・第246話:「覚悟の差」
・第246話:「覚悟の差」
聖母の支配に反抗して立ち上がった人々、反乱軍は、エリックという存在によって結びつけられている。
そしてそれは、反乱軍を圧倒するような大兵力で向かって来る人類軍についても、同じことだった。
もし、バーナードが、[新勇者]が倒れるようなことになれば、それは、聖母が絶対の存在だという人類が信じ込まされている事柄が、ウソだったと証明されたことになる。
なぜなら、聖母が人類にとって絶対の存在である理由は、その力によって人類を加護して来たからで、その加護の存在を示す象徴的な存在が、[勇者]だったからだ。
その聖母の加護を示す象徴的な存在である、勇者という存在を汚されないために、聖母たちは今でも、[勇者が聖母に反逆した]という真実ではなく、[魔王・サウラが、勇者・エリックを乗っ取った]というデマを広め続けている。
だが、もしも、エリックがバーナードを討ち取ることができたとしたら。
10万の人類軍が、間近に、[聖母の加護]が偽りであったことを、あるいは、もはや意味を成さないのだと、見せつけることになる。
そうなれば、聖母たちがどれほどこの事実を隠蔽しようとしても、できないだろう。
そしてそれは、エリックたち反乱軍がその勢力を拡大し、聖母の勢力を切り崩していく、絶好のきっかけになるはずだった。
新勇者を倒すことのできる唯一の存在であるエリックと、バーナードを一騎打ちさせる。
その状況を作り出すために、反乱軍はその全力をつくすこととなった。
といっても、圧倒的に戦力で劣る反乱軍が主体的にできることは、あまり多くはない。
バーナードが先頭をきって突っ込んで来るという[賭け]に勝てることを前提とし、バーナードを城内に引き込んで他の人類軍と分断し、エリックが一騎打ちで勝利をつかむ、というのが、作戦のすべてだった。
反乱軍はバーナードと人類軍を分断するために、かなり危険な戦いをすることになる。
バーナードたち人類軍にあえて城門を突破させ、バーナードたちを城内に引き入れた後に城門を奪還して、再度封鎖するという、至難と言わざるを得ないことをしなければならないからだ。
わざと反乱軍が城門を突破させたとしても、城門を突破したと勢いづいた人類軍は、雪崩のようになって城内に突撃してくるだろう。
その勢いを押し返すのは、相当に難しい。
その困難な任務を達成するために、反乱軍はラガルトとガルヴィンによって率いられる決死隊を編成した。
力比べをして以来、人間と魔物と亜人種たちの友好を演出するという演技以上に意気投合した2人、反乱軍きっての豪勇さを誇る戦士と騎士にしか、城門を奪還して再び封鎖するという任務は達成できないだろうと思われた。
この決死隊は、一度敵の手に渡った城門を再奪取するだけではなく、エリックがバーナードを討ち取るまで、文字通り城門を死守しなければならない。
確実に多くの犠牲が生じることになるため、この決死隊は志願者のみで編成されることとなった。
もちろん、エリックがなかなかバーナードを討ち取ることができなければ、決死隊だけではなく、反乱軍の他の防衛線が突破されてしまう危険もある。
しかし反乱軍はエリックが勝利することに賭け、それぞれの持ち場で精一杯抵抗することでみなが一致していた。
他に取れる作戦など、ないからだ。
だから反乱軍の人々はみな、このわずかな勝算を現実のものとするため、全力をつくすと決意している。
あとは、果たしてエリックが、バーナードに勝利し、討ち取ることができるかどうかにかかっていた。
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自分は、甘ちゃんだった。
エリックは、バーナードからの罵声と、ケヴィンの拳を受けて、そのことを思い知らされていた。
エリックだって、必死に生きてきたつもりだった。
勇者としての使命を果たすためにあらゆる努力をしたし、聖母たちに裏切られてからは、復讐のために、普通の人間ならばあきらめてしまいそうな状況でも、生き抜いて来た。
復讐を果たすためにこそ、エリックは[死ななかった]のだ。
だが、エリックのどこかには、甘さが残っていた。
バーナードならきっと、わかってくれるのに違いない。
クラリッサは喜んでエリックに力を貸してくれたし、リディアとだって、自分は和解することができたのだから。
しかしエリックは、バーナードが、なぜ自分を裏切り、聖母の下についたのかを、十分に理解しようとはしていなかった。
自分が説得すれば応じてくれるだろうと、漠然と根拠もなく信じていた。
今でも、バーナードが新勇者となった理由は、わからない。
だが、ケヴィンに言われた通り、エリックを裏切るという決断を下すまでには、バーナードは苦悩したのに違いない。
それほどの覚悟を、バーナードは固めているというのに。
エリックはまだ、「バーナードならきっと、自分に味方してくれる。裏切ったなんてありえない」と、そう未練がましく考えていたのだ。
ヘルマンと同じようにエリックを裏切った元盗賊・リーチが、エリックのことを「ボンボン小僧」と蔑んだ理由も、今のエリックにはわかる。
社会の底辺としてあらゆる辛酸をなめつくして来たリーチからすれば、エリックなど、貴族育ちで苦労知らず、[自分は頑張っているんだ]という[つもり]になっている、世間知らずの甘ちゃんに過ぎなかったのだろう。
自分はこれだけ頑張っているのだから、報われるのは当然なのだ。
そんなエリックの内心にあった考えは、一部で、間違っていた。
自分で実際に努力をしなければ、なにか、欲しい結果を得ることはできない。
しかし、どんなに努力をしたとしても、その努力と結果は、決してイコールではないのだ。
だからといって、努力し、頑張り続けることが無駄なのかと言えば、それも違う。
なにもしなければ、なにかを起こすことはまず、不可能なことだからだ。
自分の望む結末を得るために、できる限りのことをする。
それはなにも変わりはしないが、望んだとおりにならないからといってショックを受け、そして、いじけてしまうのが、やはり、エリックの甘い部分だった。
結局、望んだ結末を得ようとする、心構えが違うのだ。
自分の頑張りに結果が比例するのだと、そうなって当然なのだと思っている人間と、どんなに頑張ってもそれに結果が比例するとは限らないと承知したうえで、それでも自分の望みに向かって必死に向かい続ける、あるいはそうしなければならない人間との間には、その[覚悟]において、明確に差がついている。
それは結局、両者が行う努力や、実際に結果を得るために戦わなければいけない場面での、闘志の差となって表れてくるだろう。
最良のことをし続けてきた[つもり]になっている者と、なにをしてでも望みを果たすのだと、限界を超えたことを行って来た者との間には、その闘志だけではなく、実際の実力の差さえ生まれているかもしれない。
もちろん、限界を超えたことを続けていれば、エリック自身、自分をすりつぶしてしまうのに違いなかった。
だから本来、努力とか頑張りというのは自分にできる限度を守って行うべきなのだが、果たして、[聖母を倒し、復讐を果たし、世界を解放する]というエリックの目的は、そんなことを言っていて達成できるようなものなのだろうか。
とても、そうは思えなかった。
自分を滅ぼすために、聖母はどんな卑劣な手でも使って来る。
そのことを理解したエリックには、今まで自然に守っていた限界を超え、そして、自分自身も、聖母に勝つためにあらゆる手段を使うという覚悟ができていた。
聖母を倒すためなら、たとえ、バーナードでも、親友が相手だろうと、戦う。
エリックはようやく、自分の甘さを捨て、迷いを断ち切っていた。
(バーニー……)
今でも、エリックの心は、バーナードと戦わねばならないという事実に、痛みを覚えている。
しかしエリックはもう、バーナードを前にしても、ためらうことなく聖剣を振るうことができる。
そしてその先に、必ず、聖母を滅ぼすのだ。
※作者注
熊吉も、努力をした人は相応に報われるべきであると、そう思います。
ですが、そんなに世の中簡単にはいかないということを、熊吉もすっかり思い知らされています。
作家デビューを目指してこれからもできる限り(やり過ぎると本当に人間も壊れますので、熊吉はエリックのように限界突破はせず、自分の限界は守りますが)頑張らせていただくつもりでおりますので、もしよろしければ、こらからも熊吉を応援していただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。