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モノクロ・アート  作者: 七転八幸(元 鴨ミール)
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第三章 天災 & 第四章 例え傷つき倒れようとも

   第三章 天災




「楽しみだねえ、モノクロ君!」

 本格的に冬という季節の到来を感じさせる冷たく乾いた風の中、一色は一人だけ春先にでもいるようなはつらつとした声でそう言った。

「本当元気だな。アンタ」

 染みるような冷風に軽く身震いをしつつ、隣を歩く俺は答える。

 今日はいよいよ待ちに待った後期展だ。千愛芸術大学に通う生徒の全てが全力を以て作り上げた力作が展示される場。各地からもスカウトが来るような場に加えて、今回はあの京楽 天理も来る。緊張しない方がおかしいというものだ。

「この学校に通う人間なら、今日を楽しみにしない人間はいないさ」

 確かに一理あった。俺の体にも大きな緊張感と同時に、身体をせわしなく動かすほどに疼く期待感があった。

「だとしても、あんまりはしゃぎすぎるなよ。もしこけて腕でも怪我したらどうするんだ」

 もし怪我が原因で絵が描けなくなったら、絵画界にとっては大きな損失だろう。一色の絵がこれ以上見れなくなるのは俺としては非常に困る。 

「へえ、心配してくれるんだ」

 一色は意地の悪い笑みを向けて来る。確かに心配だ。だがそれを面と向かって言うのはどうにも照れくさくって、俺は目をそらした。

「モノクロ君、どうなんだい? 僕のこと心配してくれているのかなあ?」

 このまま目をそらしていれば話題は流れると思っていたが、一色は何故だか追及してきた。

「ほらほら、言葉にしないとわからないことだってあるじゃないか」

 一色はこちらとの距離を詰めると悪戯な視線を浴びせてくる。

 妙にしつこい。ここまでされる覚えはないのだが。俺はどうにかこの場を抜け出す言葉がないかと探っていると、一つの考えに行きつく。

 いや待てよ。ここで逃げれば更に弄られるだけだ。ここは一つ反撃してやろうと俺は一色を真っすぐに見据える。

「当たり前だろ。一色、俺はお前のことを家族みたいに思っている。だから心配するのは当然だ」

 言ってるこっちが恥ずかしくなってくるような台詞だが、効果はあっただろう。

 ちなみに家族のように思っているというのは本当だ。

 一つ屋根の下に暮らし同じ釜の飯を食った仲だからな。本当の家族とまではいかないが、親しい友人になれていると俺は思っている。

 さあ一色、どう返してくる?

「……」

 しかし一色はただ立ち尽くすのみで、何も変化はなかった。熟れた林檎のようになっている顔を覗けば、の話だが。

何だ、風邪でも引いていたのか? いや、今朝も朝食をおかわりしたくらいには元気だったはずだ。それはないと思うが。

「一色?」

「うぇっ!?」

 俺が一色の顔を覗き込んでみると、びくりと肩を跳ねさせて一色はこっちを見た。

「大丈夫か? 熱があるなら無理しなくてもいいんだぞ」

 といっても一色のことだ、きっと這ってでも来るだろうが。

「あ、ああ、うん。大丈夫だ。心配ないよ」

「そうか。でも無理するなよ」

 慌てたように歩き出した一色の背中を追いかける。

「……誰のせいだと思っているんだい、バカ」

 小さく呟かれた一色の声は、俺が聞き取るよりも早く冬風の中に凍り付いて消えてしまう。

「ん? 悪い、聞き取れなかった。なんて言ったんだ?」

「な、何でもないよ、行こう」

「おい、気になるだろ」

「何でもないってば!」

俺は一色に何度も尋ねるが、結局学校に着いたところで完全にはぐらかされてしまった。


 千愛芸術展において作品の四割近くが展示される大講堂。その一角に設けられたブース。そこが俺たち一年生の集合場所になっていた。

 それぞれ担任の講師の元で出席を確認してもらった俺と一色は、二人そろって席に着いた。

 十分ほど待機していると、スタッフたちが慌ただしくなっていく。どうやらそろそろ始まるらしい。

 そして、俺たちの前に一人の女性が現れた。

 鮮血のような色をした長い髪、恐ろしく整った顔では刃を彷彿とさせる鋭い瞳が強い眼光を放っている。

 すらりと伸びた長身の体躯を黒いジャケットに包んでおり、ぱっと見はモデルか何かのようだった。

 しかしその場にいる全員が、彼女が京楽 天理だと理解させられる。

 それほどの気迫を、目の前の女性は放っていた。

「それでは京楽先生、簡単なご挨拶をお願いいたします」

司会役の真田先生がそう言うと、京楽 天理は頭をかきつつ口を開いた。

「真田センセ、その先生って呼び方止めてくれよ。背中が痒くなる」

 外見からは想像もつかないぶっきらぼうなことを言い放った京楽 天理の声は、静かな威圧感を帯びていた。

「そういうわけにはいきません。今日は講師としてお呼びしたんですから。さ、挨拶を」

 真田先生はまるで怯みもせず、いつもの穏やかな物腰で京楽 天理を促した。

「わかったよ」

 柔らかく断られた京楽 天理は、ため息を一つついて俺たちの方を向いた。真っすぐに向けられる彼女の気迫に俺は息を呑む。

「つーわけで、アタシが京楽 天理だ。よろしくなジャリガキども」

突然の罵倒に数人の生徒が眉を顰め、生徒たちはにわかにざわつく。だが京楽 天理はそれを一切気にすることなく挨拶を続けた。

「先に言っておく、今回は先に告知した通りアタシに選ばれなかった奴らの講評は一切しないし受け付けない。有象無象のカスどもに使うような時間なんざないからな」

 そう。今回の講評は京楽 天理が選んだ作品のみが講評される。だからこそ俺はこの後期展に全力を注いだ。もし自分の作品が選ばれれば講評を貰える上に、稀代の天才に認められたという箔もつく。

 とすれば本気を注ぐのは当然のことと言えるだろう。俺は期待感に膨らむ胸を落ち着かせる。

「んじゃあ始めるぞ」

 京楽 天理がスタッフに合図をすると、一枚目の絵が運び込まれてきた。

 その絵は海をモチーフにして描いた綺麗な絵で、一年の中でもそれなりに出来ているように思えた。

 横の一色を見てみるとこちらに首をすくめて見せた。俺の絵でもない。

「うっし、まずはコイツだ。この絵だが……」

京楽 天理は一呼吸置くと

「多少見た目がマシなだけのゴミだ」

とんでもないことを口にした。

「まず第一に……」

 京楽天理はあっさりとその言葉を流すと、講評を始めた。

 ちょっと待て、あの絵がごみだと?

 俺と同じことを思ったのか、生徒たちは更にざわめく。

「あの人マジで言ってんのか?」

「そこまで言うことないわよね……」

「おいガキども、うるせえぞ」

 騒ぐ生徒たちを声で制すと、京楽 天理は講評を続ける。

「……て理由からここが特に最低だ。ウケを狙ったつもりかなのもしれねえが、ただでさえ低いクオリティーがゴミカス以下になってやがる。もっと考えて描け、その首についているもんは何のためにあるんだ?」

 京楽天理は捻じ曲がったナイフのような言葉で、精一杯描いたであろう作品の急所をえぐっていく。

「ひでえな……」

 俺はつい言葉が漏れる。確かに足りないところもある作品だが、けなされるほどではない。

「確かにね。だが言い方はともかく、彼女の言っていることは恐ろしく正しい。ボクたちが口を挟む余地がないほどにね」」

 一色は京楽 天理から目をそらすことなく、わずかに悲哀をにじませた声でそう言った。

「以上だ。次行くぞ」

 そこからは数枚作品が出てきたが、どれも漏れなく京楽 天理にズタボロな評価を受けていた。

 ただ一色の言う通り、京楽 天理の指摘点のどれもが納得できるもので、誰も反論をすることなく進んでいく。

 だがそれでも自分の力作を手ひどく扱われると辛いものがあるのだろう。ある絵の講評の途中、一人の女子生徒が目元をハンカチで押さえたままブースを立ち去った。

 もし俺もああなったら。そう考えると、背中が凍り付くように冷える。

 いいや、今回の絵は俺の最高傑作といってもいいほどの絵だ。絶対に京楽 天理も認めるはず。俺は拳を握りしめると前を向いて京楽 天理の講評に集中する。

 そして八枚目の作品が運ばれてきたとき、俺は気づいた。

 京楽 天理の横に置かれたのは、俺が何度か見せてもらったことのある、強い輝きを放っている作品だった。横を見ると一色はこちらにウインクを一つして見せた。やっぱりか。

街中の風景を切り取った作品は、一色が自信作だというほどあってとてつもない完成度を誇っていた。

 俺が一目ぼれした前期展の絵と同等、いやそれ以上の出来だろう。ブースの生徒たちもあまりの出来に驚いたのか、感嘆の声があちこちから上がる。

 さあ、この絵を京楽 天理はどう評価するのか。

「コイツだが、実に理想的な絵だ。大してけなすところもねえ。まあ強いていうならだな……」

 京楽 天理は一色の絵の講評を始めるが、ほとんどが絵の構成や技法について話すばかりで講評と言うよりはほとんど解説だった。

 ということは、一色の実力を京楽 天理が認めたと言ってもいいだろう。それも当然のことだ。一色も京楽 天理に負けず劣らずの天才。作品もプロクラスのものばかりだ。

 同級生が憧れの画家に認められたのは喜ばしい。だが正直に言うと、羨ましい、妬ましいという暗い泥色の感情が俺の胸の多くを占めていた。

「ま、こんなとこだな。以上、次」

 最後まで一切貶されることなく、一色の作品に対する講評は終わった。  やはり一色の絵は他の生徒たちのものとは一味も二味も違う。

 だとしたら、一色に絵を習った俺にも選ばれる可能性は十分あるはずだ。俺の胸にある期待感が、風を吹き込まれたかのように勢いを増す。

 その時だった。

 よく見慣れた一枚の作品が、スタッフの手によって運ばれてきた。

「……!」

 俺は驚きに目を見張る。胸の鼓動が周りに聞こえてしまいそうなほどに激しくなっていく。

 選ばれた、選ばれたんだ。俺の、作品が。

 不意に袖を引っ張られた。そちらを向くと、一色がこちらに笑いかけてきていた。

「よかったね、モノクロ君」

「ああ」

 どんな言葉を貰えるだろうか。褒めて貰えるだろうか。

 こんなに胸が高鳴ったのは、一色の絵に初めて逢った日以来だった。

 京楽 天理は俺の作品をちらりと見ると口を開く。

「この絵はだな……」

 期待に震える俺に与えられたのはーー

「描いたヤツをぶっ飛ばしてやりてえほどの、どうしようもないクズだ」

 鋭く尖った、言葉のナイフだった。

「え」

「まず構図だが、どうしてこんな形にしやがった。これじゃあ意味がねえだろアホか? この形で描きたいのであれば選ぶべき風景はコイツじゃあないだろうが。だいたい……」

 その構図は、ずっと温めていたとっておきの構図だった。

「そんで次は塗りだ。何でこの彩度で塗った? そうすれば全体の印象が淡くなるとでも思ったか? うっすい上に無駄なんだよ。これのせいで全部台無しだ。それくらい少し考えればガキでもわかることだろうよ」

 そう塗りたかったのは、アンタの作品の好きなところを俺の絵にも取り入れたかったからだ。

「それとだな……」

 京楽 天理は次々と、俺の作品の欠点を述べては言葉で抉り刺してくる。

 俺の渾身の力作は、ありったけの一枚は、京楽 天理の前になす術なくボロボロにされていく。良いと思って詰め込んだ全てがあっけなく否定されていく。

 俺にとって最高の一枚は、京楽 天理の前ではただの紙クズに過ぎなかった。

 唇を噛んで拳を握る。身体は既に、止めてくれと叫んでいた。

 けれどそれは声になることはなく。京楽 天理の無慈悲な口撃は止むことなく降り注ぐ。

「そして一番ムカつくのは、コイツに使われた技法だ。いくつも使われている癖に、大半が猿真似以下のゴミカスでしかねえ。少しはマシなのも混ざっちゃいるが、その程度だ。邪魔にしかなってねえんだよ」

 そしてついに一番の自慢であった箇所も、へし折られ叩き潰される。

 俺が学んで得て来たものたち全てが、拒絶され無へと帰る。

 横で一色が心配そうに、こちらを窺ってくるのが視界に写った。けれど今はその心配さえ、痛みとなって突き刺さる。

「いいか、この絵を描いたやつ。もしテメエが今後こんな絵しか描くつもりがないのならな……」

 京楽 天理は一呼吸おくと、刑罰を告げる裁判官のように言った。

「描くのなんて、やめちまえ」

 それが、とどめだった。

 俺の中で何かが砕け散る音がして。

 涙が、頬を伝った。

「モノクロ君……」

 一色が俺の手を掴んできていた。白く綺麗なその手は、仄かに暖かい。

 心配してくれているのだろう。でも俺にはその手が、ひどく残酷なものに思えた。

「悪い、今は、一人にしてくれ」

 俺は一色の手を振り払うと、ブースを後にする。

 周囲の生徒たちの視線が、遠慮なしに突き刺さった。

 見るんじゃねえよ。

 殴りかかりたいような気分だったが、そんな気力も既に無かった。

 俺は講堂の外に出ると、正門まで早歩きで向かう。

 届かなかった。認められなかった。

 悲しみが、悔しさが、胸のうちで荒れ狂う。それは一歩進むごとに、勢いを増していった。俺は何もかもを振り払うかのように走り出す。瞼から溢れた熱い雫が、コンクリートの道路を点々と濡らしていく。

 不意に、何かにつまづいて転んだ。俺は派手に倒れ、地面をわずかに滑る。

 転んだ拍子に唇を切ってしまったのだろう。口の中に鉄の味が広がった。

 俺は何もかも嫌になると、道路に仰向けに寝転がって空を見た。

 雨雲に埋め尽くされた空は、まるで灰色で塗り潰したようだった。




   第四章 例え傷つき倒れようとも



「ん……」

 俺は今日も昼過ぎに目覚めると、怠惰にまみれた欠伸を一つする。

 窓の外を見ると、雪が降っているのが見えた。

 あれから、三日が過ぎた。

 心を叩き折られた俺は、一色の家に帰ることなく元いた自分の家であるボロアパートに戻ってきていた。

 あの後一色からは何度か連絡が来たものの、全て無視している。

 学校にも、あの日から行っていない。

 絵筆をとったのも、京楽天理に否定されたあの絵を描きあげた日が最後だ。

 俺は机の端に転がった筆に目をやる。

 使い込まれた絵筆は、描いてくれとこちらに訴えかけて来るようで。

 すぐさま俺は目を逸らした。

『絵を描くのなんてやめちまえ』

 絵に関係するものをほんの少しでも見ると、あの日の言葉が思い起こされて、まだろくに癒えてもいない傷を抉る。

 ああ、アンタの言葉通り、やめてやったよ。

 俺は小さく舌打ちをすると、布団を被って再び夢の中に逃げ込もうとする。

 もう絵のことなんて、どうでも良かった。

 かつてあった情熱も好奇心も、もう今の俺の中にはない。代わりに心に満ちているのは、才能がない自分に対する無力感と、こんな俺のために大金を払ってくれた両親への罪悪感のみだった。

『だから言ったろう? お前には才能がないのだと』

 どす黒い感情は再び形となって、俺に嘲りを含んだ声で囁いて来る。

 ああ、そうだな。俺には最初から、才能なんて無かったんだ。

『そうだ。アイツもどうせお前のことなんて、どうでもいいと思っているさ』

 アイツ。

 俺はたくさんのことを教えてくれた、モノクロ髪の少女の顔を思い浮かべた。

 あの時、手を振りほどいた時、一色は俺と似たような表情をしていた。

 今にも泣き出してしまいそうな、そんな顔を。

 なんで、アイツはあんな顔をしていたのだろう。

 いくら考えても俺があの天才でない以上、答えが出ることはなかった。

『何をしようと、何を考えようと無駄なのさ。俺たちには何もないのだから』

 そうか。そうだよな。俺には、アイツに近しいものなんて何も持ってやしないのだから。

『その通りだ。だからお前は、今日も惰眠を貪っていればいい』

 影の言葉は俺に甘く心地よく響いて、眠りの世界へ誘おうとする。俺は逆らわず、そのまま眠ろうとして——

 ピンポーン

 と言う呼び鈴の音で、それを妨げられた。

「誰だよ……」

 俺は居留守を決め込むことにして、布団を被ってじっとする。

 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。

 けれど呼び鈴はけたたましく、訪問者の手によって何度も鳴らされる。

「っ……」

 とうとう俺は折れ負けて、玄関へ向かうと扉を少し開ける。

「はい、どちら様……」

「ようやく出たね、モノクロ君!」

 聞き慣れた、けれど最近は聞くことのなかった凛とした声に、俺は驚いて目を見開く。扉の前に立っていたのは、もう会うことはないと思っていた一色 彩の姿だった。

「一色、お前、どうやって」

 確か俺の家については教えていなかったはずだ。

「事務の女性を泣き落としたのさ、嘘泣きだがね。それで教えて貰ったのさ」

 たかが俺に会うために、そこまでしたのか。

 俺は改めてこの天才の恐ろしさに呆れると、溜め息をこぼした。

「で、何の用だよ」

「これだよ、これ」

 俺の言葉を遮って一色が差し出したのは、一つのトランクケース。受け取って中を開くと、そこにあったのは一色の家に置いてきた絵の道具たちだった。

「捨てちまえば良かったのに」

「そんな訳にはいかない。キミの大切な物だろう?」

 大切なもの。確かにそうだが、今の俺にはあの日の苦痛を思い出す物でしか無かった。引き取ってもらおうと一色の顔を見るが、その真っ直ぐな瞳に射抜かれて言葉に詰まる。

「……受け取るだけだからな」

 俺はそう言って一色からトランクケースを受け取った。その様子を見て、一色は満足そうに頷いた。

「それじゃあ、これで——」

 扉を閉じようとした俺は、袖を引っ張られて動きを止める。

 振り返ると、一色は真剣な顔つきをしていた。

「話したいことが、あるんだ」

 それは一色が絵を描く時とはまた違った、神妙な面持ちで。

 そんな顔をしたまま一色は、不安に揺らぐ瞳でじっと俺の目を見つめてくる。

 おそらく、俺の答えを待っているのだろう。

 俺の服の袖を握る手は、わずかに震えていた。

 もし俺が嫌だと言えば、一色は受け入れて引くのだろうか。そんなことを

考えて、俺はすぐに無いなと否定する。

 きっと俺が無理だと言っても、一色は俺が話を聞くまで何時間でもこの雪空の下で待ち続けるだろう。俺なんかのために。

 一色がそういう奴だということを、俺はよく、よく知っていた。

「……大したもてなしは出来ないからな」

 俺が目をそらして言うと、一色の顔はパッと華やいだ。

 けれどそれは一瞬のことで、すぐに神妙な面持ちへと戻る。

「うん、ありがとうモノクロ君」

 俺が扉を開けて招き入れると、一色が続いて入ってくる。

 しんとした雪が舞う空気の中に、扉の閉まる音が染み入るように響いた。


「……で、何の用だよ?」

 少し荒れた部屋の中、一色とテーブルに相対して座っている俺は、白々しくそう聞いた。

 本当は一色が何を言いたいのかなんて分かっていたのに。

 一色は少しの間俯いていたが、意を決したかのように前を向くと口を開いた。

「先に、一つキミに言っておかなければならないことがある」

 そう告げた一色は、床に手をつくとこちらに頭を下げて来る。

「すまない。ボクのせいでキミが傷つくことになった。悪いのはすべてボクだ」

 床に頭をつけて、あの一色が、あの天才が、俺に謝っている。

「……アンタは悪くねえよ。俺に才能が無かったってだけの話だ」

 俺は自分が情けなくなって、目をそらして何の慰めにもならない言葉をかける。

 すると一色は顔を上げ、真っすぐに俺の顔を見て口を開いた。

「その上で言わせてもらう。モノクロ君、もう一度絵を描く気はないかい?」

「……は?」

 俺は一色と初めて会ってから何度発したか分からない、呆れと驚きが入り混じった言葉を発した。

 一色の目は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。

「キミはもっと上手くなれる。こんなところで潰えていい才能じゃない」

 だと言うのに、言っている内容は冗談そのものだった。

 才能? 京楽 天理に全否定される程度の絵しか描けない俺に、何の才能があるっていうんだ?

 実に面白い冗談だ。

「無理だ。どうせ俺には何も出来やしないさ」

「そんなことはない。キミにはあの京楽天理にだって負けないようなものがある」

 俺が否定しても、一色はしつこく食い下がって来る。

 京楽 天理に負けないもの? だったらなんで、俺はあの人に否定されたんだ。

「もう一度ボクと練習をしよう。そうすれば、いつかきっと報われる日が来る」

 いつか? いつかって何だよ。その日が来るなんて保証、一体どこにあるっていうんだ。所詮は俺をいつまでも家政夫として置いておくための詭弁なんじゃないのか。

 一色が言葉を重ねるたびに、俺のどす黒い感情は募っていく。

「だから無駄だって言ってるだろ。アンタの勘違いでしかないことに俺をこれ以上巻き込むのは止めてくれ」

 俺は少し語気を強くして、突き放すように言葉を吐き捨てる。

 これ以上話すと、自分の内側に溜まっていくこのどす黒い感情があふれ出てしまいそうだった。

「勘違いじゃあない! ボクは確かにキミの絵に惹かれるものがあって」

「きっと見間違いだったんだろ。俺の絵になんて何の価値もない」

 やめてくれ。これ以上心にもない慰めなんて欲しくはない。

「違う! 現にボクは、前期展の時にキミの絵を見て——」

 もう、頼むからやめろよ。

 そこで、遂に胸の内に潜む感情があふれて俺を黒く染めた。

「……うるせえな」

「え?」

 一色は驚きに肩を跳ねさせて停止している。

「お前に、何がわかるっていうんだよ。お前みたいな天才が俺の何を知っているっていうんだよ!」

「モノクロ君……?」

 荒げた声でそう叫んだ俺は、テーブルを左手の拳で叩く。あたりの空気が一瞬にして張り詰めた。

 戸惑いの色を含んだ瞳で、一色は俺を見つめている。

「アンタみたいに才能のあるやつはいくらでも言えるだろうさ、いつか報われる、何かの形で救われるってな。けどな、俺みたいな凡人にはそんな時なんて何時までたっても来やしないんだよ!」

「それは……」

 一色が何かを答える前に、まくし立てるように俺は続ける。

「アンタは知ってるか!? いくら努力を積んだところで、何も上達しない虚しさを! 最高の傑作だと思った絵が、憧れの人にズタボロにされた悲しみを!」

 俺は喉が壊れてしまいそうなくらい、大きな声で叫ぶ。

「知らねえだろうな! アンタは一度も失敗なんてしたこともない、天才なんだから!」

 目の前にいる少女は、何も悪くない。けれど俺の口は、魂は、怨嗟の声を紡いで止まらない。

「アンタに出会って思い知ったよ、自分が何の才能も持ってはいない、ただの役立たずだって!」

 苦しみの叫びを吐き出すたびに、身体の内側を抉るような痛みが、何度も何度も俺を貫く。

「あんなに辛い目に遭うってわかっていたなら、俺は踏み出さなかった!」

 諸刃の言葉はなおも飛び出す。そのたびに俺の心は、激痛に苛まれる。

「こんなに悲しい想いをするって知っていたなら、絵なんて描かなかった!」

 それでも、感情を叫ぶことは止められない。もし止めれば、大切な何かが枯れ果ててしまいそうだったから。

「どうせ俺はクズだ、クズなんだ。俺なんて、何の価値も……」

 その時。

「——止めるんだ」

 静止の声が、響いた。

「もう、止めるんだ」

 一色の声は凛とした、けれど静かな重圧を感じさせる声だった。

「一色……?」

「モノクロ君、それ以上自分を傷つけなくていい。キミはこれ以上、悲しまなくていい」

 いつも明るい輝きに満ちた一色の瞳には、今は憂い気な光が灯っていて。

 自分の言葉が彼女を悲しませたのだと理解した俺は、少し気が引けて言葉を詰まらせる。

「すまない。キミの痛みを、苦しみを、わかってあげられなかった。ずっと、キミは傷ついていたんだね」

 一色は何も悪くない、だというのに俺に謝罪の言葉を告げている。

 なんて情けないんだろうか。

 俺はますます自分を嫌いになって。心はまた深く抉られる。

「これを言えば、キミを更に傷つけることになるだろう。でもそれでも一つ言わせてもらうよ。ボクは天才じゃあない、ただの人間だ」

 白々しいその言葉に、俺の胸は赤黒く煮え滾る。

「……嘘だ」

「本当さ。と言っても、信じてくれないかもしれないけどね。けれどボクがキミのことを全て知らないように、キミもボクのことを何もかも知っているわけではないだろう?」

 まるで小さな子供に諭すように、一色は俺に尋ねて来る。

「キミとボクが違う人間である以上、お互いの全てを知ることは不可能だ。きっと人は、本当の意味で他者を理解することなんてできないよ」

 理性的に冷静に、何度もそれを見て来たかのように、一色は呟いた。

「……」

 俺は何も言えずに、ただ沈黙を返す。

「ボクは確かに恵まれた環境にあった。両親も応援してくれたし、家庭だってかなり裕福な方だろう。だがボクがここまで上達できたのは、ボク自身が努力し研鑽を積んだ成果だ。それは誰にも否定させはしないし、ましてや『才能』なんて言葉でくくられたくない」

 一色の鋭く輝く眼が、俺を空気に縫い付けて離さない。

「人は圧倒的な実力を前にしたとき、それを『才能』と呼んで追いつくことを諦める。けどねモノクロ君、世の天才と呼ばれる者たちは決して天賦の才能だけで成り上がったんじゃない。血の滲むような努力を惜しむことなく、絶えず前に進んできた。それだけのことなんだよ」

 天才、才能。それは俺が絵を描くたびに何度も頭に浮かべた言葉でもあり、渇望した物でもあり。

 俺が心から願うものを、一色は真正面から否定した。

「ボクだってそうだ。幼少の時から積み重ねて、ようやくここまで来ただけなのさ。キミの言っている上達しない虚しさも知っているし、失敗だって何度もしたよ」

 一色は俺の目を真っすぐに見ると、はっきりと告げた。

「もう一度言うよモノクロ君。ボクは天才ではないし、自分のことをそうだと思わない。今までも、これからも」

 本当に、一色の実力は全て、努力の結果だって言うのか?

 才能でも、環境でもなく?

「なら、どうしろってんだよ……!」

 俺は闇の中をどこまでも落ちていくような気分になって、床に嗚咽を吐き出した。

 追いつけているというのは、何の根拠もない勘違いに過ぎなかった。

 背中が見えていると思った少女はただの幻想でしかなく、本当の背中はずっとずっと遠い、無窮の空の果てにある。

 それはひどく残酷な、けれど確かな、現実だった。

「才能も無い、努力も足りない! そんなゴミみたいな俺は、一体どうすれば良いっていうんだよ……!」

 昏く淀んだ重い涙が、俺の瞼から大粒になって零れ落ちる。

 自分を信じて前に進めば、いつかは彼らに追いつけると、肩を並べられると信じていた。

 けれどどれだけ努力を重ねても、どれだけ高みを目指そうとも、それ以上の速度で空を翔けていく天上の星には決して届かない。

 なら地の底を這う人間は、暗がりに生きる者たちは、一体何を希望にして進めばいい?

 胸が張り裂けそうなほどの痛みに襲われて、俺は独りうずくまる。

 思考も感情も何もかも、どこまでも深淵に落ちていく。

 俺がどうしようもない絶望に陥った、その時。

 顔に、一色の手が添えられた。

 暖かいその手で、くしゃくしゃになっている俺の顔をそっと上げさせると、一色は俺に目を合わせた。

 そして。

「それでも、描くんだ」

 一色は優しい光に満ちた、でも突き放すような声でそう言った。

「どんなに絶望しようとも、どんなに辛い目に遭おうとも、また立ち上がって、描くしかないんだ」

 真っすぐにはっきりと飾らずに、一色は残酷で明朗な現実を突き付けてくる。

「だって、好きなんだろう? ——絵が」

 こちらを見透かしているかのような一色の瞳が見つめてきて、俺は咄嗟に目をそらした。

「じゃああの筆に、最近使われた跡があるのはどうしてだい?」

 見られていたのか。俺の胸の鼓動は、少しばかり早くなる。

「別に、そんなわけじゃ」

「あれだけひどいことを言われても、キミはもう一度筆を取って描こうとしたんだろう?」

「それ、は……」

 図星だった。俺はあれから何回か、絵を描こうと挑戦した。

 けれどその度にもし否定されたらという思考が頭をよぎって、筆を動かすことが出来なくなってしまって。

「心が一度折れたのに、キミはそれでも立ち向かおうとしたんだ」

 違う。俺はそんな強い人間じゃない。

「俺には、無理だ」

 俺はかすれたような声で、自分に言い聞かせるように告げた。けれど一色は首を横に振って、俺の手を優しく握って来る。

「いいや、出来るよ。もしキミがボクのことを天才だと思っているのだとしたら、その天才がキミの絵を好きだと言っているんだ。そんな絵を描けるキミが、出来ないはずがないんだよ」

 俺の絵を、一色が? 雷に当たったような衝撃を受けて、俺は固まる。

「キミとボクが出会ったあの日のことを覚えているかい?」

一色の質問に、俺は曖昧に頷いて返す。

「……忘れられるわけないだろ」

 大して前のことではない。俺はまるで昨日のことのようにあの日を、一色との出会いの日を思い出すことが出来た。最もあんな衝撃的な出会い、いつまでたっても忘れられそうにないが。

 一色は俺の答えに頷くと、

「ボクのことをキミが探していたように、ボクもある人を探していたんだ」

 俺の手を更に強く握った一色は、深呼吸をすると口を開く。

「それはね、キミだよモノクロ君」

 そう言って一色は照れくさそうに笑った。

「どうして、俺を」

 頭に浮かんだ率直な疑問を、俺は口にする。俺には何の知名度もなければ、探されるような実績もない。一体、なんで俺のことを。

「前期展に飾られていたキミの絵だよ」

 前期展の絵? 俺は今となっては思い出したくない一枚の絵のことを思い出す。あの絵は何も知らず、愚かにもただ描いていただけの時の絵だ。ひどい出来だったあの絵が、一体何だって言うんだろうか。

「あの最低の絵が、どうかしたのかよ」

「ボクはね、あの会場でキミの絵が一番大好きだと思ったんだ」

 時が止まる。

 今、なんていった。俺なんかの作品よりもずっと素晴らしいものがいくつも並んでいるあの会場で、俺の絵を?

「わからねえ」

 吐き捨てるように俺は答えると、一色の手を振り払う。

「わからなくないさ。前に言っただろう、絵は好きか嫌いかで良いんだって」

「そうだとしても、俺の絵には好かれるような要素なんてねえよ」

 様々なことを学んで成長した今でさえ、京楽天理に否定された。だったらあの時の俺の絵は、もっとひどいものだっただろう。それのどこを好きになったのだろうか。

「確かにあの絵は、出来が良いとは言えないものだったさ。でもあれにはあふれんばかりの楽しいって気持ちと、やってやるっていう決意があった」

 一色は思い出を振り返るかのように、胸に手を当て目を閉じている。

 ああそうだ。あの絵を描いた時の俺は、この学校に入れたことで浮かれていて、他の生徒より劣っているという事実をまだ知らず、ただ良い絵を描こうと無謀にも描き続けていた。

 けどその後、自分は大海の蛙にすぎないと知った。俺は自身の愚かさに気づいて、無駄に描き続けることを止めたのだった。

「ずっと高くどこまでも飛ぼうとするような絵を見た時、ボクは見惚れたんだ。キミの絵にね」

 俺はそれまで貫いてきたものは、間違いだと、捨てなくてはいけないものだと思っていた。

 けれど俺が否定し拒絶した絵を、一色は好きだと告げて来る。

 なんでだよ。あの時だって、たった一人しか。

 その時、俺は思い出した。

 前期展で俺の作品を多くの人が流し見ていく中、一人だけじっと作品の前に立って眺めていた少女がいたことを。

 あの子は確か、この学校でもかなり珍しい、モノクロ色の髪をしていたはずだ。あれはまさか――

 俺が驚きを隠せないでいると、一色はそれに答えを返すかのように微笑んで、もう一度俺の手を確かに握って言った。

「だから描くんだ、物倉奏一郎。キミの絵は、誰かの好きになれる絵だ」


 世界が、止まったように感じた。


 一色の暖かい言葉が、色が落ち凍り付いた俺の心に突き刺さる。

 ずるいだろ。

 なんで、そんなこと言うんだよ。

 俺は目から流れそうになるものをぐっと堪え、歯を食いしばる。

 少しでも気を緩めたら、崩れ落ちてしまいそうだったから。

「……俺には、わからない」

 あれからずっと諦めようと思っていたのに。ずっと逃げ出そうと考えていたのに。

「俺の中には何もない、どうしようもない最低のクズだ」

 全部捨ててしまおうと、そうすれば楽になると、信じていたのに。

「けど、それでも、それでもさ」

 そんな言葉を聞いてしまったら、俺は――

 胸に灯った想いの炎が氷を溶かし、痛いほどに燃えている。

 身体中が、一つの願いを叫んで止まらない。

「……俺に、出来るのかな」

 そして、その想いは言葉となって生まれ落ちた。心から零れた、縋り付く小さな子供のような弱弱しい問い。

「出来るさ。ボクはキミを、信じている」

 突き抜けるような答えが、返ってきた。

 俺の問いを一色は真正面からまっすぐに肯定する。はっきりした根拠もないのに、未来がわかるわけでもないのに。

 でも今はその言葉が何よりも嬉しくて、何よりも救われた。

 頬を、温かい涙が流れ落ちる。

「描きたい。俺、まだ絵を描いていたいよ、一色」

 心の底からの想いを打ち明ける俺を抱きしめてきた一色は、そっと優しい手で背中をさすってくれた。

「うん、描こう。キミの大好きな絵を、何枚だって」

 そう言った一色の目にも、涙が滲んでいた。

 俺はそれからしばらく泣き続けた。誰かの目の前で泣いたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。

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