第112話 あたしに氷術は効かないのよ
『もう二度と関わってこないで』と、私は目の前の氷結鬼に言ってしまった。
おじいちゃんを侮辱された怒りから、気付けばそう叫んでいた。
叫んでから、私はハッと我に返った。
私自身に問いたかった。
私こそ、グレースの気持ちを考えたことがあったのかと。
幼い頃から一緒に暮らしてきた親友が、自分を庇って罰を受け、頼れるはずの大人は皆封印され、藁にもすがる思いで知人が誰もいない人間界に降りてきた彼女の気持ちを。
降りた先でかつての親友と再会出来たことが、彼女にとってどれほど嬉しかったことか。
またあの頃に戻れると希望を持ったはずだ。
また幼い頃と同じ生活を取り戻せると思ったはずだ。
それなのにその親友から拒絶されてしまったのだ。
どうして、と思うに決まっている。
「ご、ごめんなさい……あ、あなたは悪くないのに、つい……」
目を瞑って叫んだまま、グレースの顔は見られていない。
グレースがどんな表情をしているかも分からない。
どんな言葉が返ってくるだろうか。
私は彼女を直視出来なかった。
「あぁ、別に良いよ。やっぱり、駄目だったかぁ」
鼻をすすって、グレースは天を仰いだ。
情けない笑い声をあげながら、白い長髪に指を絡めてなびかせ、
「心のどこかで思ってたんだよ。ひょっとしたら無理かもしれないって。……変に期待しなくて良かった」
「ご、ごめん、なさい……」
「こんなことはしたくなかったけど……でも、わたしにはルミが必要なの」
あなたはこの名前で呼ばれるの嫌いだと思うけど、と、彼女は付け加えた。
「許してね。【吹雪】」
そう言って、グレースは赤い瞳をカッと大きく見開いた。
途端に、もうすっかり日が沈んで暗くなった路地裏から、吹き抜けるような吹雪が吹いてきた。
____グレースの氷結鬼としての能力。
咄嗟にそう思った。
目の前に立っているグレースは、先程とは表情を一変させて、私を睨み付けるようにして瞳を赤く光らせていた。
吹き付ける吹雪に、私は思わず腕で顔を覆った。
でも、腕で見えないはずのグレースがしっかりと見えるのだ。
……何で?
一瞬、そう思ったけど次の瞬間には、腕はまた私の顔を覆っていた。
と、思ったらまたグレースが見える。
要するに、私の腕が現れたり消えたりしているのだ。
「これ……何なの?」
「ルミをわたしの中に取り込んでるんだよ。ルミがわたしの中に入ってくれたら、問答無用で一緒に村に帰れるでしょ?」
小首を傾げて、グレースは笑った。
そんな、私、グレースに吸収されちゃうってこと?
そんなの嫌だ! 私はおじいちゃんとこれからも人間の村瀬雪として暮らしたいのに!
ズルズルと引きずられて、徐々に体が前に進んでいく。
吹き付ける吹雪に押されて、グレースの方に勝手に近付いてるんだ。
嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!
必死に抵抗しようと体を後ろに反ったけど、それも労力の無駄だとすぐに分かった。
そんなことをしても、体の一人でな前進は止まらない。
「ふふふふ、素直に従ってくれないから悪いんだよ? 悪いのはルミ。わたしじゃない」
薄く笑って、グレースは首を横に振った。
「い、嫌だ……吸収されたくない……!」
そうだ、こういうときは助けを呼べば良い!
「誰か助け……うっ!」
叫ぼうとした私を、吹き付ける吹雪が遮った。
雪の粒に全身を打たれて、私は叫ぶのを止めてしまったのだ。
「抵抗したら、も~っと嫌な目に遭っちゃうけど、それは良いのかなぁ~」
氷下心結の時ののんびりとした口調で、グレースは言った。
薄く引き伸ばされた唇が揺れて、彼女が笑っているのが分かる。
この子は最初から、自分の体内に私を取り込むのが目的だったんだ!
その為にあらゆる手段を尽くして私に関わってきた。
今思えば、一番最初に行ったカフェでかき氷パフェと言った大量の氷を私に進めたのも納得がいく。
私の体内に氷をたくさん蓄積させて、変化を見てみようと思ったに違いない。
策略とは知らなかったけど、あの時普通のパフェを頼んでおいて正解だった……!
でも今は確実に逃げられない。
冷たくて強い風のせいで体が強張ってるし、前に押し流されて抵抗しようにも力じゃ負けちゃう。
どうすれば……このまま吸い込まれるしかないなんて嫌なのに……!
「村瀬!」
不意に背後から私に向かって叫ぶ声がした。
低くて、でも温かくて、聞くと安心する声。
……風馬くんだ!
「心結、何考えてるの!!」
私はハッとした。
来てくれたのは風馬くんだけじゃなかったんだ。
高くて、今まで聞いただけで憂鬱な気分になっていた声。
「あ、亜子……!!」
赤く目を光らせたまま、グレース____心結ちゃんが目を見張った。
そして同時に今まで私を押し流していた吹雪もぴたりと止んだ。
頑張って後ろに体重をかけていた私は、反対の力が無くなったせいでバランスを崩してしまった。
「う、うわぁっ!?」
地面にぶつかっちゃう……! と思った時。
私の体は、誰かに受け止められた。
「大丈夫か!? 村瀬!」
風馬くんだった。彼が受け止めてくれたんだ。
「風馬くん……ありがとう」
私は慌てて立ち直り、体勢を整えた。
そして私の前に後藤さんが立った。
「な、何のつもりよ、亜子」
悔しげに唇を噛み締めながら、グレースは『氷下心結』の姿に戻った。
白かった髪は黒色に戻り、黒マントも消えてセーラー服になる。
黒い長髪を下ろした状態の心結ちゃんは、怒りの眼差しで後藤さんを睨み付けていた。
「それはこっちが聞きたいんだけど」
腰に手を当てた後藤さんは、変化した心結ちゃんを見ても特に驚く様子も見せなかった。
「何で邪魔したの!? もうちょっとでルミと一緒になれると思ってたのに!」
「そんなことして、良いと思ってるのね。馬鹿じゃないの? あんた」
これまで散々私を嘲り蔑んできた時の口調と変わらず、今度は心結ちゃんに言葉を吐く後藤さん。
「あ、亜子に何が分かるの!? 親友とようやく再会出来て喜んでたのに、その親友に拒絶されたんだよ!?」
私を指差して、心結ちゃんは怒りの形相で叫んだ。
「頭を冷やしなさい。考えたらその答えがすぐに分かるから」
後藤さんは静かにそう言って、心結ちゃんに背を向けた。
「行くわよ、柊木くん、村瀬さん」
「こ、この……!! 【氷柱針】!」
叫び、手から氷の塊を生み出して投げ付ける心結ちゃん。
それが後藤さんの背中に迫っていた。
「ご、後藤さん!」
私は思わず叫んでいた。
「【鉄壁】」
後藤さんは小さく呟いた。
すると心結ちゃんが投げた氷塊は、後藤さんの背中に当たる寸前に鋼の壁にぶつかって散り散りになった。
「なっ……!」
目を見開く心結ちゃん。
後藤さんは首だけを心結ちゃんの方に向けると、
「あんたこそ覚えてないのね。あたしに氷術は効かないのよ」
狭い路地裏を封鎖するかのように立てられた鉄壁。
その向こうで、心結ちゃんの怒りと悲しみに満ちた叫び声が響き渡った。




