殻が割れる
自死を選んだ人たちに続いて、ハルカは白ひげの海賊を刺した女性のもとへ向かう。
途中で見つけたナイフを、これもまた階下に投げ捨てておく。もう指示を出すものが意識を失っているとはいえ、近くに凶器になりそうなものを置いておきたくない。
辿り着いた先で座り込んでいる女性の頬は腫れていた。
ハルカは患部に手を伸ばしながら、その女性に見覚えがあることに気がついた。彼女は街を出る前にもハルカが治癒魔法を施した女性だった。
そしてその女性の瞳はハルカをしっかりと見つめ返し、不安そうに揺れ動いていた。
◆
彼女は当たり前のように虐げられて生きてきた。
ただ、自分が虐げられていると理解したことはなく、生き方に対する疑問も持っていなかった。指示通りにできなければ折檻されるのは当たり前。
どんなに無茶なことを言われても、それができずに殺されたとしても当たり前の世界。
それが、彼女が生まれてこの方過ごしてきた島での当たり前だった。
彼女は今日失敗をした。
出した食事が熱すぎて舌を火傷したとか、そんな些細な話だった。その客は前回訪れた時には、冷めたものを食わせたと言って、彼女の隣にいた女性を一人連れていった。
物心ついた時から一緒に暮らし、働いてきた子であった。しかし、連れ去られていった子も、見送った彼女も、これが最後の瞬間だとわかっていてなお、その客に謝罪をすることしかしなかった。
連れ去られた子はもちろん帰ってくることはなかった。
いつものことだった。
いつものことなのに、彼女はそれからずっと、夢にその時の光景を見続けていた。
賢い彼女は今度は自分の番だと悟っていたし、それに抵抗する気もなかった。ただ教えられてきた通りに謝罪をしながら、その時が来るのを待っていた。
頭が割れるように痛んで、骨が軋む音を聞いて、初めて死ぬのが少し怖いと思った。
だがその時は来なかった。
絶対に逆らってはいけない相手は床で伸びていて、とんでもないことをしたはずのアルベルトやレジーナは、白ひげの海賊によって酷い目に遭わされることはなかった。
ハルカが近づいて、彼女の頬に手をかざすと、全ての痛みがスッと消え去った。
何か言っていた気がするけれど、彼女はその言葉を覚えていない。
ただ、ハルカの表情が気になっていた。
見たことのない表情だった。
眉が下がり、目は伏せられている。
なぜだかわからないけれど、胸のあたりがぎゅっと締め付けられ呼吸が苦しくなった。
空が暗くなり、仕事を引き継いで屋敷へと戻る。
部屋の隅に座った彼女は、さっきの胸の痛みが気になって、ハルカの顔を真似てみせた。
鼻の奥がつーんとして、近頃夢に見ていたあの光景が頭に浮かんだ。
それから先ほどの痛みを思い出した。
あの客が目覚めれば、きっと自分は殺される。
またあの痛みを味わうのかと思うと怖くなった。
死を目前にしたことで、彼女は初めてその先のことを考えた。死の先に何があるのか考えたら怖くなった。
平静な表情を装えなくなった。
カタカタと体が震えた。
ただ時間を過ぎるのを待っていると、部屋の扉が乱暴に開かれて白ひげの海賊からの招集がかかった。
怖かった。
失敗が怖くて死ぬのが怖くて、誰よりも先に白ひげの海賊のもとへ走り、並んだところで頬を強く張られた。
「てめぇが余計な失敗してなきゃこんなことにならなかったかもしれねぇ」
今直ぐ殺されるのかと思うと怖かった。
怖くて怖くて、そのおかげでかえっていつもの表情を保つことができた。
ナイフを手渡され、何かあれば死ねと言われた。
喉をついて死ぬのは痛そうだった。
怖くて怖くて怖くて、だから彼女は白ひげの海賊に従った。
ホールにいたハルカを見た。
白ひげの海賊の直ぐ横に立っていた彼女には、その横顔がよく見えた。この島では、彼女の知る世界では、白ひげの海賊は絶対の存在だった。
そのはずだったのに、白ひげの海賊は見たことのないような表情をしていた。吐き出す言葉は負けを認めているようなものだった。
彼女は考えた。
生まれて初めて、たくさんたくさん考えた。
たくさんたくさんたくさん考えて、怖くて怖くて怖くて、だから、白ひげの海賊がいなくなることを望んだ。
いつか一緒に働いてた子たちがそうされたように、手の中にあるナイフをしっかり握り、白ひげの海賊の体のうち柔らかそうな場所めがけて突き出した。
衝撃。
そしてふと気がつけば、彼女は床に転がっていた。
ゆっくりと歩み寄ってくる、ハルカの姿を見た。
それからぐったりと宙に浮いて血を流している白ひげの海賊を見て、恐ろしくなった。当然、生きているのではないかという恐怖だった。
「……また会いましたね。あなたのおかげで助かりました」
伸びてきた手が彼女の頬の近くで止まると、ズキズキとした痛みがあっという間に引いていく。
ハルカはそれでも不安そうに目を揺らす彼女に向けて静かに声をかける。
「もう大丈夫です。もう誰もあなたを傷つけません。安心してください」
ぽろりぽろりと彼女の目から涙が流れ落ちた。
ハルカは今までにない反応に驚き、しばし腕を彷徨わせた後、抱き寄せてその背中を撫でてやる。
「大丈夫ですから、もう怖いことはありません。大丈夫です」
ハルカは外からエニシが心配の声をかけてくるまでずっと、今までの分を思い出したかのように泣き続ける彼女のことを慰めてやっていた。





