避難訓練
街の中を屋敷に向けて歩いていると、大きな影が太陽の光を遮って飛んでいく。
バルバロに言われて、それならちょっと飛んでみようかな、と考えたナギが街の上空をぐるりぐるりと特に意味もなく飛行しているのだ。
街の人たちの多くは驚いて空を見上げたり、小さく悲鳴を上げて避難したりしている。街角の兵士が慌てて問題はないと説明しているようだが。説明している兵士たちの顔もどこか不安げなのが気になるところだけれど。
緊急事態にしては皆冷静ではあるが、まったくもって大丈夫と言える状況ではない。
「あの、なんか、すごいことになってますけど」
「ま、たまにはこんな刺激もいいだろ。ちょっと待ってくれ」
街の混乱をなんら問題視していないバルバロは、一言断りを入れるとずんずんと人の家へ入っていって、ややあってからその屋上に姿を現した。
「おーい、耳を貸せ!」
バルバロが一キロ先からでも聞こえそうな声を張り上げると、街の人々が慌てるのをやめて耳を澄ませた。兵士もどこかほっとしたような表情を浮かべている。
「あのでかい竜は俺の友人だ! 驚いてる奴がいたら伝えておけ!」
それだけ一方的に言ったバルバロは、屋根の端を掴み、ブランとぶら下がってそのまま地面に飛び降りる。
街のあちこちから「なんだ」とか「またバルバロ様か」とかいう、半分安堵、半分文句のような声が上がっているが、あれだけ慌てていた人々が一斉に落ち着いたのだから大したものだ。
「すごいですね」
「まことに……」
ハルカのつぶやきに行成が同意すると、大門も感心したように大きく頷く。
「褒めない方がいいよ、調子に乗るから」
「いやしかしな、これだけ街の民に信頼されてる為政者も中々おらぬぞ」
「毎日遊びまわってるからね」
エニシまでもが褒める中、イーストンが相変わらず厳しい評価を下していると、戻ってきたバルバロがイーストンの肩に手を回して「よし、行くか」と歩き出す。
「お前は何渋い顔してるんだよ」
「いたずらに街の人を心配させるものじゃないでしょ」
「いいんだよ、たまには。いざ何かあった時に大混乱して、押し合いへし合いで無駄に人死にが出ても困るからな」
「なるほど、避難訓練みたいなものですか」
ハルカが学校でやっていた時は、押さない、かけない、喋らない、の頭文字をとって『おかし』の心得なんて言ったものだが、今はどうなのだろうなと、遠い記憶と世界に思いをはせる。
「避難訓練か。そうだな、そんな感じだ。うまいこと言うじゃねぇか」
街の人から飛び出してくる「勘弁してくれよ、びっくりしただろ」などという文句を、適当に手を振って躱しながらバルバロは歩いていく。その距離の近さに、また行成は随分と驚いているようであった。
〈北禅国〉においては、武士階級と街の人の身分は明確に分かれていた。
戦の時には武器を持って共に戦ってくれるが、普段はこれ程近い距離感で接することはまずない。行成の父行連などは、民の声を聞くための投書箱などを設けていたが、それですら【神龍国朧】においては画期的なやり方であった。
やがて屋敷につくと、バルバロはマーレの頭を軽く撫でてから兵士に預ける。
紹介もなしにずんずんと奥へと進んでいくバルバロについていくと、やがて広いダイニングにたどり着き、バルバロはそのうちの椅子を一つ引いてどかりと腰を下ろした。
「食事は用意させている。久々の再会だ、のんびりやろうぜ。急ぎの用事があるなら先にどうぞだ」
バルバロがこんなに悠長に構えているのは、急いでハルカたちの下へ駆けつけた時、その表情に焦りのようなものがなかったからだ。行成と大門は緊張して思いつめたような表情も見られたが、バルバロにとっての主な客は、ハルカであり、イーストンであり、ノクトであり、ナギまでである。あとの三人はおまけみたいなものだから、バルバロ側から気にしてやる必要はない。
こちらから切り出しては藪蛇なこともあるし、ハルカに従ってやってきている以上、ハルカのペースというものだってある。
その辺りの判断は、バルバロもまた、大貴族の当主であった。
だったらバルバロがやることは、久しぶりの再会を喜び、街の発展を見せつけ、しっかりと歓待してやることなのだ。
ただ、ハルカが遠慮がちな性格をしていることは以前からの付き合いで見抜いているから、こうして用事があるならと水を向けてやった次第である。
「ああ、急ぎというよりは大事な用事はあります。こちら、リーサから預かってきた手紙です」
「げ、陛下からか。なんだ、なんか悪さがばれたか?」
「自分のところの王様からの手紙にそんな顔してる時点でね」
「僕の前でよくそんなこと言いますねぇ」
「冗談だって、ノクト殿。俺はいつだって女王陛下の忠実なる手足だぜ」
イーストンとノクトに突っ込みを入れられると、バルバロは肩をすくめながら、部屋の端に立っていた執事が差し出したペーパーナイフを受け取る。
その大きくて武骨な手には似合わず、繊細に手紙の封を破ったバルバロは、上から下までざっと目を通した。そうして顔を上げて行成と大門をじっと見つめ、もう一度手紙に目を落とす。
じっくりと上から下まで文字を追いかけて、それを頭の中に叩き込み、手紙を元あったように折りたたむ。
「なるほど、これは確かに大事な用事だな」
海賊侯爵の鋭い眼が、行成たちの器を計るように細められた。





