・第79話:「妹」
・第79話:「妹」
部屋の扉がノックされた音に、エリックは緊張した表情になる。
そして、クラリッサがエリックにかけられた黒魔術を調べる様子を、退屈そうに眺めていたセリスの顔色をうかがった。
エリックからの視線に気づいたセリスは、軽く肩をすくめてみせる。
[大丈夫だ]というサインだった。
「エリックお兄様! お出かけしましょう! 」
エリックが一応は警戒しながら扉を開くと、扉が開ききる前に、エリックの妹であるエミリアの、元気いっぱいな声が響いた。
扉の前に立っていたエミリアは、最近強いられている花嫁修業用の、貴族のお姫様らしいフリフリした衣装ではなく、乗馬する時などに身につける動きやすい服装をしている。
まるで男性のようだったが、それが、本来のエミリアだった。
「ちょっと、エミリー、声が、大きいから」
館中に響いたのではないかと思えるほど大きなエミリアの声に、エリックは慌てて人差し指を唇の前で立てる。
すると、エミリアはしまった、という顔をした。
デュ―ク伯爵、すなわちエリックの父親の城館であるここには、エリックをよく知る者たちしかいない。
使用人も兵士たちもみな、エリックがいることを知っているが、その秘密を守らねばならないということを心得ている。
だが、仮に、外からの客人でも来ていたとしたら。
それか、出入りの商人などがたまたまいたとしたら。
エミリアの大声で、エリックが生きていること、そして、デュ―ク伯爵の城館にいるということがウワサになってしまうかもしれない。
たかが、ウワサだ。
だが、エリックを探している教会騎士たちは、聖母の威光を振りかざし、問答無用でずけずけとこの城館にまで踏み入って来るだろう。
そんな事態は、避けたかった。
「ごめんなさい、エリックお兄様。久しぶりに、お父様が馬に乗る許可を下さったから、私、嬉しくって」
エミリアは素直にエリックに謝罪する。
どうやら、花嫁修業を優先させるためにここしばらく禁止されていた乗馬の許可が出たことで舞い上がってしまっていたらしい。
馬に乗ることは、エリックも好きだった。
自分で走るよりもずっと速く、風になって駆け抜けることができるし、なにより、馬は賢く、頼りになる相棒なのだ。
昔、魔王・サウラを倒すための旅に出る前には、エリックはエミリアとよく一緒になって馬に乗っていた。
ポニーの中でも小柄な種類の馬から始めて、大人が乗るような大きくて精悍な馬に。
エミリアは乗馬の才能があったのか上達が早く、エリックも本気を出さなければ、競争をしても負けてしまうことがしばしばあった。
久しぶりに乗馬の許可をもらったエミリアは、昔のように、エリックと一緒に遠くに出かけたい様子だった。
だが、エリックは、申し訳なさそうに曇ったような顔をするしかない。
「悪い、エミリ―。
オレは、一緒に外にはいけないんだ」
外に出れば、エリックを探している教会騎士たちにすぐに見つかってしまうだろう。
だからといって誰だとわからないように姿を隠してしまえば、まだ本当の事情を知らないエミリアから、どうしてそんなことをするのかと疑われてしまう。
エリックは、エミリアのせっかくの誘いを断ることしかできなかった。
「なんでよ、お兄様!
ずっと、お部屋にこもりっぱなしじゃないの!
そんなんじゃ、身体にも悪いわよ! 」
エリックが外に気軽に出られない事情を知らないエミリアは憤り、次いで、心配そうな顔をする。
長旅の疲れがあるから、と、エリックが部屋にこもりっきりでいることに最初は納得していたものの、さすがに数日もそういうことが続いてくると、あまり動かないでいると身体が鈍くなるし、不健康だと心配になってきたらしい。
エミリアがエリックを呼びに来たのは、一緒に馬に乗りたいという気持ちもあるだろうが、兄の運動不足を懸念してのことのようだった。
むー、と不服そうな顔をしていたエミリアだったが、どうどう、となだめようとするエリックの脇から、部屋の中にいる他の2人の姿を見て、なにかに気づいたようなハッとしたような顔をする。
クラリッサは、エリックよりは年上だったが、若々しいし明るくて姉御肌な性格をしていて、十分に美人だと言える容姿を持っている。
そしてもう1人、セリスは、人間との接し方にまだ慣れないのかエミリアに相対する時はいつもぎこちなかったが、端正な容姿で知られるエルフ族だから、当然、人間基準で言えば美女だ。
エミリアはエリックから、2人とも共に旅をした仲だと教えられている。
長い旅を男女が共にしたのだから、当然、そういうこともあり得るだろうと、エミリアには思えた。
「まさか! ……お兄様、不潔! 」
「いや、ないない」「ありえないわ」
あらぬ嫌疑をかけられ、クラリッサは苦笑しながら手を左右に振り、セリスは吐き捨てるような口調で言った。
「とにかく、オレは2人と話し合う用事があるから、外出はできないんだよ」
「どうしてよ!?
お兄様、せっかく帰って来たのに、私とちっとも遊んで下さらないじゃないの! 」
「それは、悪いと思ってるけど……。
けど、今は、どうしてもダメなんだ! 」
エミリアは納得できない様子だったものの、エリックはそれ以上の詮索を嫌い、半ば無理やりエミリアを追い出して、バタン、と扉を閉めて彼女を締め出す他はなかった。
「お兄様! エリックお兄様! 開けて! 開けてったら! 」
エミリアはあきらめきれないらしく、ドンドン、とエリックの部屋の扉を叩いていたが、エリックが自身の身体を使ってバリケード代わりにして扉を塞いでいるために、彼女の力ではもう、どうすることもできない。
やがて、エミリアはエリックを部屋から連れ出すことをあきらめ、1人だけで乗馬に出かけることにしたらしい。
「エリックお兄様の、バカ! 」
最後にエミリアが悔しそうに、涙ぐんだように口にしたその言葉は、エリックにはっきりと聞こえていた。