・第86話:「馬車:5」
・第86話:「馬車:5」
ヒュン、と鋭く風を切る音を残して、矢がエリックの顔をかすめて飛び去って行く。
あと少しで、エリックはデューク伯爵が乗せられている馬車に追いつけるのに。
近づこうとすると矢を射かけて来る教会騎士がいるために、それ以上近づくことができない。
矢は有限だったが、矢が尽きるまで待てばいいと、悠長なことをしている余裕はなかった。
背後からは剣をかまえた教会騎士たちが追いつきつつあり、確実に、矢が尽きるよりも早くエリックに追いついてくるからだ。
なんとか馬車に追いつこうとエリックは馬を走らせたが、教会騎士はそれを阻止しようと、再び弓に矢をつがえる。
エリックは飛んでくる矢の軌道を見極め、鞘で打ち払おうと、弓をかまえた教会騎士の動きを注視する。
その時エリックは、自身の身体の周囲を、ふわりと空気の壁が覆い包む感触を覚えていた。
それは、魔法の力だった。
練り上げられた魔力が現実に干渉する力となって発現し、エリックの周囲に空気の分厚く強固な壁を作ったのだ。
教会騎士がエリックに狙いを定め、矢を放った。
しかし、その矢はエリックを包み込んだ空気の壁に弾き飛ばされ、あらぬ方向へと飛び去って行く。
エリックは、自分のためにこんな魔法を使ってくれる人物は1人しか思い浮かばない。
エリックがちらりと背後を振り返ると、曲がりくねった山道の向こうに、エリックたちからやや遅れて2人の仲間が馬を走らせている姿を目にすることができた。
クラリッサと、セリスだ。
そして、馬にまたがったクラリッサがかかげている魔法の杖の先端では、今もそこから魔法が放たれていることを示す、魔法の光が輝いている。
2人は、エリックを追いかけて来てくれていた。
そして、その力をエリックに貸してくれている。
(今なら! )
エリックは教会騎士からの攻撃をクラリッサの魔法が防いでくれているチャンスを狙って、一気に弓をかまえている教会騎士との距離を詰めた。
教会騎士は慌てて弓から白兵武器に切り替えようとしたが、エリックが接近する方がずっと早い。
エリックはその教会騎士に追いつくと、自分が乗っていた馬を乗り捨て、教会騎士に向かって飛びかかっていた。
エリックは今、鞘しか持っていないから、教会騎士と馬上で取っ組み合いになる。
全身を板金鎧で覆っている教会騎士に対して鞘は武器としてはほとんど役に立たなかったが、鎧のおかげで素早く細かい身動きのできない教会騎士に対しては、軽装のエリックの方が優位に立った。
エリックは自身を振り払おうとする教会騎士にしがみつき、鞘で何度もその兜を強打する。
それだけではほとんどダメージなど与えられはしなかったが、教会騎士をひるませることはできた。
エリックは教会騎士がひるんだ隙を狙い、再び手綱を奪い取って、馬上から教会騎士を引きずり落した。
これで、馬車とエリックの間に立ちはだかる者はいなくなる。
「行け! 行け! 行け! 」
今しか馬車に追いつくチャンスはない。
そう思ったエリックは馬を急かし、とうとう、馬車に追いついた。
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デユーク伯爵を乗せた馬車は、車輪をガラガラと勢いよく回し、砂利を蹴飛ばしながら山道を疾走し続けている。
片側には切土された山肌、その反対側には切り立った断崖。
険しく危険な山道を、馬車は4頭の馬に引かれて、今にもがけ下に落ちそうになりながらも全力で走り続けている。
護衛についていた教会騎士たちを突破したエリックは馬車に追いつくと、躊躇せずに馬車へと飛び移った。
まずは、馬車を制御している御者を制圧して、馬車を奪い取る。
それから、エリックのことを追いかけてきてくれたクラリッサとセリスと協力して教会騎士たちと、おそらくはデューク伯爵と一緒に馬車に乗っているヘルマン神父を倒し、デューク伯爵を奪い返す。
馬車に飛び移ったエリックは馬車の側面を伝って馬車の前方へと向かい、屋根の上に登ってから、御者を制圧するべく上から御者がいるはずの場所をのぞき込んだ。
そこには、2人の教会騎士が座っていた。
エリックはその2人を馬車から引きずり落すべ手をのばしたが、その肩をつかんだ瞬間、兜の隙間から見えたその教会騎士たちの瞳を見て、驚く。
それは、虚ろな、とても正気を保っているとは思えない瞳だった。
黄色く濁り、血走った白目に、意志が存在することを感じられない、暗く、光を感じられない瞳孔。
教会騎士はエリックに肩をつかまれてもなんの抵抗せず、御者の席に腰かけて手綱をきつく握ったままでいる。
まるで、精神を失った抜け殻、人形のようだった。
それだけではない。
よく見ると、その2名の教会騎士の身体には、まるで罪人のように鎖が巻きつけられ、御者の席から動くことができないようにしっかりと拘束がなされていた。
「やぁ! お久しぶりですなぁ、元・勇者殿! 」
その異様な様子の教会騎士たちの姿を目にしてエリックが絶句していると、背後からこの場には似つかわしくない、陽気な声がかけられた。
聞き覚えのある声。
忘れることのできない声。
その声に気づいてハッと背後を振り返ると、そこには、馬車の扉を大きくあけ放ち、客室から身体を乗り出すようにしてエリックのことを見つめている、ヘルマン神父の姿があった。