆に段々と青ざめていく。ヴィーチェが話したいことが、ラジェンダについてだとはっきり察したためだ。
にっこりと笑うヴィーチェ。
恋することは悪くない。
告白することだって、覚悟さえしっかりあるのならば、ラジェンダが相手でさえなければ悪いことではなかった。
ヴィーチェもそれは分かっているから、ことさらに責め立てるつもりはない。
それでもちょっと意地悪くプレッシャーをかけたのは、散々思い悩んでいたラジェンダの姿を見てきたからだ。
話してみればなるほど好青年だ。
ラジェンダがあまり嫌な思いをしてほしくないと考えている理由も分かる。こんな青年に素直に思いの丈を告白されたら、断り方に悩むのは当たり前のことだろう。
「店を閉めた後、残って下さる? お話がありますの」
「はい、すみません!」
それでも内容を告げずにちょっとだけ意地悪をしてしまうヴィーチェ。これはもう単純に彼女の趣味嗜好の範囲である。
「あ、すみません、こいつに何かあるのなら俺も残っても?」
「お帰りいただけませんこと? 大事なお話ですの」
「いや、俺が連れてきたし、俺の部下だ。何か責任取らなきゃいけないようなことがあるなら俺が」
「困りましたわねぇ……、ちょっと待っててくださるかしら?」
ヴィーチェは話を切り上げて裏に戻ってくると、ハルカたちに訊ねる。
「あっちの……フラッドってお方。お知り合いなのですよね? 信用できる方ですの?」
「……ええ、まぁ」
ハルカは一瞬だけ躊躇ったけれど、しっかりと頷いた。
お調子者でノンデリカシーな部分はあるけれど、頭はきれるし柔軟な男だ。
「でしたらこちらに連れてきてもよろしいかしら? できるならあの青年とラジェンダは、二人で話をさせてあげたいんですの」
「構いませんよ。……協力してくれるようなら、ラジェンダさんが人との接触を苦手とすることをお伝えしても?」
個人の体質のことだから、人に知られたくない場合もあるだろう。
しかし、フラッドであればさりげなく後輩のフォローをしながら、それ以上後輩が執着しすぎないようにフォローしてくれるのではないかと思ったのだ。
ヴィーチェは少しだけ悩んだけれど、こくりと頷いた。
「その方が話が滞りなく進むのであれば。一応ラジェンダにも確認してきますわ」
「はい、お願いします」
「では、伝えてきます」
ヴィーチェは再び部屋から出ると、ラジェンダにハルカの話を伝えて承諾を得る。
それから「ちょっと場所を空けてくださいまし」と言って、フラッドの周りにいる女性たちをどかして、膝が触れ合うほど近くに座り、耳元でささやく。
「残るのでしたら、代わりにあちらの部屋へ来ていただきます。責任、とって下さるのですよね?」
触れ合った場所や吐息から体温を感じるのに、フラッドはぞくぞくとした寒気を覚える。
ヴィーチェのことが嫌なわけではない。
ヴィーチェは傍から見ればとても可愛らしく上品な少女だ。
そういう問題ではなく、単純に自分よりも強いものに脅しをかけられているという恐怖であった。
まさか騎士に対して酷いことをするとは思っていないが、それでも知っている情報がフラッドに恐怖を与える。
ヴィーチェは素手で人をちぎり殺せるような、身体強化系の冒険者だ。
今の状態は喉元に凶器を突き付けられているのとさほど変わらない。
「ま、責任取るって話だからな」
「先輩!」
「ま、大丈夫だからのんびりしとけよ」
後輩騎士が心配するのにフラッドは手を振る余裕を見せ、体を震わせることもせず、軽く肩を竦めて立ち上がる。もちろん強がりだが、それを悟らせては後輩がもっと不安になってしまう。
フラッドはヴィーチェに案内されるがままに、何が待ち受けているかもわからぬ店の奥へと足を向けるのであった。





