・第74話:「研究室:1」
・第74話:「研究室:1」
エリックとセリスを隠したまま進んだデューク伯爵の馬車は、魔法学院に入る手前でも教会騎士たちによる検問を受けた。
だが、ここでもデューク伯爵は銘酒を渡すことで教会騎士たちのご機嫌を取り、無事に切り抜けた。
「やれやれ。学長と飲みたいと思っていたのに、酒がなくなってしまったぞ」
教会騎士たちに酒を取られてしまった形になったデューク伯爵だったが、おそらくは肩をすくめながらぼやいたその言葉は、明るいものだった。
なぜなら、馬車はすでに魔法学院の校門をくぐりぬけ、教会騎士たちの手がおよばない校内へと入っていたからだ。
やがて馬車は魔法学院の、学長の執務室などがある建物の前へと到着すると、そこで停止した。
そして、サスペンションを取り外してエリックたちが隠れる場所を作ったために乗り心地の悪化した馬車に乗っていたためか、少しふらついた様子のデューク伯爵が馬車を降りて、周囲の安全を確認してくれる。
「エリック。セリス殿。……出てきてもらっても、大丈夫なようだ」
やがて、周囲に誰もいないことが確認できたようで、デューク伯爵が小声でそう教えてくれる。
エリックとセリスはさっそく、隠れていた場所のフタを開けて、馬車の客室の床下から外へと出た。
ずっと腹ばいになって馬車に揺られていたから、いろいろともう、大変だ。
足元がふらふらとするし、筋肉や関節もこわばってしまっている。
だが、エリックもセリスもどうにかまともに立って、素早く物陰へと走った。
エリックは公式には[死んだ]ことにされているから、事情を知らない人々にその姿を見られるわけにはいかなかったし、なにより、エルフであるセリスがここにいるのが見つかってしまっては、それだけで大騒ぎになる。
事情を知らない人々にとっては、エルフたち亜人種はすべて[敵]なのだ。
エリックもセリスも、うまく人目につかずに物陰に隠れ潜むことができた。
そして、エリックが物陰から顔を少し出してデューク伯爵の方を確認すると、伯爵はほっとしたようにうなずいてみせる。
そうして、エリックとセリスは、デューク伯爵と別れて行動することになった。
次にデューク伯爵と合流するのは、クラリッサを説得するか、強制的に連れ出して、馬車に戻って来た時になるはずだ。
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魔法学院は広大な建物だ。
聖母の庇護の下、多くの人間が暮らしているサエウム・テラにはいくつか魔法学院と呼ばれる魔術師たちの学校があるが、ここはその中でも最大規模で、単に[魔法学院]と言った場合にはこの場所を指すほどに有名で、巨大だった。
だが、エリックはその内部構造の知識を持っていた。
エリックには強い魔法の才能はなかったものの、様々な叡智を学ぶために、デューク伯爵のはからいでこの魔法学院に通っていたことがあるからだ。
当然、クラリッサがいるはずの、魔術研究室の場所も知っている。
勇者として選ばれ旅に出る前に、何度かそこでクラリッサと会ったことがあるからだ。
デユーク伯爵が調べてくれた情報によると、クラリッサは、実地調査などを好む彼女の性格らしくなく、研究室にこもりきりになって魔術研究に没頭しているらしい。
生きていくのに最低限のことをする以外はずっと研究室にいるということなので、そこに行けばほぼ確実に、クラリッサに会うことができるはずだった。
魔法学院は長い歴史を持つ施設で、その建物は何度も増改築をくり返され、複雑な造りになっている。
そこでは大勢の魔術師、そして魔術師見習いたちが魔術研究のために動き回っていたが、複雑な構造のおかげでエリックたちが身を隠すことのできる場所はいくらでも見つけることができ、2人はクラリッサの研究室まで無事にたどり着くことができた。
2人は、クラリッサの研究室の扉の前へとたどり着き、そっと静かに、身体を壁によせる。
そしてセリスが偵察兵として鍛えられた聴覚を使って、扉を開かないまま、研究室の内部の様子を探った。
しばらくして、セリスはエリックに向かって小さくうなずいてみせた。
どうやら、研究室の中に誰かがいるようだ。
エリックが音を立てないようにそっと扉を開くと、研究室の奥の方に、確かにクラリッサが立っている姿を目にすることができた。
黒髪に、長身でスレンダーな体型。
後ろ姿だったが、それは間違いなく、クラリッサだった。
クラリッサは、エリックとセリスに見られていることに気づかない。
彼女はたくさんの古くて分厚い書籍が納められている本棚の前に立ったまま、おそらくは本棚から取り出した本を、かなり集中して読み込んでいる様子だった。
エリックとセリスは、お互いに視線を交わし合い、うなずき合う。
そして2人はゆっくりと研究室の中へと入り込み、そっと、クラリッサへと近づいて行く。
研究室の中は、薄暗かった。
明かりは、本を読んでいるクラリッサの近くにしかなく、部屋には日光によって本が傷むのを避けるためなのか、窓が少ないからだ。
部屋の中の唯一の光源は、クラリッサの近くで、空中にふよふよと浮かんでいた。
どうやら蝋燭の明かりではなく、魔法の明かりのようだ。
薄暗い中に浮かんだ光源を直視して、一瞬、エリックの目がくらむ。
その一瞬の間に、エリックのつま先が、どうやら床に落ちていたなにかにぶつかった。
「ふへっ?
えっ、誰っ!? 」
コツンという小さな物音に気がつき、クラリッサが慌てたように本から顔をあげ、背後を振り返る。
同時に、魔法の光がクラリッサの意志を受けて明るさを増し、エリックとセリスをはっきりと照らし出した。
「え!? あんた、エリック!? 」
そしてクラリッサは、姿勢を低くしてこっそりと近づいてきていたエリックの顔を見て、目を丸くして驚く。
だが、次の瞬間、彼女は近くに置いてあった魔法の杖を手に取っていた。
「違う!
エリックが、エルフと一緒にいるはずがない! 」
どうやらクラリッサは、エリックと一緒にいるセリスの姿を見て、一気に警戒心を強くしたようだった。
そしてすかさず、エリックには聞き取れないほどの早口で呪文の詠唱を開始する。
研究室の中で魔力が渦を巻き、徐々に力となって練り上げられていく。
それを肌で感じ取ったエリックとセリスは、間髪入れずにクラリッサに向かって行った。