・第94話:「悪辣(あくらつ)なる者:1」
・第94話:「悪辣なる者:1」
主を失った、デューク伯爵の城館。
教会騎士たちを引きつれ、聖母の威光を盾に城を一方的に占拠したヘルマン神父は、デューク伯爵の私室で彼が愛用していたイスに足を組んでふんぞり返りながら、指で自身のあごをもんでいた。
「ふぅむ……、あの小僧、怒りに任せて乗り込んで来るかと思えば、存外、慎重だな」
そう呟いた言葉は、エリックを嘲笑するものだった。
エリックが生き延びたというのはヘルマン神父にとっては予定外のことであり、問題であるはずなのだが、彼はその状況をむしろ[楽しんで]いる様子だ。
「ヘルマン神父。
いかがいたしましょうか?
反逆者エリックはこちらへと向かわず、いずこかへ向かっているとの報告を得ておりますが」
そんなヘルマンに、粛清された教会騎士の代わりに新たな部隊長となった教会騎士が、鎧の下からくぐもった声でたずねる。
「追跡ができているのなら、それでかまわん。
そのまま、泳がせておけ」
すると、ヘルマンはニヤリと不敵に微笑み、傲然とした仕草で足を組み変えながら言った。
「もちろん、ただ見逃すのではないぞ?
あの小僧がどこに向かうのか、しっかりと探るのだ。
確か、奴はエルフの小娘と行動を共にしていたな?
どういうツテかは知らんが、聖母様のご加護を受けしこの大陸に、まだ魔王軍の薄汚い残党どもが潜んでいて、あの小僧と協力しているということだろう。
なんと、汚らわしいことか!
ならば、どこかに根拠地があるはずだ。
そこまで小僧に案内させて、一気に叩いてしまえ。
塵も残さず、焼き払ってしまうのだ。
もちろん、その準備が整うまで、小僧どもには気取られぬように、な? 」
「はっ。かしこまりました」
教会騎士の部隊長はうなずくと、ヘルマンからの指令を実行に移すために部屋を退出していった。
「さって、と……。
果報は寝て待て、とは言うものの、できることはしておこう。
なにせ、あの小僧、なかなかしぶといからなぁ」
それからヘルマン自身も立ち上がると、部屋を出て、その隣の部屋へと向かう。
城館の中は、静まり返っていた。
元々そこにいた使用人も兵士たちも皆、それぞれの部屋へと帰らされ、そこで待機させられているからだ。
今、城館の内部にいるのは、ヘルマンと、教会騎士たちと、少女がただ1人だけ。
エリックが生き延びたと知ったヘルマンが教会騎士たちを引き連れて姿をあらわした時、城館は騒然としていた。
突然主を失い、状況もわからず右往左往していた城館の人々は、入城するヘルマンたちになんの抵抗も示すことができず、占領する作業は短時間で完了した。
今、彼らは自分たちがエリックを誘い出すための人質とされてしまったことにも気づかずに、ただただ、不安を抱えている。
それぞれの部屋に押し込められて外部との情報のやりとりもできないようにされた彼らは、ヘルマンの言いなりになるしかない状態で、息をひそめることしかできなかった。
ヘルマンはそんな静まり返った城館の廊下を、鼻歌を歌いながら進むと、扉の前に立った。
そしてノックもせずにその扉を開くと、なんの遠慮も配慮もなくずかずかと中に入っていく。
そこは、エリックの妹、エミリアの部屋だった。
壁やカーテンの色は明るい爽やかな色で統一され、家具などにはエミリアが野山で採集して来た草花の標本などが飾られている。
だがそれだけではなく、かわいらしいぬいぐるみや小物なども置かれているし、クロ-ゼットにはおしゃれな衣服がいくつもしまい込まれている。
いかにも活発な女の子の部屋、といった印象だった。
その部屋に入った瞬間ヘルマンを、甘ったるい、奇妙な香りが包み込んだ。
香が焚かれているのだ。
部屋の中心部分には外から持ち込まれたらしい、部屋の印象とはマッチしない宗教的な感じのするゴテゴテした見た目の香炉が置かれ、その中で甘ったるい煙を出すなにかが焚かれている。
それは、ヘルマンたちに占拠された城館に帰ってきて、デューク伯爵の死を知らされ、激しく動揺するエミリアを[落ち着かせるために]という名目で、ヘルマンが焚いていった香だった。
その、ともすれば吐き気をもよおしてしまいそうな、むせるような香りの中で、エミリアがたたずんでいた。
彼女は乗馬から帰って来た時そのままの格好で、部屋の中央に用意されたイスに腰かけている。
エミリアはヘルマンが部屋に入って来たことにも気づかずに、微動もしなかった。
その目は開かれ、眠っているような様子ではなかったが、だが、彼女にはなにも見えず、なにも聞こえていない様子だった。
そこに主体的な意識があるのかどうかさえ、怪しい。
「やぁ、エミリア嬢! 気分は、少しは落ち着きましたかな? 」
だが、エミリアに近づいて行ったヘルマンが自身の指をパチン、と鳴らしてそう言うと、エミリアはそれに反応して顔をあげる。
その瞳は、虚ろだった。
まるで、なにかの催眠術を受け、トランス状態に陥っている様子だった。
「はい……、ヘルマン神父様……
おかげで、だいぶ、気分が落ち着きました……」
エミリアは、感情を失ったような、抑揚のない声で答える。
ヘルマン神父が焚いた香によって、エミリアの表層意識はすっかり奪い去られてしまっていた。