微妙な約束
海賊たちの中に、この男を投げ飛ばせるものなど誰一人いなかった。
ただ、海賊たちは、ハルカが男より強いとわかっていてなお、長年手下として生きてきた根性が抜けず、今何もしなければ後で酷い目に遭わされるに違いないと恐れた。
だから動き出すことのできた半分はハルカに殺到し、残りの半分はエニシに向かって丘を駆け上がった。
これまでの経験からそうなることを想像していたハルカは、空に浮かべた火の矢を一つ、動き出した海賊たちの目前に打ち込む。
地面に刺さったそれは破裂し、土を吹き飛ばした。
海賊たちがいくら混乱していようとも、その一矢が人の部位くらい弾き飛ばせる威力を持っていることはわかる。
「その場で待機してください」
恐る恐る空を見上げ、そこに無数の火の矢が浮かんでいることに気づけば、もう動き出すことはできなかった。
しんと静まり返る中、治癒魔法を受けた男は目を覚ます。
ギリギリまでの記憶は確かにあったが、体の節々にあったはずの痛みは消えていて、目の前には先ほどと同じように、ハルカが構えるでもなく突っ立っていた。
違う点があるとすれば今は男がハルカを見上げていることと、空にたくさんの魔法が浮かんでいることくらいだ。
「降参しますか?」
男は悪知恵を回しながら、服についた埃を払いつつ立ち上がる。
「……降参……、するわけねぇだろコラ!」
男が放った渾身の一撃は、確かにハルカの頬を捉えた。
ハルカの体が傾いた。
ダメージはなくとも、重さや速度を殺せなければ体は動く。不意打ちだったら尚更だ。
「へっ、馬鹿が」
男が勝利を確信して無造作にハルカに腕を伸ばしたところで、その手首ががっしりと両手で掴まれた。
「わかりました、続けます」
血も出ていなければ、腫れた様子すらない。
確かに拳をぶつけた瞬間に、骨が砕ける感覚はなかった。それでも男には、今回の一撃こそは確実にクリーンヒットしていた確信がある。
だからこそ不気味だった。
「放しやがれコラ!!」
そう言って腕を振るってもハルカの手はびくともしない。やがてハルカの片手が離れ、開かれた手のひらの上に尖った大きな石が生成される。
それはハルカの手のひらから浮かび上がり、先端をぴたりと男の肩に向けて空中に停止した。
殺しはなし。
ハルカの言い出した約束だ。
「降参しますか?」
「や、やってみろコラ!」
ハルカはため息をついて石を放ち、男の肩を削った。痛みに呻き声をあげた男だったが、ハルカに向けて薄ら笑いを浮かべてくる。
いわゆる賊の頭を張るような者の中には、命よりプライドを大事にするようなものがたまにいる。ハルカはそういった類の人物を相手にすることが得意ではなかった。
「へ、へへ、殺しはできねぇようだな」
悪さをするこういう人物に対する対処は、問答無用で捕まえて官憲に突き出すか、殺すか、心が折れるまでいたぶるかの三択になってくる。
どこに突き出せばいいかわからない以上、ハルカが取れる手段は後者の二つに絞られてしまう。
「そういう決まりではじめてますから」
「じゃあ俺は降参しないから絶対に負けねぇぜ」
ハルカはすっかり困ってそのまま考え込んでしまった。その間も男は、手首をなんとか自由にしようと足掻いてみるが、どうやってもそれが外れることはない。蹴りも殴りも、今度は見えない障壁によって阻まれてとどきもしないのだからどうしようもなかった。
しばらく黙って考えていたハルカは、唐突にいいことを思いついて提案を持ちかける。
「わかりました。では、この島の周りに止まっている船を全て壊します。そうすればあなた方はどうやったって追いかけてこられませんので」
ひくっと男の目尻が動いた。
そうしてハルカは手を離す。
「もう降参しなくても構いません。私はこのまま出発して、近くで見た船全てに警告を発し、島内へ避難させた上で破壊します。ここがあなたの領有する島であるとするならば、それで問題は解決しますので」
「ま、待て、待てコラ!!」
この島は海賊たちの癒しの場だ。
海賊たちの争いは禁じられているし、船が壊された原因が男にあると分かれば大変なことになる。
目の前のハルカよりは弱くても、より獰猛で陰惨で残酷な奴らが、ありとあらゆる方法で男に復讐を試みることだろう。
「待ちません、決めました」
肩を両手で掴んでも、ハルカは男を引きずって歩いていく。
いい方法だと思ったのだ。
誰も死なない。そしてこの男たち以外には迷惑がかからない解決方法だ。
「わかった、降参する、降参だコラ!!」
ハルカは足を止めたが、負けず嫌いのこの男が、果たして約束を守るのか不安だった。船を全部壊して帰る方が無難なのではないかと迷ってしまう。
「私としては、その……追いかけてくる危険を排除できるので、船を全て壊してしまいたいのですが……」
「勘弁してくれ、絶対に追いかけない、約束する!!」
「……じゃあ、帰り際にもう一度この島に寄るので、その時にあなたが悪さをしていないか確認します。私がもう一度この島に来るまで待っていられますか?」
「もちろんだコラ!」
もちろん男はハルカがいなくなり次第こんな島トンズラして、しばらく自分の島に引き篭もるつもりだ。
「戻ってきた時にいなかったら、この近海の船を全て壊して回りますがいいですか?」
「……おう」
この辺には島が山ほどある。
自分のせいで船が破壊されたと知られなければそれでいいのだ。
そもそも船を破壊された奴らは、男のことなんて追いかけてこられない。むしろ自分たちだけがちゃんと避難できていれば、商売がしやすくなるというものである。
「ちなみにナギは【ロギュルカニス】から【神聖国レジオン】まで、三日もあれば往復できるので、逃げても絶対に見つけます。近隣の国には伝手がありますので、海図を借りることも簡単です」
「に、逃げねぇよ」
もしかしたら島で大人しく待っている方が正解かもしれないと思いはじめた男の背中には、たらりと冷や汗が流れていた。





