足りないもの
北方大陸の冬は気温が低い割に雪が少ない。
それは雨量が少ないからであるのだが、春が近づくにつれて冷たい雨や雪が降る日が増える。気象に詳しければそういった季節の移り変わりも、興味深く思えたのだろうなと、ハルカは黒雲を見下ろした。
先ほど前方に雨雲を見たナギが、高度を上げて雲の上へ出たおかげで、雨に降られずにすんだ。雲の上は気温が低いけれど、ナギの背に座っているとほんのりと温かい。
このまま真っ直ぐに王都〈ネアクア〉へ向かうと、途中で大竜峰の上空を通過することになるのだが、ヴァッツェゲラルドに会わせて朧からやってきた二人を脅かす必要があるだろうかと悩んでいるところだ。
問題があるとすれば、近くを通ればヴァッツェゲラルドもハルカたちに気付き、あとで文句を言われるであろうことくらいか。
「……行成さん」
であればどうするかは行成に決めてもらえばいい。
ヴァッツェゲラルドは話せばわかる真竜である。
同行者がその偉大さに遠慮してしまったとでも言えば、渋るようなフリをしながらも機嫌良く納得してくれる。
「この先に山がたくさんありまして、そこにヴァッツェゲラルドさんという、話ができる竜が住んでいるのですが立ち寄りますか?」
「喋る竜……。まるで神龍様のようだ……」
やはり【朧】出身のものからすると、そんな評価になるらしい。あちらでは神龍という存在は絶対的なものであるはずだから、対応が慎重になるのも無理らしからぬことだ。
「私が訪ねて怒りを買うようなことはないだろうか」
「大丈夫だと思いますが……」
戯れに攻撃を仕掛けてきた前例があるので、自信を持っての回答とはならない。
ハルカの反応を見た行成は、少しばかり悩んでから「では是非お会いしてみたい」と答えた。
「わかりました。では明日には向かうことにします」
元の位置に戻って腰を下ろしたハルカの耳に、ノクトの小さな声が聞こえてくる。
「慎重ですねぇ」
「わからないものは怖いですからね」
「はい、その通りです」
にじりにじりと寄ってきたノクトは、声を潜めて会話を続ける。
「ハルカさんは、領主や、人のまとめ役に必要なものはなんだと思いますか?」
「……決断力、でしょうか」
「おや、わかってるじゃないですかぁ。それが一番出てこないかと思ったんですけどねぇ。他にも色々とありますけれど、素早い判断と堂々とした態度は、それだけでついてくるものたちに安心感を与えられます」
ハルカがこれまで見てきた領主や王たちの多くは、個性が強い面はあれど、芯になるものがはっきりとしており、迷いの少ないものばかりだった。
自分では上手くできなくても、それが必要なことくらいはハルカにもわかる。
「では次の問題です。人を率いるものとなるために必要なものはなんです?」
「信頼とか、理想とかでしょうか」
「信頼はどうして得ます?」
「目標を共に……」
ハルカは答えから逃げていることに気づいて、一度目を泳がせてから正直に答えた。
「力です。道を示し、道を辿ることができるだろうと信頼されるための力を示す必要があります」
「そうです。あなたが王たり得るのは、あなたの力が信頼されているからです。わかりますね?」
ハルカが頷くと、ノクトはさらに尋ねる。
「ではリーサを王としたものは、王であり続けさせているものはなんでしょう?」
ハルカから見たエリザヴェータという女王は、ほぼ完全無欠の超人だ。
「決断力、でしょうか」
その中でも何が特別目立っているかといえば、一を聞いて十を判断するような頭の回転の速さと決断力だろうと考える。
「確かに、それはあの子の特に優れた面でしょう。他には?」
「忠誠心の高い部下の皆さん、とか」
エリザヴェータを熱狂的に支持するものは多い。
ハルカにはエリザヴェータが、吸血鬼の魅了にも近いカリスマを持ち合わせているように見える。
「それはどうして手に入れたのでしょうか?」
ハルカはエリザヴェータや部下たちの言葉を思い返す。彼らの多くは、元々高い地位にいたようなものたちではなく、どこかでエリザヴェータに拾われてきたものだ。
そこまで考えてから、ハルカはノクトの質問の核のようなものをようやく察した。
「リーサも、先代の王をマグナスに殺され、危うい立場でいたのでしたね」
「はい、そうです」
ノクトは目を細めて当時のことを思い出す。
燃えたぎる激しい感情を飲み込み、明晰な頭脳をひた隠し、鋭い目を細めて誤魔化し、表向きは唯々諾々と過ごす日々。
その一方で街の陰に紛れるように、慎重に、時に大胆に。そして今よりももっと苛烈に理想を語り、未来がないものに未来を約束して味方を増やしてきた。
時にはノクトの力を遠慮なく使い。
時には危険を冒すのにもたった一人で。
エリザヴェータはリーサという少女の顔を捨てて、忍耐強く女王になるための下準備をした。
頻繁に分の悪い賭けに自分自身をベットし続けながら。
「……交渉は、厳しいでしょうか」
「どう思いますか?」
問い返されて何も答えられないのが、今のハルカの答えであった。





