・第36話:「尖塔:1」
・第36話:「尖塔:1」
エリックは、自分がなぜ、逃げているのかさえ理解できないまま走り続けた。
走るのに邪魔になる全身鎧を、自分の手だけで脱げるところは脱ぎ捨て、できるだけ身軽になりながら、エリックは聖堂の出口へ向かって走った。
自分は、裏切られていた。
この世界に暮らす人々から信仰され、エリック自身も信仰していた、聖母によって。
走り続けるエリックの頭の中を支配しているのは、その、思い知らされたばかりの現実のことだけだった。
ヘルマン神父と、リーチに裏切られた。
エリックはそう思っていたが、現実は、そんな程度ではなかった。
エリックは、聖母に裏切られていた。
途中からではない。
最初から。
エリックを勇者として選び、加護を与え、魔王・サウラを倒すために旅立たせた、その時から、ずっと。
エリックはその役目を果たした瞬間、始末されることになっていたのだ。
エリックが夢見ていた、栄光も、その先にある平穏も、最初からそんなものは存在しなかった。
エリックがこれまで努力してきたこと、そのすべてを捧げて立ち向かって試練を乗り越えた先に、エリックが得たいと願っていた[結果]は、どんなに頑張っても、エリックには得られないように[決められていた]。
すべてが、無駄だった。
道化だった。
エリックが乗り越えてきた辛さも、苦しさも、すべてが無駄。
その先には、なにもつながっていなかった。
エリックのこれまでの人生は、すべてが、報われないように[された]。
聖母はエリックを勇者として選び、騙し、もてあそんでいたのだ。
そして、聖母のことを信じて疑わないエリックは、聖母の思い通りに踊り続けていた、ただ滑稽で愚かな存在だった。
もう、エリックには、なにも考えられない。
自分が信じていたすべてに、世界そのものに裏切られていたという事実だけが、ぐるぐると頭の中で回っている。
それでもエリックの足が止まらなかったのは、ただ、バーナードの「逃げろ」という言葉があったからだった。
バーナードは、エリックに残されたただ1つの、確かな真実だった。
彼はずっとエリックの親友で、エリックのために命をかけ、危険を冒し、今もただ1人、エリックのために戦ってくれている。
その、バーナードに逃げろと言われたから。
生き延びろと背中を押されたから。
エリックは、必死に走っている。
「追え! 逃がすな! 勇者に化けた魔物を捕らえよ! 」
そんな叫び声をあげながら、あちこちから教会騎士たちが集まって来る。
ヘルマン神父は、いや、聖母は、[そういう筋書]にして、エリックを葬り去るつもりであるようだった。
そうして、エリックが始末されれば、なにごともなかったことになる。
勇者・エリックは聖母たちによって[世界を救うために犠牲となった英雄]として称えられ、祭り上げられ、そう人々から信じられることになる。
そしてそれは、聖母が人々にもたらす[加護]、[恩恵]の象徴となり、人々が聖母を信仰する新たな理由となる。
聖母たちにとって、エリックは道具に過ぎなかった。
自分たちへの人々からの信仰を維持し、強めるために用意された、用済みになればポイ捨てにされる、ただの道具。
もうすぐ、エリックは聖堂の出口へとたどり着ける。
聖堂の出口が見えて来たと思った瞬間、エリックは、そこが完全武装した教会騎士たちによって塞がれていることにも気がついた。
なぜ、こんなことも気がつかなかったのか。
足を止め、どこかに逃げ道がないかを探しながら、エリックは自分の愚かさを自嘲した。
裏切りが聖母自身の手によってなされていたこと、自身の運命がただの道化でしかなかったことに動揺し、冷静さを失っていたエリックは、ヘルマン神父がエリックを取り囲む前に、エリックが聖堂から外へと逃走することを防ぐために出入り口を封鎖するだろうということにさえ気づいていなかった。
(こんな程度だから、オレは、騙されるんだ。利用されるんだ)
エリックは、思わず、自分を嘲笑う声を漏らしていた。
もう、ショックを通り越して、おかしくてしかたがない。
だって、お笑い種ではないか。
自分は聖母に選ばれた勇者だと信じ、抱いて来た誇りも、使命感も、すべて、聖母に利用されていると気づかないエリックが勝手に持っていたものなのだ。
エリックは無邪気に、純粋に、聖母の手の平の上で、誘導されるがままに踊っていただけの、道化なのだ。
エリックは自身の拳を強く握りしめると、自分の膝を殴りつけた。
そうして、絶望のあまりすくんだ足に、折れそうになる心に活を入れると、エリックは自分のすぐ近くに見えている、上へと向かう階段へ走った。
前からも、後ろからも、教会騎士たちがエリックを追ってきている。
彼らはエリックを捕らえれば、問答無用でエリックの息の根を止めるだろう。
聖母が描いた[筋書]では、エリックは魔王・サウラとの戦いで死んでいなければならないからだ。
だから、エリックが生きるために逃げる道は、少しでもその生命を長く保つ道は、上に逃げるものしかない。
それは、聖堂に天高くそびえたつ尖塔へとのぼっていく道だ。
エリックたちの帰還を祝うために打ち鳴らされた鐘が設置され、その鐘の音を遠くにまで鳴り響かせるために高く高く作られた尖塔。
結局、エリックは教会騎士たちによって追い詰められていることには違いない。
尖塔を登りきったところで、そこから安全に降りる手段はエリックには見当もつかず、尖塔へのぼることは、時間稼ぎにしかならない。
だが、エリックは、少しでも逃げて、逃げて、逃げ続けるつもりだった。
自身を裏切った、聖母。
その裏切りを知らずに、ありとあらゆる苦難に立ち向かって来た、自分の人生。
聖母たちに少しでも復讐し、エリックの人生にほんのわずかでも意味を持たせるために、今、エリックにできることは、ただ1つ。
逃げて、逃げて、少しでも聖母たちの思惑を完成させることを遅らせ、エリックが生き続けることだった。