プロローグ 衝撃的で運命的な & 第一章 始まりは突然に
プロローグ 衝撃的で運命的な
一目ぼれというものを、したことがあるだろうか。
たった一度、相手を目にしただけで、惚れてしまうというあれだ。
恋愛経験がないものからしてみれば、実在するのか少し疑わしくなるほどのもの。
多くの人が経験することないまま、生涯を終えるだろう甘い理想。
俺もそれに漏れることなく、実在はするだろうが、一生そんなものに縁は無いだろうと、心の内では思っていた。
だから、俺はそれが自分の身に起きた時、訳が分からなかった。
ただ、胸の中に感じる強い高揚感。視線は対象に釘付けになり、その場から動けなくなる。
そして自分の内側で熱を帯びるものの正体に気づいた瞬間、俺は思わず笑っていた。
同時に、まあ、そうだろうなと納得していた。目の前にあるそれを見れば、一目ぼれも当然と思えた。
それほどのものだった。——この絵は。
水彩で描かれた、とある日本の道端。
とても鮮やかで、美しい色調で彩られた一枚の絵。
繊細だが力強いタッチで描かれたそれは、見たものを魅了する魔力を放っていた。
俺は続けて作品のキャプションの方へと目を移す。
題名は空欄で、何も書かれていない。
俺は題名の下に書いてあった作者名を見て、一つの確信を覚える。
一色 彩。
俺はその名前を、生涯忘れることは無いだろうと。
第一章 始まりは突然に
十月。冬の足音が、少しづつ大きさを増して迫ってくる頃。
千愛芸術大学でこの時期と二月、二度に渡って行われる、学生の日ごろの鍛錬、その成果を発表する場、千愛芸術展。
俺、物倉奏一郎は、芸術展の会場を歩いていた。
会場では様々な作品たちが、それぞれの輝きを放っている。
俺は飾られた絵の一つの前に立つと、鞄からメモを取り出し食い入るように見つめた。モチーフ、テーマ、構成、技法。まだ未熟な一年である俺は、どの絵からも学ぶことは多い。
人から何かを盗むなんて、と言う奴もいるが、そんなのは盗む力もない奴のたわごとに過ぎない。盗めるものは盗むべきだ。盗むことこそが上達のコツ、という言葉もあるほど、先人から学ぶことは重要だ。
俺はまだまだ上手くならなければならない。そのためだったら、幾らでも盗んでやる。
数枚のメモに学んだことを書き込み終えると、俺は次の絵に移る。
俺はそれを何度も繰り返す。メモのページは次々に文字で埋まっていく。
こうして幾つもの絵を見ていると、次第に作った人間の裏事情というものが、絵から透けて見えてくる。
締め切りに間に合わず、間に合わせで出したのであろう完成度が低い絵。
自分の技量に合わないものを描こうとして、結果失敗している絵。
何もかもが凡庸な、実に平均的な絵。
展示された絵の大半が、それらに当てはまるものであった。
しかしたまに、何かしらに優れた絵に出会う。
それは他の絵よりも、はるかに強く輝いていて。見ていると思わず唇を噛んでしまう。
そういった絵は学ぶことが多く、大抵メモのページがすぐさま文字で埋め尽くされる。
メモを書き終えた俺は、作者の名前をジッと睨みつける。
そして、
「見てろよ、いつかはお前も超えてやる」
と、密かな決意を独り言ちた。
そうして幾つもの作品たちを見ていくと、途中で人だかりに遭遇した。
てっきり雑談でもしているのかと思ったが、どうやら違うようだった。
彼らは一つの作品に、まるで甘いものに群がる蟻のようにたかっている。
同年代の学生や、初老の講師、見学しに来た卒業生らしき人間まで。
多くの人間が、一枚の作品に集っていた。
そこまで素晴らしい作品なのか?
気になった俺は、本来回ろうとしていたルートを変更すると、人の波をかき分けながら前へと進む。
人波の先にあったのは、一つの水彩画だった。
描かれていたのは、何の変哲もない、道路と街路樹、それから空が写った道端、日常のどこにでも広がっている風景、だというのに。
一目ぼれ、とはこういうことを言うのだろう。
俺は目を見開くと、呼吸すら止めて目の前の芸術を見つめる。
視線をやらずとも、自分の手が震えているのがわかった。
それもそうだろう。こんな作品を見せられたら、誰だって。
絵を見たその時から、落雷を受けたかのような衝撃が、俺の中で暴れ続けていた。同時に、ヴォーデン賞を取る作品は、間違いなくこれだろうという確信が、俺の中にあった。
千愛展では、展示作品の全てを講師達が審査し、いくつかの素晴らしい作品に賞を贈る。
そして最も優れた作品に送られるのが、ヴォーデン賞。全生徒達の憧れだ。かくいう俺も、在学中には是非取りたいと思っている。
そのためにも、この絵から多くのことを学ばなければ。
俺は震える手を握りこんで落ち着かせると、メモにびっしりと文字を書き込んでいく。
そして気づく、この作品と、これを書いた人間の恐ろしさに。
この水彩画は、全てにおいて抜きん出たクオリティーを持っている。
絵を構成するどの要素を抜き出しても、全国から絵狂いが集まり、切磋琢磨するこの学校の中でもトップクラスと言えるほどの技巧を感じられる程だ。
プロの作品と言われても、疑う余地すらないだろう。それは良いとして、この作品の何より恐ろしいところは遊びがあるという点だった。
この絵には、通常の技法とは違う方法を用いられて描かれた箇所が多く存在する。千愛展では、こうした遊びを出した作品は一切見られないという。それもそうだ。もし挑戦心を出して失敗でもすれば取り返しのつかないことになる。
それはバックアップの取れない絵画にとっては致命的で、出来れば避けたい、というのが本音だろう。実際俺の見てきた作品も、何もかも無難、という作品が大半で、いくつかある良い作品も、アイデアは斬新だが技法は手堅い、というものが全てだった。
だがこの作品は、ただでさえゾッとする程素晴らしい作品だというのに、より挑戦し、先に進もうとしている。俺がいくら望んでもたどり着けそうにない場所にいながら、更なる高みへと向かおうとしている。
こんなの。
「こんなの、ずるいだろ……!」
俺は誰にも聞こえないような声で呟くと、唇を噛んで拳を痛いほど握りしめる。この絵から見えるのは、作者の類いまれなる才能と技術。より良くなろうとする成長への貪欲さ。そして、絵を描くことに対する心からの喜びだった。それらは、俺にどうしようもなく足りないもので。
だから俺は、この絵を書いた人間が妬ましくて、羨ましかった。
この絵に比べれば、俺の今まで書いた絵はゴミクズ当然だ。勿論俺だって、今回の千愛展には作品を出している。だが、出来るまでは傑作だと思っていたが、こうして客観的に観ると何もかもが並といったところだった。
実際、作品を見ている途中、自分の作品の方を何度か窺ってみたが、講師以外は女子生徒らしき人影が一人いた程度だった。今までの頑張りでそれなりに上達出来ていると思っていた自分が、ひどく馬鹿らしくなってくる。
泥々とした暗い感情が、俺の中に溜まっていく。
ただ。
ただそれでも、メモを取る手は止まらない。
羨望と嫉妬、そして自戒の波に覆われようと、憧れへとたどり着きたい、追い越したいという願望は溺れることなくここにある。
メモを書き終わった俺は、絵の下に飾られたキャプションに目をやる。タイトルの部分には何も書かれていなかった。綺麗な白紙だった。
俺は続いて作者名を見てみる。
一色 彩。
俺はこの三文字の名を目に焼き付けると、その場を後にする。
名前をメモに書く必要はなかった。その名前を忘れることは、この先一生無いとわかっていたから。
そして俺は会場を後にする。あの絵を見れたんだ、他の絵なんてどうでも良い。
それよりも今は一色 彩を探さないと。一体どうすればあんな絵を描けるのか。今すぐにでも本人にあって、聞きたかった。普段どんな練習をしているのか、道具はどんなものを使用しているのか、あわよくば絵のコツだって聞き出したい。
何より、あの絵を描いた人間を、この眼で見てみたい。
そんな想いが、俺の足を加速させる。
展示会場である体育館から、建物一棟分離れた場所にある事務室。入り口にある自動ドアを抜けて中へと脚を踏み入れると、中から凛と響く声が聞こえてくる。
「どうして駄目なんだい! 少しくらい教えてくれたって良いじゃないか!」
「ごめんなさいねえ。最近は色々と厳しくって、個人情報を教えるのは難しいのよお」
どうやら先客がいたようだった。個人情報がどうとか聞こえてきたが、まさか俺と同じ目的か? 俺は声の方向へと近づいてみる。
すると一人の少女と事務の女性が、相対している場に遭遇する。黒髪で落ち着いた格好の女性と比べて、少女の方は奇抜な髪色をしていた。
ピアノの鍵盤、その白と黒を反転させたような、白と黒の入り交じった長く綺麗な髪。身に纏っているのは白いパーカーと黒いジーンズ。
肌も透き通るかのように白く、有彩色がほとんど無いその姿はまるで、モノクロしかない世界から飛び出してきたようだった。
そんな少女の長髪は、少女がこちらを向くのに合わせてふわりと揺れた。猫のような瞳が、俺を数瞬見つめる。人形のような美貌とはこういうことを言うのだろう。俺は少女の顔を見て、そんなことを思った。
「はあ、仕方ない。この場は諦めるとしよう」
少女は渋々といった様子で肩をすくめると、事務を後にすべく歩いていく。
「ごめんなさいねえ。それで、そちらの方は何のご用事?」
おっとりとした口調で謝罪を述べると、女性はこちらに視線を写す。
「所属を教えて欲しい人がいるんです。一色 彩って人なんですけど」
「あらあ、あなたもぉ? ごめんなさい、そういう情報はあんまり教えられないのよお。最近は色々厳しくてねえ」
「そこをなんとかお願いできませんか」
「私も出来ることなら教えてあげたいんだけどねぇ。情報を教えちゃったせいで嫌がらせとかストーカーに遭って、学校を辞めちゃう子とかいたのよぉ。そういう被害を出さないためなの。ごめんなさいねぇ」
「そう、ですか」
やはり駄目か。なら仕方ない、自分でどうにか見つけ出すしかない。
数百人いる生徒の中から一人を見つけ出すなど、砂の山の中から一粒の金を見つけ出すようなものだが、それでもやってやる。
俺が改めて決意を固めていると。
「なあ、キミ」
ついさっき聴いた声と共に俺の肩が叩かれる。振り返るとそこには立ち去ったはずの白黒髪の少女がいた。
「一色 彩を探しているのかい?」
「ああ、そうだけど」
「そうか。だったらキミは運が良い。ボクとは違ってね」
ボク。女性の一人称としては少し違和感があるが、うちの大学にはおかしな人間が幾らでもいるということを、入学してまだ半年しか経ってない俺でも知っていた。それらに比べれば、たいしたものではない。俺は違和感を飲み込むと、少女に尋ねる。
「まさか、知り合いなのか? 一色 彩と」
だとしたら、今日はあの絵に出会えたことも含め、本当に運が良い。今日ばかりは神様というものに感謝するくらいだ。少女は口角を上げると、胸を張って話し出す。
「いいや、違うさ。知り合いでもなんでもない。だがよく知っているよ。なぜならボクこそが、一色 彩本人だからね」
「……え?」
こいつが、一色 彩? あの絵を描いた、張本人? 俺は思考が追い付かず、口をパクパクと金魚のように動かすことしか出来ない。
「どうしたんだい? 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして」
豆鉄砲どころか、大砲が直撃したぐらいの衝撃だった。
「取り敢えず、お茶にでもしようか」
そう言って、目の前に立つ天才は笑う。
まだ目の前で起きたことを処理できていない俺にできたのは、ただ曖昧に頷いて、後ろについて歩くことだけだった。
「あらあ、良かったわね」
事務の女性の実に呑気そうな声が、背中に聞こえたような気がした。
「なるほど、キミはボクに絵のコツを教えてもらいたい、ということだね?」
事務室を出て少し歩いた位置に存在する、多くの生徒たちから美味しいと評判の学食。その片隅のテーブルで、一色 彩は首を傾げて聞いて来た。彼女の前に置かれた紙コップ内の紅茶が、静かに湯気を立てている。
俺はブラックのコーヒーを一口すすってから、口を開く、苦味も酸味も、ほとんどわかりはしなかった。
「ああ。勿論、ただで教えてもらおうだなんて思っちゃいない。ある程度なら謝礼を払うし、俺に出来る範囲だったらアンタの望むことをしたっていい」
「ふうん。まあ、それは良いとしてさ。キミ、大丈夫かい?」
「……何がだ?」
「ほら、プライドとかさ、そういうのって、人によってはあったりするだろう?」
ああ、と俺は納得する。確かにどこにでもいるものだ。講師からのアドバイスは良いが、同年代やそれより下からのアドバイスは一切受け付けないという、プライドばかり高い人間が。けどそれに関しては問題なかった。
「プライドなんざ、とうに捨てたさ。持っていたって意味がないってことをよく知っているからな」
「そうかい、ならいいんだ」
紅茶に口をつけていた一色 彩は、満足げに口角をあげると、顎に手を当てて考え込む。
「うーん、とはいえボク側から何か要求することは無いんだけどなあ……あ、そうだ」
天井を向いて少しの間唸っていた一色綾は、何かを思いつくと柏手を打ってからこちらに視線を戻し聞いてきた。
「キミ、料理は出来るかい?」
「まあ、人並みには。一人暮らしだからな、一通りの家事なら出来る」
「そうかい」
突然なんだ? 俺は一色彩の意図が読めず、顔をしかめる。絵のコツと引き換えに料理を作るというのは、正直割に合わない。とすればこいつは一体、何を考えているんだ?
「……うん、いいよ。君のその提案、受けようじゃないか」
「本当か!?」
断られても仕方ないと思っていたが、まさか引き受けてもらえるとは。これほどついている日が、これまであっただろうか。
「勿論、条件はあるがね」
「ああ、俺に出来る範囲なら、何でも言ってくれ」
あそこまでの絵を描く天才から教わることが出来るんだ。多少の金銭や労働なんて、安いものだ。まあ、一大学生に払える額なんてたかが知れているのだが。
「じゃあキミ、今日からボクの家に住み込んで家事をしてくれ」
「ああ、わかっ……今なんて?」
目の前の天才は、今何を口走った? 俺はまたも脳の処理が追い付かなくなる。
「だから、ボクの家に住み込めと言ったんだ。そして君は家事をする。そしてボクはキミに毎日絵を教える。お互いに得しかない、素晴らしいアイデアじゃないか」
「はあ!?」
どこが素晴らしいんだ、どこが!
「待て、それは色々おかしいだろ」
「どこがだい?」
「まず一つ目だ。そっちの出した条件が簡単すぎる」
一人暮らしの人間のする家事なんて大した量じゃない。最悪、業者にでも頼めばいい話だ。
「簡単? 何を言っているんだい。この世で最も大変なことは、まともな生活をすることだ。 食事の用意に掃除洗濯、どれもボクには耐えがたいほど面倒だ。それを他人にやってもらえるんだ。絵を教えるには十分な対価だと思うけどね、ボクは」
天才には何かしらかけている物もあると聞くが、なるほど、今ならその言葉の意味がよくわかる。
「……まあそれはいいとしてもだ。住み込みが出来るような家に住んでいるのか、アンタ? 俺に物置だとか、挙げ句の果てには外で寝ろとか言い出したりしないよな?」
まあ正直絵を教えてもらえるのであれば、それぐらいは二つ返事で了承できるのだが。
「問題ない。僕の家にはまだ空き部屋がある。それに、キミとボクで作業をしてもまだスペースに余裕があるくらいのアトリエも完備している。これでもまだ駄目かい?」
アトリエ。そんなものまであるのか。つくづく天才というものは、自分のような凡人とは何もかもが違うと理解させられる。
「最後に一つ。俺は男でアンタは女だ。俺みたいなまだ知り合って十数分の、どこの馬の骨とも知らない奴を家に入れちまって良いのかよ」
俺がそういうと、一色 彩は鼻で笑った。
「それは一番心配していないところだ」
「……どうしてだよ」
「さっきキミにプライドの話をしただろう。その時キミがしていた瞳さ」
「瞳?」
「あれは……そう、何か光を渇望しているような、そんな眼だった。あんな目をするような人間が問題を起こすとは思えない。キミ、そんなこと考える暇があったら絵のことを考えるって人間だろ?」
光を渇望している、か。
実際、その通りだった。俺は自分が届かないはるか先で星のように輝く人間が、たまらなく羨ましくて妬ましくて。自分もそんな風になりたくて。だからこうして一色 彩の元に来た。
「ああ。俺が興味あるのは、アンタが持っている絵の腕前だけだ」
「だろうね」
笑顔で頷く一色 彩は、こちらに小さく綺麗な、けれど多くの絵を描いてきたのだと一目でわかる手を差し伸べてきた。
「じゃあ決まりだ、僕は一色 彩。まあ知っているだろうけど、よろしくね」
「俺は物倉 奏一郎だ。よろしく頼む」
俺がしっかりと手を握り返して名前を名乗ると、一色 彩は目を見開いた。
「どうしたんだ?」
「……いいや、なんでもないさ」
一色 彩はそう言うと、口端を上げて呟いた。
「面白い偶然というのも、あるものだね」
面白い偶然?
俺が疑問に思っている間に、一色 彩の言葉は学食の騒がしさの中に溶けて消えた。