2 ヒロインをいじめるのは大変……猫だけが心の癒しです
神殿の入り口でしばらく黒ぶち猫と戯れたあと、私はそのまま建物の奥にある、礼拝堂へと歩を進めた。
大きく真っ白な女神像の前に膝をつき、祈りを捧げる。
祈り、というより、懺悔だけれど……
サッと首を振り、周りに神官がいないことを確認して、小声で懺悔する。
「私は今日、ルルナ様の制服を『臭い』などと言ってしまいました……本人の指示とはいえ、暴言には変わりありません。人を貶す言葉を口に出してしまい、申し訳ございませんでした」
言い終えると、隣に来ていた猫がニャーと鳴いた。
何だか慰められているかのようなタイミングだったので、思わず笑みがもれた。
「……ありがとうね。私、あなたがのんびり暮らせるように、頑張るからね。もしルルナに追われたりしたら、全速力で逃げるのよ」
「ニャーン」
また返事をくれた。
ふふっ、と笑い声をもらし、私はフワフワの頭を撫でた。
この猫は、いつも澄ました顔で校内をうろついている。
「変な模様だな!」だの、「愛想のない猫め!」だの、「あっちへ行け!」だの、人々にどんなことを言われようが、どこ吹く風、といった態度だ。
ひょうひょうとしているような、凛としているような、不思議な猫だ。
私はそんな黒ぶち猫が、大好きだった。
少し憧れる気持ちもあったのかもしれない。
この猫のように私も、涼しい顔をして、セバスチャンとルルナを何てことなくやり過ごせたらいいのに……
(……二人を見るたびに、胃が痛くなってしまうのよね……情けないわ……)
なんてことを考えていると、初老の男性とは別の神官が、礼拝堂に入ってきた。
優し気な顔をした、中年くらいの女性神官だ。
女性神官に、柔らかな声をかけられる。
「お昼の時間、もうそろそろ終わっちゃうわよ」
「あぁ、すみません。もうそんな時間でしたか……」
私は胃を押さえながら立ち上がる。
最後に猫をひと撫でして、今日の懺悔の時間を終わりにした。
■
その十日後。
悪役令嬢は食堂で、ヒロインに体当たりをかましていた。
「キャアッ! メルーシャ様、何をなさるのですか……!」
ルルナの甲高い悲鳴と同時に、彼女が手に持っていた、ランチプレートがひっくり返る。
食事が飛び散り、彼女の制服を大きく汚した。
もちろん、彼女の側にはセバスチャンがいて、私の犯行をばっちり目撃している。
我ながら完璧なタイミングだ。――これっぽっちも嬉しくないところが、悲しいところだけれど……
私はルルナを見下し、感情をたっぷり込めてセリフを喋る。
「あら、ルルナ様! いらしたのね? 私の目には全然見えませんでしたわ。仮にも貴族のご息女であるというのに、存在感がなさすぎませんこと? 地味な女は、殿方に嫌われますわよ?」
どちらかというと、私の方が地味な気がするが……
そう言えと命令されているので、仕方ない。
そう、私と彼女のセリフは全部、決まっているのだ。
指定はセリフだけではなく、どこで、どういうタイミングで、どういう動作をして、どういう表情で――ということが、恐ろしいほど細かく定められている。
どこからそういう発想が出てくるのだ、と思うほどに、ルルナは様々なシチュエーションを用意してくるのだ。
事前に、全てが事細かに書き記された紙を渡され、私は必死にそれを覚えて、いじめに臨む。
少しでも間違えると、彼女の機嫌を損ねてしまうので、それはもう毎回必死だ。
短時間で覚えなくてはならない時の集中力は、試験勉強の比ではない……
(おっと、ぼんやりしてちゃいけないわ……ええと次のセリフは……)
私はルルナの制服へ目を向ける。
上着とロングスカートが、ひっくり返ったスープでビシャビシャだ。
「あらやだ、制服がスープを飲んでいらっしゃるわ」
「メルーシャ様……酷いです……せっかくお父様から贈っていただいた制服なのに……」
「メルーシャ!! ルルナに謝れ……!!」
目を潤ませて今にも泣き出しそうなルルナを見て、セバスチャンが怒鳴り声を上げた。
(謝っていいのなら謝っているわよ……! あぁ、もう……ひっくり返った食事にも申し訳がないわ……)
泣きたいのはこっちのほうだが、グッと堪えて、役者になりきる。
「おーっほっほっほ! 成り上がり男爵には、制服すらも高価な代物なのかしら? あぁ、お可哀想に」
「メルーシャ貴様……!!」
「やめてセバスチャン! 私は大丈夫だから……! 私が貴族らしくふるまえないから、メルーシャ様を怒らせてしまったの……悪いのは私なのっ!」
ルルナはセバスチャンを止めると同時に、ポロリと涙をこぼす。
セバスチャンは彼女の肩を抱き、ハンカチを出してその目を拭った。
私は最後のセリフをきめる。
「それでは、私はこれで。良いランチタイムをお過ごしくださいませ。おーっほっほっほっほ」
笑いながら、颯爽と食堂を去る。
廊下に出たところで、私は全力で走り逃げた。
涙がこぼれそうだったから。
(あのハンカチ……一昨年私が、彼の誕生日に贈ったものだわ……)
セバスチャンに似合う色は、と、半日悩んで決めたものだ。
そのハンカチが、まさか浮気相手の涙を拭うことに使われるとは。
悲しいというより、もはや虚しくて泣けてくる……
私は神殿へと走り、礼拝堂に駆け込む。
入り口で初老の神官が、何事か、と目を丸くしていたが、今日の挨拶は会釈だけで勘弁してほしい。
申し訳ないけれど、今は人とお喋りできる余裕がない……
私は滑り込むようにして、女神の像に向き合った。
「女神様……私はさっき、食事を無駄にしてしまいました……ルルナの制服を汚し、食堂の床も汚しました。本当に、本当に……申し訳ございません」
女神像の足元には、いつもの黒ぶち猫がいた。
涙をこぼす私に擦り寄り、撫でてもいいよ、と言わんばかりに、床に体を投げ出す。
ありがたく、その腹のフワフワから元気をもらうことにした。
「……あなたは優しいわね……卒業なんてあっという間だから、大丈夫。まだ私、悪役令嬢、頑張れるわ……」
「ニャー」
猫のお腹の毛は、今日もフワフワで温かかった。
しばらく無心で猫を撫で、そしてふと、上着のポケットから紙が出ていることに気がつく。
この紙はルルナから渡された指令書だ。
今回時間がなくて、ギリギリまで演技を確認していたのだった。
ポケットに突っ込んでいたことを忘れていた。
「燃やしにいかないと……焼却炉遠いのよね……今から行ったらお昼食べる時間なくなっちゃうかしら」
取り出した紙を眺めながら、独り言をもらす。
――と、じゃれついてきた猫に、紙を奪われた。
「あっ! ちょっと! 駄目よそれ!! あなたごと燃やされちゃうわよー!!」
慌てて追いかけたが、猫は走り去ってしまった。
どうか、彼女にこの失態がバレませんよう……
私は再度、女神像へ祈りを捧げた。
■
そんなことがあってから、また十日後。
再び悪役令嬢は、ヒロインに体当たりをかましていた。
「ソォイ!!」
用意されたセリフにはない、アドリブの掛け声を発してしまうほど、豪快に。
場所は学院の敷地の一角。
色とりどりの花が咲き乱れる庭の、池のほとりで。
私は体当たりで、ルルナを池に突き落としたのだ。
ザバンと大きな音を立て、ルルナは池に落っこちた。
水しぶきが思いのほか派手に上がり、私まで水を被ってしまった。
少し体当たりの勢いが、良すぎただろうか。
心配になって、池を覗き込む。
すると、彼女はすぐに自分のセリフを喋り出した。
良かった、どうやら大丈夫そうだ。
「ど、どうして……っ? メルーシャ様……何でこんなこと……っ! 私また……何かしちゃいました……?」
「おーっほっほ! ごめんあそばせ! ちょっと急いでいてぶつかってしまっただけ――……痛っ」
いつもの高笑いをきめてセリフを続けようとした時、セバスチャンに思い切り肩を引かれた。
「いい加減にしろと言ってるだろうが……ッ!!」
セバスチャンが手を振り上げる。
――あ、これはまずい……殴られる……!
思わず身をすくめた瞬間――
「ミギャアアア!!」
空気を裂くような威嚇の声と共に、黒ぶち猫がすっ飛んできた。
猫は勢いのままセバスチャンの靴に飛び掛かり、彼は驚いてバランスを崩す。
「うわっ!? なんだこいつ!! ――あっ……」
ドボーン。
再び、大きな水しぶきが舞った。
(ま、まずいわっ……! まさかこんなハプニングが起きるなんて……ど、どうしましょ!? 私はこのあとどうしたら……!?)
チラリとルルナを見ると、射殺さんばかりの目つきで猫と私を睨んでいた。
私は小さく悲鳴をあげ、足元の猫をガバリと抱き上げる。
「ええと、ご、ごめんあそばせ!!」
猫を抱えたまま、私は全速力で逃げ出した。
突然腕の中に押し込めてしまったので、驚いたのか、猫は硬直していた。
息を切らして、校舎の裏側まで走る。
このあたりで大丈夫か、というところで、猫を腕から解放した。
「ごめんなさいね、怖い思いさせちゃったわね……池に落ちた二人、きっと怒っているだろうから、あなたはしばらくはウロウロしないで、神殿に隠れているのよ!」
猫はニャーと小さく鳴き、心なしかよろついた歩みで、植え込みの中へ逃げて行った。
それを見送り、私は息をつく。
(はぁ……仕方ないとはいえ、失敗してしまったわ……。水も被ってしまったし、一旦着替えに戻りましょう)
私は濡れたスカートを引きずり、トボトボと寮へと歩を進めた。
その日の夕方、私は神殿へと向かった。
猫は私の言いつけを守ってくれたのか、道中では姿を表さなかった。
いつものように神殿の奥で、のん気に眠っているのだろう。
神殿に入り、周りを見回しながら、奥の礼拝堂へ足を進める。
猫は、どこにもいなかった。
もしかしてルルナが捕まえてしまったのかも、とも思ったが、さっき見た彼女の様子では、そういうわけでもなさそうだった。
授業が終わったあと、ルルナの顔をチラッと確認したのだが、睨まれただけだったのだ。
きっと彼女のことだから、もし猫に手を下していたのなら、良い笑顔で笑ってくるところだろう。
睨まれて安心するというのも、変な話だが。
彼女の性格は、もう大体把握しているのだ。
猫を探してキョロキョロしながら、神殿の入口へと戻る。
外のベンチには、若い男性の神官が座って本を読んでいた。
ここの神殿にいる神官は、初老の男性と、中年女性、そしてこの男性の三人で、全てだ。
一番よく姿を見かけるのが初老の神官、続いて女性神官。
そしてあまり見ないのが、この若い神官だ。
背が高く、神官らしい清潔感のある見目をしている。
黒髪で、鋭い金色の目は少し怖い。
いつも無表情で、端正な容姿も相まって、冷たい印象の人だ。
たまに見かけても、何だか近寄りがたくて、今まで挨拶を交わしたことがない。
――しかし今日は、何よりも猫の所在が気になるのだ。人見知りしている場合ではない。
神殿周辺で見かけていないか、話しかけてみることにした。
「……あの、神官様、読書の邪魔をしてしまい申し訳ございませんが……ええと、神殿にいつもいる黒ぶち猫を、お見掛けになりませんでしたか?」
神官はパッと本から顔をあげ、私に答えた。
「いいえ、見ていませんよ」
「そ、そうですか……ありがとうございます。失礼しました」
会話はサラッと終了した。
猫はこのあたりには来ていないみたいだ。別の場所に隠れているのだろうか。
神殿以外にも、寝床があるのかもしれない。
少し心配ではあるが、この広い敷地の中を見つかるまで探す、なんてことはできないので、今日は諦めて帰るべきか。
(明日朝一で、また神殿に来てみましょう……)
そう思い、踵を返そうとしたところで、思いがけず神官に話しかけられた。
「あの猫に、何か用でもあるのですか?」
「いえ、ただ少し……気にかかってしまって」
神官は私の顔をじっと見つめる。
何やら考え込むような仕草のあと、言葉を返してきた。
「では、私も気にかけておきましょう。姿を見つけたら、あなたにお教えします」
「えっ……ありがとうございます。ご親切に、感謝いたします」
「いえ。私も猫は、好きなほうなので」
私はホッと息をついた。
話しがたい雰囲気の人だと思っていたのだが、意外と声音が、穏やかで優しい。
なにより猫好きというのは驚きだった。なんだ、同士じゃないか。
それに、神官が気にかけてくれるというのは、とても頼もしい。
慈愛をもって神に仕える神官ならば、野良猫だって、それなりに大事にしてくれるだろう。
再度神官に礼を言い、神殿をあとにする。
――今度会った時には、あの神官ともちゃんと挨拶をしよう。
今までの無礼を胸の内で謝りつつ、私は夕焼けの中、寮への帰り道を歩んだ。
翌日、猫はいつもの澄まし顔で学院内を歩き回っていた。
勝手に心配しておいてあれだが、こうも澄ました顔をされると、どうにも力が抜ける。
スンとした猫の姿に、思わず苦笑がもれてしまった。