・第38話:「尖塔:3」
・第38話:「尖塔:3」
リディアは、どこに行ったのだろう?
エリックがそう思った直後には、リディアはもう、エリックの至近距離にいた。
ドスン。
エリックの胴体を、衝撃が貫く。
「……え? 」
エリックは、その衝撃を受けた瞬間、呆けたような声を漏らしていた。
見開かれたエリックの瞳に、まるで、エリックによりかかるように密着したリディアの姿が映っている。
高原に清楚に咲く小さな花のような、甘く、繊細で、優しい香りがエリックの鼻腔に届く。
エリックに触れるリディアの感触は、細く、軽い。
だが、確かに、彼女の体温を感じ取ることができた。
エリックは、震える手で、リディアの、エリックが思っていた通りに華奢な身体をつかむ。
そして、たずねた。
「リディア……? どう……、して……? 」
そう言ったエリックの口元から、つつつ、と、鮮血が筋を引いた。
「勇者様。……なぜ、ここへ、戻ってきてしまわれたのですか? 」
そんなエリックの姿を、リディアは、潤んだ瞳で見上げ、心からの悲しみの込められた、憂いのある表情で見つめた。
「どうして……、2度も私は……、あなたを、殺さなければならないのですか? 」
そして、エリックから視線をそらしたリディアがそう言った直後、エリックの身体から、リディアの聖剣が引き抜かれる。
ずる。
ずる。
深く、根元まで突き刺さり、エリックの胴体を貫いたリディアの聖剣は、エリックの血にまみれながらエリックの身体から離れた。
同時に、支えを失ったエリックはよろよろとした足取りで、後ろに下がる。
口から鮮血をこぼし、悲鳴もあげられず、リディアにそれ以上なにかを問いかけることもできないままに、エリックはあとずさっていく。
エリックは、その場に立っていることができなかった。
膝をつかないだけで、精一杯だった。
その腹部には、紅い染みが急速に広がり、布地で吸収しきれないそれはしたたり落ち、エリックがいた場所に点々と模様を描いていく。
そんなエリックの姿を、リディアは、エリックを貫いていた血塗られた聖剣をその手に携えながら、悲しげな表情で見つめている。
エリックは、思い出していた。
リディアは、聖女として選ばれる以前は、教会に所属し、聖母に仕える修道女であったということを。
自分は、どうして、そんなことにも気がつかなかったのだろう?
エリックは自分自身の愚かしさを思い知らされていた。
リディアは、エリックを剣で突き刺した。
その事実が起こる以前に、エリックは十分に、そうなる可能性を予想できたはずなのだ。
つまり、聖母によって裏切られ、始末されることが最初から決まっていたのは、エリックただ1人だけだったのだ。
勇者と対を成す存在、聖女。
エリックは、そうであるのだから、リディアもまた、自分の側にいる人間なのだと勝手に思い込み、決めつけていた。
だが、違う。
リディアもまた、エリックを裏切った聖母の側の人間であり、そして、エリックを始末せよと命じられ、実行に移した実行犯なのだ。
それは、エリックの身体を貫いた、リディアの聖剣の、その感触が、如実に物語っている。
魔王城で、エリックを背後から貫いた刃の感触。
そして今、エリックの身体を貫いた、聖剣の感触。
それは、まったく同じものに思えた。
エリックは、自分を後ろから突き刺したのは、リーチだと思っていた。
リーチは元盗賊だったし、そのような卑劣なことでもしかねないと、エリックはそう思った。
だが、エリックを突き刺したのは、リディアだったのだ。
なぜ、2回も殺さなければならないのか。
リディアが口にしたその嘆きの言葉が、すべてを物語っている。
エリックは、思わず、笑顔を浮かべていた。
腹の底からあがって来る自身の血で喉を塞がれていなかったら、エリックはきっと、声に出して笑っていただろう。
すべてが、バカらしかった。
結局、聖母から裏切られ、使い捨てにされたのは、エリックただ1人だけ。
エリックだけが、道化を演じ、それを知らされないまま、必死になって勇者としての使命を果たそうとしていたのだ。
エリックが浮かべる乾いた笑みを、リディアは悲しそうに見つめ続けている。
その表情は、本当に、悲しそうで。
エリックの死を、エリックを殺さなければならない自分の役割を、本当に、心の底から嫌悪しているようで。
だが、そんなことは、エリックにはなんの慰めにもならない。
エリックはリディアによって2回も殺され、自分を裏切り、もてあそんだ聖母にも、その聖母に従ってエリックを裏切ったヘルマン神父にも、リーチにも、復讐することもできないまま消えるのだから。
エリックが続けてきたすべての努力は、その人生は、無意味だったのだから。
エリックは、ごぼごぼ、と、声にならない声を立てて、笑った。
そしてそのまま、バランスを保っていることができずに、後ろに向かって倒れこむ。
エリックが倒れた先には、なにもない。
そこは、尖塔の端で、エリックの身体は手すりを乗り越えて、支えるモノのなにもない空中だった。
エリックの意識は、深い暗闇に塗りつぶされ、自身の身体が重力に引かれて落下し、水面に叩きつけられる強い衝撃を感じた瞬間、ブツリと途絶えた。