3 大イベント『階段突き落とし』の命令を受けて気が重いです
そんなこんなで、猫と悪役令嬢とヒロインの日々はめぐっていく。
相変わらず胃を痛める毎日であったが、ようやく、卒業まであと三か月のところまでやってきた。
しかしここにきて、最高難易度のいじめ指令書を受け取ってしまった。
私はルルナから渡されたいつもの紙を読んで、冷や汗をかいた。
要約すると、こんなことが書かれていたのだ。
『階段で私を突き落とし、足を軽く捻挫させること』
いくらなんでも無理がある。
ご丁寧に『重傷は許さない』なんてことまで書いてある。
突き落とす側が、どうやって被害者の怪我の程度をコントロールしろというのか。
自分の受け身の力で、頑張れとしか言いようがない。
と、言ってやりたいところだが、最後の一文に、私は頭を抱えた。
『もし失敗したら、可愛い猫ちゃんの無残な姿を拝むことになりますよ』
寮の自室で机にへたり込み、私は唸り声を上げた。
(どうしましょう……怪我をさせるなんて、さすがに一線を越えてしまうわ……もはや嫌がらせというより、傷害事件じゃない……。池に突き落としたのだってギリギリだったのに……階段なんて……)
きっと卒業が迫って、彼女も切羽詰まってきたのだろう。
なにせ未だに、セバスチャンは私と婚約を継続しているのだ。
これはおそらく彼の、後手後手な性格のせいだろう。
セバスチャンは問題をギリギリまで放置する癖があるのだ。
長期休みの宿題を、最終日に片付けるような男なのである。
ルルナが彼に私との婚約破棄、そして自分との婚約を迫っても、きっとグダグダに濁されてきたのだろう。
彼女は私に脅迫文――いや、指令書を渡す時、ボソリとこう呟いた。
『最後にもう一押し、大きなイベントが必要なのよねぇ』
たぶん私をはっきりと犯罪者の立場にして婚約破棄の理由を作り、そして自身は怪我をすることで、セバスチャンの庇護欲に火をつける気なのだろう。
私は指令書を見ながら、考える。
(ごく軽い捻挫……階段を三段、落とすくらいならいける……? いや、でも怪我は怪我よね……)
悩んでも悩んでも、上手い答えは出ない。
結局私はどうするか決められないまま、決行当日を迎えることになってしまったのだった。
■
階段突き落とし、決行当日。
場所はホールの中央階段。
一番広く段数の多い、目立つ場所だ。
私は吹き抜けの二階から、ルルナとセバスチャンの姿を探す。
桃色がかった明るい金髪と、綺麗に整えられた茶髪……
(あ、いたわ……えぇ、嘘、あんなところに……?)
二人がいた場所は、大きなステンドグラスが輝く、中央階段の踊り場だ。
踊り場から突き落とすとなると、ルルナはかなりの高さを落ちることになる。
(む、無理よ……! さすがに無理でしょう!? あの子、本当にやる気なの!?)
冷や汗をかきながら、二人の姿を上から見ていると、ふいにルルナと目が合った。
早くしろ、とばかりに、冷ややかな笑顔を向けられる。
この笑顔は、もうすっかり私のトラウマだ。
私はドキドキと鼓動を早める心臓に手を当てながら、彼女の方へ歩み出した。
階段を降り、踊場へ向かう。
ステンドグラスから差し込む光が美しい。
色ガラスを通した光は、踊り場に賑やかな影を落としている。
私はこんな美しい場所で、事件を起こすのか……
もうあと十歩ほどで、彼女の元へたどり着く。
いつものように派手に体当たりを繰り出せば、彼女は階段を転げ落ちていくことだろう。
もうあと三歩。
「……」
私は、そこで足を止めた。
(……やっぱり……こんなことは、やっちゃいけないことだわ……私にはできない……)
ここにきて、思いとどまってしまった。
寄ってきた私に気付き、セバスチャンが不快をあらわにした表情を浮かべた。
「なんだメルーシャ。また陰気臭い顔をして、ルルナに構いに来たのか? あっちへ行け。お前がいると空気が濁る」
セバスチャンの憎まれ口は、いつものことだ。
もうとっくに慣れてしまって、傷付くこともなくなった。
私は淑女の笑みで、挨拶をする。
「ごきげんよう。ただ通りがかっただけですわ、道を開けてくださる?」
そう言って、私はその場をあとにする。
後ろから、ルルナの声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
――否、振り返れなかった。
すれ違いざまに見えた彼女の顔が、あまりにも恐ろしいものだったので。
駆けるように階段を降り、ホールから出る。
私は初めて、いじめから逃げてしまった。
卒業をあと三か月に控えるところまで、来ていたというのに。
(でも仕方ないじゃない! あれはさすがに無理よ……! そ、そんなことより! 猫ちゃん猫ちゃん……! どうしましょう! あぁっ、燃やされてしまったらどうしましょう……っ!!)
切羽詰まっている今のルルナなら、おそらく本当に猫に乱暴するだろう。
この約二年のうちに、彼女の性格は十分過ぎるほど理解したつもりだ。
彼女のあの顔なら、ヤる。絶対に。
私は焦りつつも、今後の策を考えた。
もう停学をくらおうが、罰金をくらおうが構わない。
寮の自室に、猫を匿うしかない。
考えるや否や、寮へと飛び込み、大きな布袋を引っ掴んで神殿へと走った。
可哀想だけど、袋に猫を詰め込んで、部屋に連れ込むしかないのだ。
息を切らしてたどり着くと、入り口にいた初老の神官に声をかける。
「あのっ! 猫を……っ! 黒ぶちの猫いますか!? 探してるんです! 彼女が来る前に……早くしないと!」
大慌てでまくし立てる私を、落ち着かせるように、初老の神官は穏やかな声で答えた。
「これこれ、落ち着きなさい。猫なら礼拝堂にいましたよ。もうどこかへ行ってしまったかもしれませんが」
「ありがとうございます! 失礼します……!」
私は急ぎ、神殿の奥を目指す。
礼拝堂に飛び込むと、若い神官がわずかに目を見開いた。
いつも澄ました顔をした彼の、驚いた表情は珍しい。しかし今は、そんなことにひたっている場合ではない。
魔法を使って女神像の手入れをしている彼に、問いかける。
「黒ぶち猫、いませんでしたか!?」
「先ほどまではいましたが、もういませんね」
「そうですか……」
神官の言葉にガックリとした。
(今日はもう授業なんて放っておいて、探しまわったほうがいいかしら……っ)
私は礼拝堂を駆け出ようとして、神官に呼び止められた。
「そんなに慌てて、どうかしたのですか? 猫に何か?」
「いえ、ええと……っ」
私は言い淀んだ。
が、すぐに思い直す。
――この神官なら事情を説明しても、呆れた顔などせずに、協力してくれるのではないか。
なんとなく、そう思えた。
この人は、前に猫を気にかけてくれた人だ。
約束通り、猫が元気にしているという報告も、しっかりくれた。
そして何より、猫好きである。
私は上着のポケットから取り出した紙を、恐る恐る彼へと見せた。
「その……猫嫌いの友人が、黒ぶち猫に乱暴をするかもしれないと……手紙をもらったもので……」
紙とは、ルルナの指令書である。
内容はほとんどがいじめに関する演技指導なので、その部分はなるべく隠して、猫に関する文章だけを見えるようにして、彼の前に差し出した。
――が、サッと奪い取られてしまった。
まぁ、見られたところで他人には意味不明だろうから、追及されることはないだろう。
彼は紙を受け取り、真顔で文字を追っている。
「なるほど。では、猫を探して守りの結界でも張っておきましょうか。私はその手の魔法は、得意なほうなので」
私は目を丸くして、思わず彼に縋りついた。
「本当ですか!? その結界とは、強い火の魔法でも弾けるのですか!?」
「ええ。赤竜のブレスまでなら弾けます。学生の魔法など、たかが知れていますし、問題ないでしょう」
サラリとした神官の答えを聞いて、私は床にへたり込んだ。
なんだか、ホッとしすぎて涙が出てきた。
そうか、最初から、この人に相談しておけばよかったのか。
神官はへたり込む私に手を差し出し、立ち上がるのを手伝ってくれた。
そして涼やかな声音で、言ってのける。
「もうそろそろ休み時間が終わります。猫は私が探しておきますから、あなたは授業へ」
さぼると最悪、留年ですよ。なんてことを言われ、私は教室棟へと走らされた。
彼は結構、真面目な人らしい。
慌てて駆け込んだ教室で、笑顔のルルナと目が合う。
彼女は口パクで、私に話しかけてきた。
『も や す よ』
私は彼女を綺麗に無視して、授業のノートを開いた。
もう大丈夫、もう何も、心配することはないのだ。
■
それからというもの、私はルルナから、完全に空気扱いされるようになった。
目の前にいようとも、いないもののように扱われる。
もちろん、挨拶もなければ、もうあのようないじめの指令書もない。
彼女にいじめを強要されることのない日々は、実に過ごしやすく、快適であった。
勉強も大いにはかどった。
はかどりすぎるほどに、はかどった。
なにせ私には、友人が一切いなくなっていたからだ……
ただでさえ少なかった友人が、悪役令嬢を任命されてから、ゼロになった。
まぁ、当然と言えば当然だ。
私だって、あんな高笑いしながら奇行に走る女が近くにいたら、全力で逃げる。
そして友人と同時に、セバスチャンも取られてしまったものだから、私は教室では完全に独りぼっちであった。
遊ぶ相手も、喋る相手もいないので、自然と勉強時間が増えた。
寂しくはあるが、元々私は、派手な交友関係を求めるタイプではない。
なので、致命傷を負わずに済んだところは、幸いかもしれない。
そんな私が今一番、頭を悩ませていることは、ルルナとセバスチャンの行為である。
私を空気認定したと同時に、ルルナはところかまわず、彼を求めるようになったのだ。
さすがに決定的なもにょもにょは目にしていないが、もう手前なんじゃないか、くらいの雰囲気で盛り上がっているところは、ちょくちょく見かけた。
見かけた、というより、おそらく彼らは私に、見せつけているのだろうけれど。
お互いが、いかに愛し合っているかを。
人前で抱擁を交わして、キスをして、親し気に名を呼び合って……
(それでもまだ、私の婚約者なのよね、彼は……おかしなことに)
セバスチャンに対する気持ちは、この二年間ですっかり冷めきってしまった。
しかしそれでも、私は彼の婚約者なのだ。
家の結びつきを考えると、私は彼と結婚しなくてはならない。
貴族の子供たちは、ほとんどが政略結婚をする。
相性がよければ、あとから恋や愛に繋がるが、そうならない場合も多い。
そういうことがあるからこその、はめを外せる、自由な学院時代なのだ。
大人になって辛いことがあろうとも、輝いていた青春の一ページを胸に生きていく。
それがこの世界に生きる、貴族たちの美学である。
(……私の青春は、もはやズタボロだけれどね……)
私は中庭のベンチに座り、遠い目になりつつ、サンドイッチを咀嚼する。
遠くにルルナとセバスチャンが見えた。
相変わらず顔を寄せ合って、仲睦まじいこと……
私の隣には、いつもの黒ぶち猫がいる。
神官が魔法をかけてくれたとのことで、ルルナのいる場でも、もう堂々と撫でられる。
この猫は竜に火をふかれても、燃えない猫になったらしい。今世界で一番、強い猫かもしれない。
サンドイッチからハムを抜き、手のひらに乗せて猫に差し出した。
猫はキョロキョロ周りを見たあと、ササッと食べきる。
鳥についばまれるのを警戒したのだろう。いつも澄ました顔をしているくせに、珍しく落ち着きのない様子だった。なんとも可愛らしい。
私は笑いながら、猫の背を撫でる。
「この学院に入って一番良かったことは、あなたと出会えたことだわ。十三歳の頃から五年間、ずっと側にいてくれてありがとう」
勉強に疲れてしまった時も、魔法の試験がボロボロで落ち込んだ時も、婚約者が浮気をして傷付いた時も、いじめを強要されて胃が痛くなってしまった時も、この猫はいつでも私を受け入れてくれた。
じっと寄り添って、優しさと温かさを分け与えてくれた。
「あなたのこと、心から愛しているわ。卒業しても私、あなたとの思い出を心の支えにして、頑張るからね」
猫はニャーと一声、鳴いてくれた。