迷いの森の寂しがりな元主
ナギは夜中に目を開けると、おうちの前をうろつく輩をじーっと見つめる。
ここ数日毎日のようにやってきては、こそこそと動き回っているのだが、ナギが顔を動かすとすぐにいなくなってしまうのだ。
今日は動かないで観察してみようと、目だけを開けて黒ずくめの男を見つめていた。
これまで庭に入り込んできたことのなかった男は、今日はしばらくナギの様子を窺った後に、そろりそろりと庭へ足を踏み入れた。常にナギの挙動を観察しながら一歩ずつ進んできた男は、荷物から何かを取り出そうとしている。
ナギを警戒しながらの作業なので、進捗は遅々としたものだ。
男は先端に鉤が付いた縄をブンとひとまわしで、きれいに屋根に向けて放り投げた。
まっすぐに伸びていくロープの先端を、ナギが顔を動かしぱくりとくわえる。
その瞬間男は脱兎のごとく逃げ出した。
屋根に引っ掛かったらとるのが大変そうなのでキャッチをしてあげたのに、肝心の持ち主に逃げられてしまったナギは、少し困った顔をして、口からでろんと伸びたロープを眺めた。
それから静かに空に浮かび上がると、そのまま逃げた男を上空から探し、その行く先にぼとっと涎まみれのかぎ縄を落とし、おうちに帰ることにした。
変なものを口にくわえて持って帰ると、ハルカからぺってしなさいと注意されるのだ。
ナギはいい子なのだ。
なにせハルカがそういつも言っている。
ナギは、あの強くて優しいママを朝から困らせるつもりはなかった。
おうちに帰ってきたところで、窓から顔を出す人影を見て、ナギはそーっと着地をして、そちらを見ないようにしたまま目を閉じる。
「……ナギ、お客さんは帰ったのかしら?」
優しい声は、月の光がよく似合う美女、カーミラであった。
ナギがぱちりと瞬きをしてそれを肯定すると、カーミラは薄く静かな笑みを湛えて「そう」とだけ呟く。
ここはカーミラの居場所だ。
迷いの森の主は、自分の縄張りに入り込んできたものを敏感に察知すると、もしかしたら自分と一緒に暮らすことのできる何者かもしれないと、少しばかりの期待を込めて迎えに行くのだ。
そうしてただ迷い込んできただけのものだと知ると、皆、森の外へ帰してやるのだ。帰れぬ事情がないのなら、自分の居場所で暮らせるのが一番いいのだから。
幾人も幾人も、迷い込んできたものを森の外へと逃がしてきた。
生きて帰ったものが多いからこそ、迷いの森では人が迷うことがよく知られていた。
迷いの森の主は、気に入ったもの以外を森の外へ追い出す。
時折、魅入られた者だけが戻ってこられない。
神だというものもいれば、化け物だというものもいた。
迷いの森の主は、今はもう、迷いの森には住んでいない。
夜は吸血鬼の時間だ。
戦いが得意かどうかは別として、千年を生きる吸血鬼は、この世でも最上位にあたる強者であることは間違いないのである。
◆
暗殺を依頼されていた男は、しばし腰を抜かしてから、よろよろと立ち上がり、街の外縁部に向かって歩き出した。
手付金は貰っての仕事だったが、もううんざりだった。
大人しいと聞いていた竜は、男が近寄るといつもぱちりと目を開けて、首をもたげてくるのだ。
今日は初めて動きがなかったから、意を決して作戦を決行しようとしたが、もう二度と挑戦する気にならない。
二級冒険者の暗殺にも成功したことがあるのが売りだったが、流石に特級の拠点は無茶だったのだ。
腕さえあれば生きる道はどこにでも繋がっている。
もしあの竜が、かぎづめではなく自分に向かって口を伸ばしていたら、男は今頃原形をとどめていないだろう。ただのぐしゃっとした金属片になってしまった縄の先端を見て、男はぶるりと体を震わせた。
二度とこの街には帰るまい。
依頼者の命もどうやら風前の灯火だと聞いているし、手付金を貰えただけで充分である。
この日以後、オランズから【耳尽】と呼ばれた暗殺者が姿を消し、再びこの地に足を踏み入れることはなかった。
朝食を食べ終えてすぐ、ハルカたちは出発の準備を整えてナギの背中に乗り込んだ。
なぜか今日は目を逸らしがちなナギに首をかしげながらも、ハルカは「よろしくお願いしますね」と鼻先を撫でてやる。
ハルカはもしかするとカーミラが一緒に来るんじゃないかと思っていたけれど、どうやら生活のリズムがすっかり夜型に戻ってしまっているらしく、留守番をしているという返事が来た。
出かけ際にぎゅうぎゅうとユーリを抱きしめていたので、寂しいのなら一緒に来ればいいのにと思ったハルカである。
ナギの背に乗り込む前に、モンタナが何事かをカーミラに話しかけ、そしてユーリと同じように抱きしめられて足をプランとさせながら虚無な表情でそっぽを向いていた。
抵抗するほどではないが、不本意ではあるらしい。
可愛らしい見た目ではあるが実のところ年頃の青年なので、カーミラのような女性に抱きしめられるのは色々と思うところがあるのだ。
正確には抱き上げられているので、なお一層である。
「何を話してたんです?」
「土産いるか聞いたです」
「あー、それで」
背中に飛び乗ってきたモンタナにハルカが尋ねると、そんな答えが返ってきた。
大方気の利いた問いかけに嬉しくなったカーミラにああして抱きしめられたのだろうと推測して、ハルカは納得して頷く。
カーミラは人懐こいのだ。
特にハルカと小さな子供にはくっつきたがる。
サラもよく抱きしめられていた。
照れた顔で笑いつつも、あとで胸囲格差に打ちひしがれている姿をハルカは幾度か目撃している。
「それじゃあ、プレイヌへ行きましょうか」
背に乗っただけで地面から遠いというのに、ハルカの一言でナギが空に飛びあがると、冒険者と女誑しは慌ててナギの背にへばりついた。
すっかり慣れてしまっているハルカはそれを見て「大丈夫ですよ、障壁で柵を作ってあるので」と声をかける。
これまた慣れてしまっている仲間たちからの、外の景色が見たいという要望から、透過性のある柵にしてあるのが失敗だった。初めて乗る人がいるなら、ちゃんと見えやすいものにしておけばよかったなぁと反省し、障壁に色づけしていくのであった。





