機嫌の話
「生きてる」
氷漬けから復活したラクトの初めの一言はそれだった。
命が失われかけたことも、テロドスに押さえつけられていることも気にとめず、ハルカを見て首をかしげる。
「今回は見逃しますが、二度目はありません」
ハルカの言葉を受けても、観察するようにじっと見つめ返すだけだったラクトは、そのままテロドスに担ぎ上げられて、仲間たちと共に〈黄昏の森〉へ去っていった。
ハルカとしてはデクトと話をしたかったのだが、この場でそれをするとまた馴れ合いになってしまいそうで声をかけられなかった。
完全に姿が見えなくなるまで見張って、全員でまとまって屋敷へと戻る。
途中でぽつりぽつりと雨が降り始めて、屋敷につく頃にはそれは本降りになっていた。きっと帰り道の神殿騎士たちはずぶぬれになっていることだろう。
屋敷についたハルカは、広間のソファに沈み込み、ぐったりと全身の力を抜いて天井を見上げる。
「…………疲れた……」
誰に言うわけでもない呟きは、近くに腰を下ろした仲間たちにも聞こえていたけれど、誰も返事をしなかった。呟きとはいえ、周囲に人がいるというのにハルカが丁寧な言葉を崩すことは珍しい。
当然の怒り、当然の対応であっても、ハルカの性格を考えれば精神的に相応の負担がかかったことは誰もが理解していた。
十数秒の沈黙ののち、大きなため息をついたハルカは首を起こして仲間たちの方を見た。
「怒るのって疲れますね」
「俺は疲れねぇけど? つーか、もっと怒鳴ってやった方がすっきりするぜ?」
「若いですね……」
「ハルカだって若いだろ」
「いや……、うーん、そうですね……。若いと言えば若いんでしょうか……?」
元の年齢と合わせてアラフィフとなったハルカだが、この世界のアラフィフ冒険者は中々若々しい。すぐ近くに百歳を超えている桃色の師匠がいるため、その半分も生きていないハルカは、若くないとも言いにくい。
「ハルカは怒り慣れてないし、アルと違ってさじ加減まで考えるから疲れるんじゃないかなー。無理やり感情抑えつけてる感じ? 私もアルと同じで、もっと怒ってもいいくらいだと思ったけどなー」
確かに怒りが湧き上がってきても、どうやってそれを伝えようかと考えてしまうところがある。普通怒りというのは、行動や言葉に直結しやすいものなのだが、ハルカは一度自分の常識のフィルターを通して外へ発しているので、余計な負荷がかかるのだ。
その上ハルカのフィルターには、そもそも怒りによって感情を外へ出すことは良くないという常識がある。やらねばならないという使命感と、素直な感情、それに持ち合わせた倫理観がぶつかり合って、ハルカの精神をすり減らしていた。
「そうそう、無理に抑えつけるから疲れるんですよぉ」
ノクトが尻尾の鱗を毛の細かいブラシでこすりながら間延びした声で同意する。
つい先ほどまでの、ハルカにしてみれば息がつまるようなやり取りも、ノクトにとっては日常とさほど離れていない場所にあるのだろう。少しばかり気持ちが高ぶっている仲間たちとは違って、本当に平常運転であった。
「……師匠も怒鳴ったりしなそうですが、コツとかがあるんですか?」
「こまめに発散することですかねぇ。後、いざとなれば何ができるか、自分がどう行動するかを理解しておくことでしょうか。ハルカさんは怒りが臨界点に達した時の自分を理解していないでしょうからねぇ。怒りの感情の制御が利かなくなることが、怖いんじゃないですか?」
「あぁ……、確かに」
「案外怒りの発露は普段の性格の延長上にありますから、そこまで心配しなくてもいいと思いますけどねぇ」
人生経験が豊富なノクトは、怒りとの付き合い方を知っているけれど、こればっかりは個人差もあるからアドバイスが難しい。そうではないかという言葉を投げかけて、ハルカ自身が気づき成長するのを待つしかなかった。
「……大竜峰で一回怒ってたです」
「あー、あれか」
「あれ危なかったよねー。急に空が暗くなって雷が鳴ってさぁ……」
当時の光景を思い出す仲間たちに、ハルカはうっと情けない顔をする。
感情の爆発。怒り、涙を流したのを見られたのは、思い出すだけで恥ずかしい。
あの日のハルカの感情は、そのままハルカが仲間たちに持っている気持ちである。
ハルカ自身は気まずい気持ちになっているけれど、あの時の光景を思い出している三人は、どこか嬉しいような誇らしいような気持ちになっていた。
生暖かい空気が流れて、ハルカがちょっとずつ小さくなっていくのをコリンの疑問が止める。
「……あ、もしかして今急に雨が降ってきたのもハルカの魔法?」
「いえ、特にそのようなことはしていませんが……」
「魔素が空に昇って雲が動いてた。ハルカのせいだ」
「え? そうなんですか?」
「そですね」
レジーナの言葉をモンタナが肯定。
まったく自覚がなかったハルカの耳に、ザーッと音を立てている雨音がやけに大きく聞こえてきた。
無自覚であっても、感情によって周囲の魔素が動くのだとしたら気をつけなければならない。
「師匠……、魔素って、感情と関係するものなのでしょうか?」
「うぅん、そうですねぇ。強い怒りや願いによって、魔法が暴走することは稀に聞きますねぇ。だからこそ魔法使いは平常心を保つことが大切だと言われるわけですから。詠唱を使用するのも、そのあたりの理由が関係してきたりもするんでしょうねぇ。逆に言えば、スワムさんのように感情を爆発させることで、魔法の威力を飛躍的に上げるような危険な人もいるわけです」
「あの、なんだか初めて聞く話があるのですが」
「えぇ、ハルカさんは基本的に落ち着いていて臆病なので、いちいち説明する必要もなかったですから。今話したので一応覚えておいてくださいねぇ」
ノクトがしれっと言い訳をしているうちに、食堂の方からユーリが出てきてハルカたちに声をかける。
「ご飯、できたから食べよ?」
「お、飯だ飯だ」
立ち上がってぞろぞろと食堂へ吸い込まれていく仲間たちを後目に、ハルカはノクトへお願いをする。
「後ほど感情と魔法について詳しく聞かせていただいても?」
「そうですねぇ……」
二人が食堂へ入るのを待っているユーリをちらりと見たノクトは、にっこりと笑って答える。
「ユーリには一から教えてあげてるので、互いの勉強のためにもそちらに聞くといいですよぉ。お願いしますね、ユーリ」
「ん、わかった!」
ユーリは嬉しそうに胸を張る。
ハルカと二人のんびり過ごせることも、何か役に立てることも嬉しい。
そんなユーリを見てまた一つ緊張していた気持ちがほぐれたハルカは、表情を穏やかにしてユーリに軽く頭を下げた。
「じゃあお願いします」
「任せて」
雨脚が少しずつ弱まり、音が小さくなっていく。
「機嫌が直りましたかねぇ」
「いえ、この雨はもう私のせいでは……」
どうやら無意識に雲をいじってしまったのは確かなようだが、今なお影響しているわけではないはずだ。
「空の機嫌の話ですよぉ。さて、ご飯ご飯」
ハルカの生真面目な返答に、ノクトは笑いながら食堂の扉をくぐるのであった。





