・第256話:「潮目:1」
・第256話:「潮目:1」
10万もの人類軍が、[新勇者]、バーナードの死をきっかけとして壊走して以来。
エリックたち反乱軍は、少しずつ、「潮目が変わって来た」ということを実感していた。
最初は、さほど変化は感じられなかった。
反乱軍は絶望的な戦況の中から勝利をつかんだことに歓喜し、聖母を倒してこの世界を聖母の支配から解放するという最終目的も達成できるかもしれないと、そう希望を抱いた程度だった。
だが、その時点ではまだ、聖母の勢力は反乱軍に対して圧倒的だった。
なにしろ、人類社会すべてが聖母の支配下に置かれているのだ。
10万の軍勢が壊走したところで、その兵士たちは戦意を失って逃げ散って行っただけのことだったし、人類社会はさらに多くの軍勢を編成できるほど巨大なものだった。
反乱軍はそれほどに巨大な聖母の勢力を、徐々に切り崩していくつもりだった。
エリックが、親友であったバーナードを討ち取るという悲壮な戦いに勝利して得た、この未曽有の大勝利をテコとすれば、人類社会を聖母から徐々に離反させていくこともできるはずだった。
しかし、変化は反乱軍の予想よりも早く、戦闘の後始末をしながら、どうやって人類社会に工作を施すかを検討している段階で起こり始めた。
新勇者の死を目の当たりにして離散した人類軍の一部が、反乱軍に対して降伏を申し出てきたのだ。
それは、やむを得ない理由のあることだった。
人類軍は壊走し、無秩序になって我先にと逃げだしたのだが、その過程で、戦場に持ち込んでいた物資などのほとんどを置き捨てて行った。
そしてそのせいで、逃げる人類軍は深刻な物資不足に陥ってしまったのだ。
武器はもちろん、着替えも、食料も、なにもかもを人類軍は捨て去っていた。
せめて逃走に必要な食料だけでも持ち出すべきだったのだが、新勇者を失ったという衝撃のあまり、人類軍の誰にもそんなことを考慮する余裕はなかったのだ。
そして、人類軍の多くは、自分たちが進軍してきた道をそのまま通って帰還しようとしたことが、物資不足に拍車をかけた。
軍隊は物資不足に陥った際の最終手段として、略奪によって物資を補うことがある。
しかし、人類軍が撤退しようとした経路は、進軍してくる際にすでに1度略奪をしつくしてしまった道だった。
そのために人類軍は、一切の補給を得ることができなかった。
すでに、自分たちが略奪しつくしてしまっていたし、それらの略奪品はすべて、逃げ出す際に他の物資と一緒に放棄してきてしまっていたからだ。
人類軍の困難は、これだけではなかった。
進軍する際、反乱軍に対する見せしめとして略奪を行うのと同時に家屋などをみな焼き払ってしまったため、人類軍は夜になって屋根の下で休むことができなかった。
テントなどを設営する道具もなにもかもを捨ててきてしまったために、人類軍の兵士たちは雨が降っても雨宿りをして身体を乾かすこともできず、寒さに凍えるしかなかった。
そうした状況で、人類軍は限られた物資をめぐって同士討ちをする事態にまで至った。
まともな武器がないため、それは素手での殴り合いや噛みつき、投石などだったが、生き延びるために必死だった人類軍の兵士たちは、互いに戦う体力を失うまで奪い合った。
その結果、多くの兵士たちが撤退する途上で力尽き、倒れることとなった。
それほどの惨状となった時、一部の人類軍の兵士たちは、生き残るために最善の手段とは、反乱軍に降伏することだと気がついた。
なにしろ、反乱軍は勝利者であり、人類軍が恐慌状態となって置き捨ててきた大量の物資を鹵獲している。
当然、まとまった数の人類軍の兵士たちが降伏したとしても、十分に養っていくだけの余力がある。
そして決定的だったのが、今まで人類軍が信じてきた[加護]が、もはやアテにならないということを人類軍の兵士たちは見せつけられていたことだった。
人間は誰もが、物心ついた時から教会によって聖母を信仰するように教え込まれ、そのことに疑念を抱くこともない。
なぜなら、右を見ても左を見ても、誰もが聖母をあがめているし、外には魔王軍という、人間から見れば異質な外見や文化を持った魔物や亜人種たちによって作られた集団がおり、その脅威から守ってもらうためには、聖母の[加護]にすがるしかないと教え込まれるからだ。
その聖母の[加護]とは、すなわち、[勇者]だった。
しかし、その勇者は、魔王によって打ち倒された。
聖母によって[新魔王]と名指しされたエリックによって、倒されたのだ。
その現実をまざまざと見せつけられた人類軍は、敗走する間に徐々にその衝撃が緩和され、冷静さを取り戻してくると、「このまま聖母の下に戻ってもいいのか」という疑問をいだき始めた。
なにしろ、聖母を人類が信仰している理由が、徹底的にくつがえされたのだ。
そしてなにより、絶対に反乱軍の勝利などあり得ないという状況で反乱軍が勝利したことは、人類軍が信じていた[正義]が、偽りだったのではないかという疑念も生んでいた。
あり得なことが起こったのは、実は、聖母の側に正義などなく、反乱軍の側に正義があるからではないのか。
人類軍は冷静さを取り戻し、そして、かつての友軍同士でわずかな食料を争うような状況に陥っていることに気づくと、多くの者がその疑念をいだくようになっていった。
最終的に、エリックたち反乱軍には、3万名近くの人類軍が降伏して来た。
それは人類軍にとってはほんの一部でしかなかったが、反乱軍にとっては、自分たちの規模の10倍もの数だった。
その、自分たちの規模を圧倒する兵士たちの降伏を受け入れるかどうか、反乱軍は迷うこととなった。
降伏して来た兵士たちの姿はみすぼらしく、到底、戦うことなどできるはずがないと思わせるような状態だったが、それも一時的なことだ。
捕虜として受け入れ、食事などを与えることで体力が回復してきた際に、一斉に反乱を起こされたらどうなることかと、反乱軍の誰もが不安に思わずにはいられなかった。
いっそ、騙して生き埋めにしてしまう方がいいのではないか。
そんな残酷なことを言い出すようなものまで出る始末だった。
しかし最後には、反乱軍は人類軍の降伏を受け入れた。
それは、降伏して来た相手を虐殺するなどということをしては、聖母がやってきたことと変わらない残忍さを示すだけでなく、これから人類社会を切り崩し、反乱軍の味方にしようという時に、大きな悪影響を及ぼすと思われたためだった。
結局、エリックたちはこの人類軍の大量の降伏を受け入れた。
ひとまず彼らはデューク伯爵の城の外で、元々人類軍が有していた物資などを使って野営することとなり、その扱いは後日、さらに検討していくこととなった。
そして、エリックたち反乱軍の勝利の影響は、これだけではなかった。
反乱軍に人類軍の内の3万名が降伏したが、その他の数万名、物資不足の過酷な撤退戦を生き抜いた人類軍の兵士たちは、飢えや病気によって衰弱した悲惨な姿で、人類社会へと帰還を果たしたからだった。