・第59話:「血の記憶」
・第59話:「血の記憶」
重苦しい沈黙が、部屋の中を包み込んでいた。
リーチは、死んだ。
エリックに、なんの情報も与えないままに、死んだ。
エリックの復讐は、1つ、果たされた。
だが、少しも嬉しくなどない。
エリックの、セリスの目的が、大きく遠ざかってしまったからだ。
セリスに口を塞がれたままのリーチの愛妾が、すすり泣いている。
どうやらくぐもった声で命乞いをしているようだったが、エリックにもセリスにもそんなことはどうでもよかったし、元々愛妾の命を奪う予定はなかった。
問題なのは、途絶えた手がかりをどうやってつなげるか、それだけだ。
魔王軍の残党にとって、勇者と魔王の力を同時に得ることこそが、最後に残された形勢逆転の切り札だった。
かつては人類を劣勢に追い込むほどだった魔王軍だったが、今はその大部分が殲滅され、聖母に支配されている人類と戦い続け、そして勝利するためには、どうしてもエリックとサウラの力が欲しかった。
エリックにとっても、そうだ。
自分が、自分でなくなって行く。
自分は、やがて、人類を滅ぼす邪悪である、魔王へと変異していく。
そんなことは絶対に嫌だったし、クラリッサに頼る以外に、この状況を抜け出せるという希望はなかった。
セリスは、リーチの愛妾を取り押さえたまま、複雑そうな視線をエリックへと向けている。
情報源であるリーチからなにも聞き出せないまま殺してしまったエリックを非難したい気持ちもあるが、同時に、咄嗟にリーチを串刺しにしていたエリックの気持ちも、理解できるという顔だった。
エリック自身も、考えがぐちゃぐちゃで、どうしたらよいのかわからなかった。
リーチのことは、憎くて憎くて、しかたがなかった。
必ず復讐すると、殺してやると、そう誓っていた相手だった。
だが、エリックは復讐を1つ果たしたが、同時に、自分自身の手で、魔王・サウラと分離し、元の自分に戻るという希望を潰えさせてしまったのだ。
(勇者・エリックよ。……我が力を、使うのだ)
だが、戸惑っているエリックの中で、サウラが囁いた。
(今の汝であれば、人の子から、より、魔王である我に近づいた汝であれば、我が力、一部ではあるが、使えるはずだ)
(お前の、力……? それは、いったい、なんだ? )
エリックは、実際に戦ったのだから、魔王・サウラが強大であったことを知っている。
バーナードがその身を挺し、仲間たちと協力しなければ、倒せなかった相手なのだ。
だが、その強大な魔王の力といえど、死者から情報を聞き出せるとは思えなかった。
(汝の手を、この者の血の中に、浸すのだ)
だが、サウラは、自信ありげな様子で言う。
(さすれば、汝は、汝の知りたいことを、知ることができるであろう。……この、欲深き者がそれを知っていれば、ではあるがな)
すでに死んだ者から、いったい、なにを知ることができるというのだろう。
エリックはそう疑問に思わずにはいられなかったが、それでも、サウラに言われた通り、リーチから流れ出した血に、自身の手を浸した。
エリックにはもう、たとえそれが魔王であっても、その言葉に従う以外に希望を見つけることができなかったからだ。
エリックの手がリーチから流れ出した血だまりに触れた瞬間、エリックの目の前に、いくつもの光景が浮かんだ。
それは、猛烈な勢いで流れる濁流のように、エリックめがけて押しよせてきて、そして、駆け抜けていく。
エリックは、それが、リーチの記憶だということに気がついた。
リーチの血に触れた瞬間、エリックの中に、リーチの記憶が、意識が、流れ込んできたのだ。
それは、走馬灯と呼ばれるものに似ていた。
ほんの一瞬の間に、死した者が、生まれてから、これまでに経験してきた記憶のすべてが、流れ去っていく。
流れ去っていく記憶の中から、エリックは、できるだけの情報を引き出そうとする。
どうやら記憶は一方通行のようで、エリックの意識の中にあらわれては消えて行くリーチの記憶は、前に戻ってもう一度見るといったことができないようだった。
リーチの、貧しく、惨めで、すさんだ幼少時代。
親兄弟を飢饉で失ったリーチは、盗賊となる他に生きていくことができず、数々の盗みを働き、時には人を傷つけ、殺した。
そして、エリックと出会い、共に旅をする間、巧妙にずっと隠し続けてきた感情。
高貴な生まれであるエリックに対する、嫉妬、妬み。
そして、リーチが経験してきた[現実]を知らないエリックに対する、蔑み。
リーチが、エリックを裏切る聖母たちの陰謀を知ったのは、偶然のことだった。
内心では[理想ばかりの、苦労知らずのボンボン小僧]であるエリックのことを嫌い、蔑んでいたリーチは、後で脅してその愚かさを思い知らせてやろうとその弱みを探していて、その時偶然、ヘルマン神父とリディアが、エリックをどうやって始末するか、打ち合わせをしている場面に出くわした。
リーチはヘルマン神父に殺されそうになるが、しかし、自ら協力を申し出て、エリックへの裏切りに参加した。
そうしてリーチは、ずっと、改心したふうをよそおい、エリックをあざむき、裏切りを実行に移す瞬間を待った。
エリックの、絶望に歪んだ顔を見るためだけに。
「エリック! ねえ、しっかりしなさいよ! 」
気がつくと、エリックの目の前にはセリスの不安と心配の入り混じった顔があった。
どうやらエリックは、周りから見ると気を失ったようになってしまっていたらしい。
「あ、ああ……。大丈夫だ。もう、大丈夫だから……」
人の一生の記憶を、ほんの一瞬の間にすべて見せられたエリックは、軽い頭痛を覚えながら、どうにかセリスにそう言う。
だが、それが精いっぱいで、それ以上セリスになにかを言う余裕はなかった。
リーチの経験してきた時間、人生をほんの短時間の間に見て、その情報量の多さにエリックの精神は追いついていない。
リーチの記憶は流れ去って行き、すべて、消え去った。
リーチの亡骸はもう体温を失い始めており、ピクリとも動かない。
その記憶も、意識も、雲散霧消して、残らない。
だが、収穫は、あった。
エリックはリーチの記憶から、エリックを裏切る陰謀の情景を見て、仲間たちの内で誰が裏切っていたのかを確かめ、それから、クラリッサの居場所についての情報も得ることができたのだ。
エリックを裏切っていたのは、やはり、ヘルマン神父、聖女・リディア、元盗賊・リーチの、3人だけ。
魔王との戦いの際、近くにいた教会騎士団の騎士たちも、全員がグルだ。
しかし、クラリッサは、エリックを裏切っていなかった。
彼女はそもそも、聖母たちがエリックを騙し、裏切り、利用しようとしていたことを知らなかったのだ。
そして彼女は、魔王・サウラを倒し、世界を救済するという戦いを終えた今、魔法学院に、彼女の元々いた場所に戻り、中断していた魔法研究に取り組んでいる。
これで、かろうじて、希望の糸がつながった。
エリックが次に目指すべき旅の目的地が定まったのだ。