第五章 ただ、今を描くこと & 第六章 掴み取ったのは
第五章 ただ、今を描くこと
「そこまで!」
一色の掛け声で筆を止めた俺は、疲れの色が濃い息を吐き出すと、強張った体をほぐすように伸ばした。
俺がもう一度描くことを決意してから数日。一色の家に戻ってきた俺たちは、空白を取り戻すべくアトリエで一心不乱に絵の鍛錬を積んでいた。
「やっぱり、少し開けるだけでかなり鈍るな」
描くのをやめるまではここまで描き続けてもなんともなかったはずなのだが、今は手がプルプルと震えていた。
「うん。でもここでのんびりしている場合じゃない、特別展まで時間がないんだ。オーバーワークにならないギリギリまで練習を積まないと。ブランクがある上に、一ヶ月で前の自分を超えるとなるとそのくらいは必要になるからね。さあ、休憩を挟んだら次のセットだ」
「おう」
そう、俺たちは今、一ヶ月後に迫っている特別展に向けての絵を描こうとしていた。
『春季特別展?』
『うん、卒業生の制作展と同時に行われる、在校生の有志による展示会だ。前期展や後期展に比べれば小さいが、それでもかなりの出来の作品が並ぶ。そしてそこに彼女、享楽天理が特別審査員として来ることになっているんだ』
『……!』
『その春季特別展が、今のモノクロ君の実力で彼女に絵を見せる最後のチャンスだ。そこでキミが本当は素晴らしい絵を描くんだということを証明して、彼女を見返してやるんだ』
そうして一色が提案したのが、全力のトレーニングを毎日積んで、なおかつ特別展用の絵を描くという至極単純な特訓だった。
しかし単純明快なそのトレーニングには確かな効果があり、俺は一歩ずつではあるが確かに描くのを止める前の画力を取り戻そうとしていた。
「それで、何を描くのかはもう決まったのかい?」
休憩中に飛んできた一色の質問に、俺は言葉を詰まらせる。
「いや、そこそこの物は見つかったが、まだだ」
そう、画力は戻りつつあるから支障は無い。問題は、何を描くかというところだった。
『キミの実力を見せるためには、楽しんで絵を描くことが重要だ』
『楽しむ?』
『そう、どの素晴らしい絵っていうのは、作者が楽しんで描いて、その熱意が見た人にも伝わて楽しくなっちゃうような絵なんだ。あの絵だって、楽しんで描いたんだろう?』
『まあ、遊びで描いてみた絵だったからな、少しは楽しかったさ』
『それだよ、それが必要なんだ。多彩な表現技法は、何の熱意も無い絵の前ではただのつまらない装飾さ。でもそれに熱意が加われば、圧倒的な武器になる。だからモノクロ君、画力を取り戻すことも重要だが、それと同じくらい大事なのは「何を描くか」ということさ。練習の合間に探すんだ、キミが楽しんで描ける、最高のモチーフを』
そう言われた後、俺は探し続け考え続けてはみたものの、これといったものは見つからずに今に至る。悪くはないものも幾つか見つかったが、そこ止まり。ばちんとハマるものは見つけられなかった。
「そうかい。だったらひとまずそのそこそこの物を描いていこう。探し続けて時間切れ、なんてことになったら目も当てられない。本命を描く時のデモンストレーションだと思って、真剣に描いてみよう」
「ああ」
そこで休憩を終えた俺たちは、特訓を再開する。
そうして俺は鍛錬を積んで、元々持っていた以上の画力を手に入れることができた。かなりの仕上がりを誇る作品も描け、一色からも「これでいつでも最高の絵を描けるね」というお墨付きをもらった。
けれど特別展が始まるその前日まで、最高のモチーフが見つかることはなかった。
特別展前日。午前で講義を終えた俺たちは、買い物を終えて帰路についていた。
「うー、春が近づいてきたとはいえ、まだちょっと寒いなあ」
コートで包まれた体で身震いをした一色は、こちらに笑いかけてきた。
「……ああ」
思考を巡らせていた俺が適当に答えると、一色はおずおずと尋ねてきた。
「もしかして、まだモチーフのことについて悩んでいるのかい?」
俺は驚いて一色の方へ向く。図星だった。
「わかるか?」
「わかるよ、キミともそれなりの付き合いだしね」
俺は深いため息をつくと口を開く。
「……そうだよ、このギリッギリの時になっても考えちまうんだよ」
既にアトリエには明日の特別展に出すための絵がある。だが、正直あれでは物足りない。享楽天理に見せるものとしては、決して良いとは言えなかった。
だから俺は、こんな時にも考えてしまう。一体何を描けば良いのだろうと。
「……まあ、気持ちはわかるさ。あれだけ酷く言われたんだ、より良い絵を描かなきゃって思うのも無理はないよ」
「だろ?」
「でもね、ボクは大丈夫だって思うんだ」
「……なんでだよ」
一色の言葉の真意を汲み取れず、俺は尋ねた。
昼下がりの青空の下、一色は俺の数歩前に出てこちらに振り返る。
「だってキミは頑張ってきたじゃないか。挫折を経験したのに、もう一度立ち上がった。今日までずっと練習をしてきた、それは絵にもよく表れている。だからさ」
そこで言葉を切ると、一色は真っ直ぐに俺の目を見つめ
「そんな頑張り屋のキミが描いた絵は、きっとみんなの心に残るものだって、ボクは信じているからさ」
と言って、太陽のように笑った。
それと同時に、心地よい風が通り抜けて、一色のモノクロ色の髪をなびかせる。
時間が、止まったようだった。
俺は呼吸も忘れて、目の前の光景を焼き付ける。
胸のどこかで、がちりと何かがハマる音がした。
「——浮かんだ」
「え?」
きょとんとした表情をした一色の肩を掴むと、俺は弾んだ声音で叫んだ。
「これだ! 俺の描きたいものは、これだったんだ!」
全身の毛が粟立つような感覚が、俺の中を駆け抜けた。
「くそっ、なんでもっと早く気付かなかったんだ!」
歯がゆい気持ちと爽快な感覚が、俺の中で交差する。もう時間はない、果たして間に合うだろうか。
「急がないと、もう時間が」
どうすれば間に合うか俺が思考を回していると、すべてを察したのだろう。真剣な顔つきの一色が口を開いた。
「わかった。今日はもう家事をしなくていいよ。ボクは大丈夫だから、絵に集中して」
一色からの喜ばしい、けれど申し訳ない提案に俺は戸惑う。
「良いのか?」
俺が尋ねると、一色は首を縦に振った後不敵に笑った。
「うん。ただし、最高の絵をボクに見せてくれよ」
そう言うと一色は、俺が持っている買い物袋に向けて手を差し伸べてきた。
一色には本当に、感謝してもしきれないな。
俺は口角を上げると、一色に向かってはっきりと誓った。
「おう、任せておけ!」
俺は持っていた買い物袋を一色に預けると、一刻でも早く作品を描くために全力で疾走する。
「頑張れモノクロ君! 最後まで絶対に、諦めるなー!」
一色の精一杯の声援が、はっきりと背中にぶつかってきた。
「ああ!」
聞こえているかどうかわからないような声を返して、俺は一色の家への道を更に加速して進んでいく。腕につけた時計を見ると、既に二時を過ぎていた。特別展が開催されるのは、明日の午前十時。始まるまで後二十時間を切っている。急がなくては。俺はこれ以上ないというほどのスピードを出して駆けていく。俺の背中をまだ冷たさの残る風が、まるで応援しているかのように流れた。
一色の家に着いた俺は、慌てて靴を脱ぐとすぐさまアトリエに駆け込んだ。
そうか、そうだったのか。俺が描きたいものは、最初からずっと近くにあったんだ。
アトリエに入った俺は急いで準備を終えるとラフを描きだしていく。
急げ、時間が足りない。
どう描けばいいのか、一体何を使えばそこにたどり着けるのか、思考はフルスロットルで加速していく。描いていく中で、ちらりと時計を見る。時刻は既に、夜中の十一時を周っていた。
時間は圧倒的に足りない、間に合うだろうか。
不安が頭によぎるが、すぐさま頭を振って追い出す。
いいや、絶対に間に合わせて見せる。
そのためにも、今は描くんだ。
すぐさまラフを描き終えた俺は、続けて実作に取り掛かる。
ひたすらに描いていく。何度も何度も、自分の理想に近づくまで描いては捨てる。集中を途切れさせないためにほんの一瞬だけ時刻を見ると、十二時を過ぎていることだけはわかった。
時間はどんどん減っていく、でも俺の判断は焦ることなく慎重に進み、けれど体は時間を振り切ってしまいそうなほど速く動いていく。
身体の限界を超えて稼働させているからかもしれない。
心臓はバクバクと高鳴っており、体は今にも爆発してしまいそうなほどの力にあふれていた。
けれどそんなのは気にしない、それよりもこの作品を完成させる方が重要だ。俺は更に描き進めていく。自然と顔には、笑みが浮かんでいた。
ああ、これだ。俺の描きたかったものはこれだったんだ。
はっきりとした着地点は、まだ霧に包まれて見えない。けど進むべき方向は、飛ぶべき旅路ははっきりわかる。
あとはそっちに向かって、ただ描くだけだ。
どこまでもどこまでも深く、俺は自分の世界に潜っていく。
あたりのことなんてまるで目に入らなくなり、視界には作品だけが残る。
俺はまるで、自分と絵だけが空間から切り離されているように思えた。
「……っ!」
ずっと描き続けているからだろうか、息が切れてきた。
けれど俺は体を止めず、更に深く深く潜っていく。
体も時間もどうだっていい。
ただ、今を描くことだけを考えろ。
描け、描け。俺の持てるもの全てで描け。
思考を止めるな、腕も身体も、何もかもを全力で動かせ。
描いて見せろよ物倉奏一郎。一色も頑張れと言ってくれたんだ、答えなきゃ漢が廃るってものだろう。
限界はとうに超えていた。体感にして数時間、休憩することもなくひたすらに集中して描いていた。当然だろう。
けれど体は動きを止めず、思考はなおも周り続ける。
口元に浮かべた笑みは、更に深くなっていく。
描ける。駆ける。翔ける。どこまでも飛んでいけそうだ。
そうだ、こんな感覚だったな。すっかり忘れていた。
評価だとかなんだとか、今はどうだっていい。
今をとことん楽しもう、ぶっ飛ぼう。
描いてやる、描きつくしてやる。
青空にどこまでも羽ばたいていくような作品を。
見た全員が惚れてしまうようなものを
最高を、極点を。
俺の 世界を
「……これでよし、と。ふう……」
俺がありったけを詰め込んだ作品を完成させたのは、空が白んできた時刻のことだった。
既に体力も気力も使い果たした俺は、展示できる状態の絵を前に座り込む。
どうにか完成した最高の作品を眺めて、俺は安堵のため息をついた。
出来た。完成した。
疲れた体に染み込むような歓喜が、俺の中に湧いて出る。
全身がボロボロだ。今はもう筆を持つことさえ難しいだろう。だが日付はとっくの昔に切り替わり、展示会当日の朝になっていた。最終受付が始まるまであと数時間もない、となればもう眠る時間なんてないだろう。
せめて座って体を休ませようと一息ついていると。
「……!」
俺の意識を耐えがたいほどの眠気が襲った。無理をしたツケが来たのだろう。体を蝕む心地よい眠気は、俺に眠ることを強制的に促してくる。
まずい、まだ眠るわけには……!
抗おうとするものの、瞼は何度も幕を下ろす。
「眠る、わけには……」
俺は遂に崩れ落ちる。意識が温かい微睡みへと、ゆっくりと落ちていくのがわかった。
「く、そ……」
出来たばかりの絵に手を伸ばそうとするが、体は微塵も動いてくれない。
意識が、暗闇に、沈んだ。
第六章 掴み取ったのは
「モノクロ君、起きて」
暖かな微睡みの中に一色の優しい声音が響いて、俺は意識を取り戻した。
目をうっすらと開けると、一色が俺の顔を覗き込んで来ているのがわかる。
「う、ん……」
一色の声に揺さぶられて、俺の意識は少しずつ覚醒し始める。
あれ、俺は確か……。
そこで昨日のことを思い出した俺は、かけられていたブランケットをはね飛ばすと慌てて起き上がった。
「うわぁっ!?」
驚いて後ずさった一色に気を配る余裕もなく、俺は思考を回す。
「まずい……!」
完全に寝てしまった……!
展示作品の受付は、今日の朝で締め切りのはずだ。窓の外に目をやると、既に日は高く上っていた。おそらくもう昼過ぎといったところだろう。既に受付を締め切っている可能性が高い。
今からでもどうにか受け付けてもらえないだろうか。とにかく、絵を——。
辺りを慌てて見回した俺は、渾身の力作が部屋のどこを探してもないことに気付いた。
「どこだ、早くしないと、遅れ——」
すると一色が突然、俺の額にデコピンを喰らわせて来た。
「っ!?」
俺が面食らっていると、ごめんごめんと謝って一色は口を開いた。
「落ち着きなよ。キミの絵はもう会場に運搬済みだ、受付だって済ませてある」
「本当か!」
「嘘じゃないさ。キミの頑張りを無駄になんてさせるもんか」
良かった。本当に良かった。
今ばかりは一色が、まるで女神のように見えた。
「ありがとうな、一色」
俺が心からの礼を述べると、一色は口角を上げてウインクする。
「礼なんて良いさ。あんな絵を見せてくれたんだから」
そうか。もう一色はあの絵の完成形を見ているのか、本当は会場で見てもらおうと思っていたのだが、少し残念だ。
「どうだった?俺の絵は」
期待に満ちて声音で俺が尋ねてみると、一色は少し考える素振りをしてからニヤリと笑った。
「それは会場についてから言わせてもらうよ。……ところで」
一色が焦らすように話していたその時、ぐぅ~という低く間抜けな音が一色の腹部から響いて来た。
「……こういうわけだから、お昼ご飯を作ってもらえないかな?朝から何も食べてないんだ」
顔を真っ赤に染めた女神様は、恥ずかしげにはにかむとそう言った。
昼食を済ませた俺たちは、満を持して特別展の会場であるあの忌まわしき講堂に向かっていた。一色が何度もおかわりをしていたため昼食に時間がかかり、 今の時点で時刻は既に午後三時を回ろうとしていた。
講堂近くの道は、多くの人であふれ返っている。そのほとんどが、特別展に出入りしようと歩く人たちだった。中にはちらほらと派手な衣装を身にまとった学生らしき人影もあった。
おそらくあの人たちも作品の一つなのだろう。まるでお祭りのような騒ぎの中を、俺と一色ははぐれないように気を付けながら進んでいく。
「もうそろそろ審査も終わってるんじゃないかな」
道を進む途中、先頭を歩く一色が不意にそんなことを口にした。
「そんなに早く終わるのか?」
開場は確か午前十時のはずだ。全ての作品を審査するなら、かなりの時間がかかるはず。後ろを歩く俺は、少々の不安を抱えつつ答える。
だとするなら、今朝出したばかりの俺の作品が審査されていない可能性だって、万が一にもあり得なくはない。それだけは止めて欲しかった。今回ばかりは、そんなつまらない理由で終わるわけにはいかないのだから。俺は胸の内で、審査に自分の作品が含まれていることを願う。
「先生たちは朝早くから来てずっと審査していたようだし、早めに出された作品は既に審査を済ませているらしいからおかしくはないさ。安心しなよ、キミの作品が審査されているところはこの目でしっかりと見たから」
俺が青ざめていると、一色はこちらの不安を察したらしくそう言って肩を叩いてきた。
「そうか、なら良いんだ」
良かった。それなら心配は要らなさそうだ。
俺は動揺でざわつく胸に手をあてると、ほっと一息をついた。
そんなことを話していると、遂に会場の入り口にたどり着く。俺にとっては出逢いと挫折の象徴でもある講堂は、その口をぽっかりと開けて俺がが入って来るのを待ち構えているように見えた。
その時。
『――絵を描くのなんてやめちまえ』
突然あの時の声が思い起こされて、俺は縮み上がる。呼吸は少しずつ荒くなって、冷や汗が背中を伝う。講堂内の空気が、とてつもなく重く感じた。
「どうしたんだい?」
こちらを覗き込んでいる一色と目が合う。俺の表情を見て全てを察したのだろう、一色は顔を曇らせると口を真一文字に結んでいた。
「平気だ、問題ない」
口ではそう言えるものの、足は一向に進もうとしてくれない。
くそっ、動けよ。前に進もうって決めたはずだろ。
拳を足に叩きつける。しかしそれでも痛みが残るばかりで、状況が改善されることはない。
俺が二の足を踏めずにいると、背中にそっと添えられる手があった。
手の主である一色は、俺と目を合わせるとハッキリと告げる。
「大丈夫。キミが今日まで頑張ってきたことは、ボクがよく知っている。自信を持って、前を向くんだ」
「……前を」
前を向くと、講堂の扉が再び視界に入った。
一色の言う通りだ。俺はここまで努力してきた。それは決して、間違いなんかじゃあない。一つ深呼吸をすると、俺は重い足を無理やり動かして、確かな一歩を大地に刻む。
よし、上手くいった。
続いて二歩、三歩と歩き出す。やがて足は普段と同じように、リズムよく進み出した。
進む、進める。これならきっと、講堂にだって。
俺がいざ入ろうと顔を上げると。
「……ん?」
いつの間にか、俺は講堂の中にいた。重苦しく感じていた講堂内の空気も、今は人混みの喧騒の中を穏やかに流れるのみで、なんとも感じない。
不意に、肩を叩かれる。横を向くと、一色が優しく笑っていた。
「頑張ったねモノクロ君。今キミは、過去の自分を乗り越えたんだ」
それを聞いてようやく、俺は自分が一つの壁を乗り越えたのだと実感する。
「けど本番はここからさ、行こう」
そうだ。こんなところでつまづいている場合じゃない。
「おう」
俺たちは足並みを揃えて、運命の舞台に足を踏み入れる。
人混みの喧騒に、俺と一色の足音が確かに響いた。
中に入ると、卒業を迎える先輩たちの立派な作品が堂々と展示されているのが目に飛び込んできた。どれも傑作ぞろいで、改めてこの学校のレベルの高さに驚かされる。
「特別展はあっちだよ」
「ああ」
先輩たちの作品も見ていたいところだったが、今の俺には大事な用事がある。展示から離れた俺は、手招きした一色の後をついていく。
「さっき他人の会話から聞こえてきたんだが、やっぱり審査は終わっているみたいだ」
「本当か、ということは」
「うん。賞も選ばれているだろうね」
緊張でただでさえ早い胸の鼓動が、更に早くなる。
マジかよ。まだ完成してからそんなに時間が経ってないっていうのに。
興奮で顔が熱くなる。体がすぐにでも見に行こうと言わんばかりに疼いているのがわかった。
「一色、早く行こうぜ」
期待にそわついている俺の心境が伝わったのか、一色は薄く笑っていた。
「うん、わかったよ」
俺たちは二人とも少し早歩きになって、特別展のブースへと歩いていく。
「ここが特別展のブースだよ」
一色が指差したのは——
「よりにもよってここかよ……」
そこは俺が京楽天理にボロボロにされた講評が行われたのと同じ区画で、俺は思わず顔をしかめる。
「大丈夫さ、今回はあの時とは色々と違うんだから」
「わかってはいるんだけどな……」
「ほら、早く行こう」
気を使ってくれたのか、一色が俺の背中を押してきた。
「お、おお」
俺たちは薄い壁と垂れ布に仕切られたブースの中に入っていく。中には思ったよりたくさんの、それも出来がいい展示品が飾られていた。
一色から聞いてはいたが、ここまでとは。
「ほら見てモノクロ君、あそこにあるのが賞をとった作品だよ」
「……っ!」
一色の言葉を聞いた瞬間、俺は思わず下を向いて固まってしまう。
「モ、モノクロ君?」
見なきゃいけないのはわかっているし、覚悟だって出来ているつもりだ。けれどもし、もし駄目だったら、という不安が拭えなくてたまらない。
「悪い一色、俺はこのまま下を向いているから、賞の絵のところまで連れて行ってくれ。それから見る」
我ながら、情けないと思う。でもそれが俺に出せる最大限の勇気だった。
「わかった、連れて行くから、気をつけて歩いてね」
一色は何も言わずに受け入れてくれると、俺の服の袖を掴んで引っ張っていく。俺は一色に連れられて、一歩一歩進んでいく。
その度に、胸の高鳴りは激しくなっていく。
今にも張り裂けてしまいそうだ。
いつもは軽い足の動きが、今はまるで重たい石をくくりつけられたようで。
まだ十数歩しか歩いていないのに、数時間も経ったように感じられた。
心臓はもううるさいほどに、鼓動を刻んで止まらない。
頼む、頼む。神様ってのがもしいるなら、今回ばかりは俺の方を向いて笑ってくれ。大賞が欲しいなんて望まない、そんな高望みはしないから、せめて、どれか一つでいいから賞をくれ。
そんなことを願いながら俺は震える足でどうにか進んでいく。
そして、ついに。
「着いたよ、モノクロ君」
一色の言葉に、俺は数瞬呼吸が止まる。
「さあ、顔を上げてみて」
俺は深呼吸を数度繰り返す。
ここまで来たんだ。覚悟を決めろ物倉奏一郎。
俺は思い切って、顔を上げる。
受賞作品と書かれたプレートの横には、何枚かの作品が飾ってあった。
まず目に入ってきたのは、圧倒的な実力を感じさせる、けれどどこかで見たことのある描かれ方をした作品だった。
あれ、これはまさか。
作品のキャプションを見てみると、そこには一色彩という見慣れた名前が。
その横には、大賞と書かれた装飾がつけられていた。
俺は横にいる少女を振り返る。
「えっと、その」
気まずくなったのか、一色は言葉に詰まっている。
賞を必要としてくれている俺に対して、一色は大賞を取ってもたいしたメリットがあるわけではない。限りある枠を奪ってしまったことに、申し訳なく思ってくれているのだろう。
一色の絵は、あの時の絵と変わらず、とてつもなく魅力的な絵だった。
この絵の素晴らしさを伝えてやりたいところだったが、まだそんな余裕のない俺は、どうにか言葉を絞り出す。
「おめでとう、あと、気にすんなよ」
「あ、ありがとう」
俺が賞を取れなかったとしても、それは俺の実力が足りなかっただけのことだ。一色のせいじゃあ勿論ない。それに大賞が難しいというのは、薄々わかっていたことだ。気を落としている場合じゃない。次だ。
続いて隣の作品に目を移す。金賞の装飾をつけられたその作品も、残念ながら俺の作品ではない。
もしかしたら、今回も。
怯えと焦りが、俺の中に生まれ始めた。
頼む、次こそは。
続いて隣の作品を見る。
銀賞と書かれた装飾がついた作品たちが数枚置かれている。これなら。俺は自分の作品を探してみるものの、またも見つけられることはなかった。
まずい、まずい。
俺は自分の呼吸が乱れ始め、体に冷や汗をかいているのがわかった。
駄目、だったのだろうか。
心に影が差していく。胸の高鳴りは、痛みへと変わっていく。
いや、まだだ。まだ。
俺は最後の望みをかけて、更に隣の作品へと顔を向けた。
銅賞と書かれた装飾が置かれた作品たちに目をやった俺は。
「嘘、だろ」
そこに、自分の作品がないことがわかった。
呼吸が止まる。身体中が、こわばっていくのがわかった。
絶望の影が俺の心にゆっくりと落ちていく。
駄目だった。俺の努力は、貫いたものは、また、通用しなかった。
俺は悔しさと申し訳ないという気持ちで、胸がいっぱいになる。
ごめん、一色。お前が信じてくれたのに
なんて一色に謝ろうかと、俺は視線を彷徨わせる。
その時。
——どこかで見た作品が、視界に写った。
「……え?」
俺はわけがわからず、戸惑う。
そんなわけない、だってここの絵のどれも、俺は見たことなんて。
その作品の方へと目をやった俺は。
「あ」
言葉を、失った。
銅賞の横にある、特別審査員賞と書かれた装飾が飾られた一枚の絵画。
それは、それは。
俺が今朝完成させた、果てまで美しい青のかかった空と、一匹のどこまでも羽ばたいていきそうなモノクロ色の鳥が描かれた、俺の、作品だった。
タイトルの部分には、「至る憧憬」と、俺が付けた通りに書かれていた。
取ったのか、俺の作品が、賞を。
まじまじと装飾を見ていた俺は、一つのことに気づく。
まてよ。この賞って確か。
「おめでとう、モノクロ君」
不意の声に俺が振り向くと、一色が心から嬉しそうに笑っていた。
「これって、まさか」
「そう。今回の特別展でその賞を贈ることが出来たのは、特別審査員ただ一人。だからおめでとうモノクロ君。キミは彼女に、京楽天理に認められたんだ」
あの、あの京楽天理が、俺を。
身体中が、歓喜の声を上げている。
認められたのか? 本当に?
大粒の涙がボロボロと、こぼれおちていく。
心がどこでも澄み渡っていくようで、体は安堵と歓喜で震えていた。
なんだよ、それ。最高じゃないか。
ようやく実感が湧いてきた俺は、思わず一色に抱きついた。
「え、ええっ!?」
突然のことに驚いたのか、一色は真っ赤になっている。
「ありがとう、ありがとう、一色」
俺は涙を流しながら、何度も感謝の言葉を口にした。
届いた、届いたんだ。
他の奴からすれば、たいしたことない賞なのかもしれない。
けれど俺にとっては、迷いながら歩いてきた道のりが間違いじゃないと言われたようで、積み重ねてきた努力が、無駄じゃなかったと告げられたようで。俺は最高に、嬉しかった。
「……うん、本当に、おめでとうモノクロ君。よく頑張ったね」
優しく俺を撫でてくれた一色の声も、涙に濡れていた。
俺は結局、スタッフの人に怒られ外に連れ出されるまで、そうして一色と泣いていた。涙は止まることなく流れ続けたが、俺の心はあの絵のように、どこまでも明るい青空に満ちていた。