・第138話:「不器用なコ:3」
・第138話:「不器用なコ:3」
素直になってみたら。
そのクラリッサの言葉に、またさるぐつわに水分を含ませようとしていたリディアは、その細い両肩をピクリと震わせた。
だが、リディアはなにも答えず、さるぐつわに水分を含ませる作業を再開する。
クラリッサは、リディアが淡々と、クラリッサの言葉を無視しているようでいて、内心では少なからず動揺していることを見逃さなかった。
リディアが顔をうつむけたまま、クラリッサから自分の表情が見えないように、隠そうとしていたからだ。
「あんたが、聖母を信仰してるんだっていうのは、わかってるよ。
あんたが、聖母のために働いて来たんだっていうことも。
けど、本心ではさ、ずっと、もうやめたいって思っていたんじゃないの? 」
だからクラリッサは、リディアに向かって問いかけ続けた。
「リディア。
あんたが旅の間中、ずっと、あたしたちと一定の距離を置いていたのは、あんたは最後には聖母の命令で、エリックを背中から突き刺さなければならなかったからなんでしょ?
もし、エリックやあたしたち、なにも知らない仲間と仲良くなりすぎて、いざ、裏切る時に手元が狂ったらいけないって、そう思っていたんでしょ?
けど、それだけじゃ、ない。
あんたは、本当は、ずっとずっと、嫌だったんだ。
エリックに、最後には使い捨てにされて殺されるんだって、自分が背中から剣を突き刺すんだって、そう秘密にしたまま、仲間として一緒に旅を続けることが。
あんたは、自分が裏切らなきゃいけないっていうことも、それをエリックに隠していることも、ずっと、嫌で、嫌で、しかたなかったんでしょ?
だからあんたは、エリックを背後から剣で突き刺した時、[手元が狂った]。
だからエリックは、死なずに生き返ることになったんだ」
リディアは顔をうつむけたまま、なにも言い返さずにじっとしていた。
外見からはわからないが、きっと、その心の内はざわめき、動揺しているのだろう。
その証拠に、リディアは、さるぐつわに水分を染みこませていた水筒がすっかり空になってしまったのにも気づかずに、同じ姿勢のまま固まっていた。
「あたしには、あんたがそこまでして、聖母に従う理由がわからない。
ヘルマンとか、聖母に近いところで仕えている人間の本性を見た今となっちゃ、なおさら、聖母のことなんてもう、信じられないよ。
リディア。
あんたこそ、一番、そう思って来たんでしょ?
あんたは、なにが正しいのか、どうするのが正しかったのか、頭では、それがわかっているんだ。
なら、素直になればいい。
自分の心に、従えばいい。
聖母にではなく、自分自身の意志で、どうするかを決めるんだ。
そうすればきっと、あんたの胸の中にあるもやもやも、なにもかもきっと、きれいさっぱり消えてなくなるはず」
クラリッサがリディアを説得しようとしているのは、それが、自分がこの窮地から脱するための、近道だったからだ。
クラリッサはここで死んでもいいなどとは思っていない、できれば助かりたいと思っているから、リディアを味方に引き込めるのならそうしたい。
そうすれば、魔法学院の学長のレナータの助力と合わせて、クラリッサが生きてこの磔台を脱出できる可能性は、大きく高まるはずだった。
だが、今のクラリッサには、リディアを救えるのなら、救ってやりたいという気持ちの方が、自分が生き延びたいという気持ちよりも強かった。
リディアは、自分につまらない言い訳をして、聖母に反することをするという罪悪感を打ち消しながら、クラリッサのために水を持ってきてくれた。
その行動からクラリッサは、リディアが、世話の焼ける妹のようなリディアであるのだと、自分が信じていたリディアであるのだと、そう知ることができた。
リディアはきっと、苦しんでいる。
彼女のことを心から信頼し、背中をあずけていたエリックを裏切ってしまったことに。
そして、リディアは迷い、揺らいでいる。
聖母の命令に従い、自分という存在を押し殺しながら生きてきたことが、本当に正しいことだったのかと。
おそらく、リディアの本心では、とうの昔に結論は出ているのだろう。
自分は、とりかえしのつかないことをしてしまった。
どう償っても、償い切れないような罪を背負ってしまった。
そんな自分は、もう、嫌だ。
リディアはそう思いつつも、しかし、聖母に反することを決心できずにいる。
「エリックだってきっと、あんたのこと、許してくれるよ。
いや、まぁ、2回も背中から刺してるっていうし、無理かもしれないけど……。
けどきっと、話しくらいは聞いてくれるはずさ。
エリックもずいぶん変わったようだけど、根っこは相変わらずだからね。
もし、どうしてもあんたを許せないってエリックが言っても、あたしがなんとか、間に入ってあげるからさ。
ねぇ、リディア。
あんたも、本当は自分がどうしたいのか、もうわかっているんでしょ?
なら、素直にむぐっ!? 」
もう一押しで、説得できるのではないか。
そう思ったクラリッサは、少し声を優しくして畳みかけるように言葉を続けようとしたが、突然動いたリディアによってまた、さるぐつわをかませられてしまっていた。
「……もう、黙って。
お願いだから、もう、なにも言わないで、クラリッサ」
リディアは顔をあげないまま、クラリッサにそう言いつつ、さるぐつわをクラリッサに結びつける。
そしてリディアは、それ以上なにも言わず、クラリッサの方を見ることもせずにきびすを返して、去って行ってしまった。
(……ほんとに、世話の焼ける、不器用なコだこと)
そんなリディアの後ろ姿を、クラリッサは少し微笑みながら見送った。
リディアがクラリッサにかませていった、さるぐつわ。
それは、最初よりもほんの少しだけ緩く、クラリッサが少しでも楽になるように結びつけられていたのだ。