・第160話:「そして、「勇者」は「魔王」となった:1」
・第160話:「そして、「勇者」は「魔王」となった:1」
エリックの精神は、奥へ、奥へと、水底に沈むように引き込まれていく。
やがてエリックは、肉体的な苦痛から解放され、静寂の中にいた。
深い、海の底。
そんな場所まで潜ったことなどないが、きっと、そんな場所なのだろうと思う、暗く、静かで、冷たい場所。
そこで、魔王・サウラは、エリックを待っていた。
「我を、受け入れよ」
サウラは、精神の奥底へと引きずり込まれたエリックに向かって、再度、そう言った。
「さすれば、汝は、力を得られる。
汝を死から救い、汝が守りたいと願う者たちを守り、汝が裁きたいと願う者たちを裁く力が、手に入る」
エリックの苦痛に、弱みにつけ込んで、甘い言葉でエリックを誘い、気を許した瞬間に豹変して、エリックの肉体を乗っ取ろうとしている。
エリックはサウラの魂胆をそう思おうとしたが、できなかった。
なぜなら、エリックの目の前でサウラは、エリックに向かってひざまずいていたからだ。
あの、魔王が、この世界に生きる魔物と亜人種を1つに束ね、人類を滅ぼそうとしたほどの巨大な存在が、片膝をつき、頭を下げている。
それは、誘惑ではなく、説得でもなく、真摯な、懇願だった。
「我のことを、信じずともよい。
ただ、我を、[使え]。
我が力を、聖母を滅ぼすために、人々を救うために、使うのだ」
エリックには、サウラが真剣にそう申し出ているのだということが、わかっていた。
だが、即答することができずに、沈黙する。
サウラは、これまで人類を滅ぼそうとしてきた存在だ。
その脅威を取り除くために、エリックは勇者として選ばれ、戦ったのだ。
サウラは以前、その、世界を滅ぼそうとした動機を、[聖母を倒し、魔物や亜人種に対する弾圧をやめさせるためだ]と言った。
それは、おそらくは本心なのだろう。
セリスたち、魔王軍の残党軍と共に行動するようになってから、エリックは聖母たちがどれほど過酷に魔物や亜人種を弾圧し、人類がその行為に疑問をいだくことさえなく従って来たという事実を知った。
だが、サウラは、エリックにまだ、核心を話してはいない。
聖母が犯した、もっとも深刻な罪。
その支配の中で隠し続けてきたその暗部を、サウラは知っているのに、エリックに教えていない。
それを教えられるまでは、エリックは、サウラのことを信じることができない。
サウラが、「聖母さえ滅ぼすことができれば、人間までは滅ぼさない」と言っても、エリックはその言葉を信じられない。
エリックが、力欲しさにサウラのことを受け入れた瞬間に、サウラがその隠していた本性をあらわし、エリックの肉体を乗っ取り、人類を滅ぼそうとするかもしれないという可能性を、エリックは排除することができずにいる。
「サウラ。
お前は、オレに、隠していることがあるな?
聖母が、魔物や亜人種たちを弾圧し、戦争を続けさせている理由。
聖母が犯してきた、もっとも深刻な罪。
聖母が隠し続けている、真実。
お前は、それを知っているのに、話さない」
エリックの言葉に、サウラは顔をあげると、その双眸を細めた。
人間と同じように、両目に鼻、口を持つサウラだったが、あまりにも姿が異なるためにその表情から感情を読み取ることは、困難だ。
だが、精神が近い位置にある今、エリックには、サウラが迷っていることがわかった。
「……わかった。
すべてを、汝に明かそう。
幸い、我の言うことを証明するモノも、得られたゆえ」
やがて、サウラはそう言って、エリックに向かってうなずいてみせた。
そして突然自身の手に、もう一方の手の鉤づめを当てると、スッと、浅く皮膚を引き裂く。
「サウラ、お前、なにをッ!? 」
その突然の自傷行為にエリックは驚愕し、警戒の声をあげたが、サウラは落ち着き払った態度で、エリックに向かって血の滴る手を差し出してくる。
「我が[血]を、受けよ。
勇者・エリックよ。
今は、言葉で説明している時間は、ないゆえ」
血の記憶。
サウラは自身の記憶をエリックに開示することで、エリックに真実を知らせようとしていた。
ここは、精神世界だ。
だからこのサウラの行為は、あくまで概念的なものだ。
エリックにサウラの記憶を伝えるための、儀式のようなものだった。
エリックは未だにサウラのことを疑ってはいたが、おそるおそる、サウラの手に自身の手をのばし、サウラの手からしたたり落ちる血に近づけていく。
少なくとも、サウラの様子は、真剣なものに見える。
そして、状況は切迫し、エリックは、どんな力であろうともすがりたい気持ちだった。
エリックは、目の前にいるサウラの真摯な態度に、かけてみることにした。
エリックの手が、サウラの血に触れた、その瞬間。
エリックの目の前に、サウラの記憶が広がって、駆け抜けていく。
それは、一千年以上にもわたる、聖母と、そして、魔王・サウラ自身の、[欺瞞]の記録であった。