第一章 春、香る <6>
2時限3時限と終わり、放課時間になるたびに例の件が頭を凭れさせていた。そして今は昼休み。
この時間を有意義に使おうと、屋上や実習教室などで昼食を摂る生徒は多い。周りがざわめいている中、自分の席に座ったまま右腕で頬杖をつき、窓から外を眺めていた。
「どうした?黄昏ちゃって」
ゆっくり振り向くとそこに梅田が立っていた。
「別に……」
そう答えると、また外に目をやった。
「まあいいや。今泉、飯は?」
今朝、母が弁当を作るのをお休みすると言っていたのを思い出した。
「ああ、どうするかな……」
「じゃあ、いっしょに食堂行かないか?」
購買でも、どちらでもよかった。
「あぁ……そうだな」
「なんだよ、元気ないな」
「あぁ……」
気を使わせているのがなんとなく分かる。
二人で食堂へ歩きだすが、俺の歩みは梅田に見えない縄で強引に引っ張られているようだった。
一階の食堂に入ると、そこは軽音楽が流れる綺麗な空間が広がっていた。
職員室ほどの広さに、できるだけ寛げるよう所々に150cmほどのゴールデンカポックが置かれている。壁には、清潔感を思わせる白を基調にした壁紙が張られていて、訪れる者のほとんどがやすらぎを感じるだろう。
入ってすぐ右側には食券販売機が設置してある。そこで毎日決められた5種類のメニューの中から選んで食券を購入する。そして厨房のおばちゃんへカウンター越しにその券を渡して待つ。
その間、厨房で生徒達の注文に追われ忙しく動き回る姿をぼーっと見ていた。
麺を茹でる人。ご飯を茶碗に盛る人。食器返却口から食洗機に運ぶ人。それぞれが分担してこの戦場と化した厨房内で激戦を繰り広げている。
「はい、お待ちどうさま。ラーメンセットね」
脇に置いてある割り箸の束から一膳取り、出来上がったこの700円のラーメンセットを持ち、すでに座っていた梅田のところへ歩いていく。
歩く他の生徒を掻い潜りながら、白く丸いテーブルを挟んで対面側に座る。
梅田は俺が席に座ることに気が付くと
「今泉、これ」
そう言って用意してくれていた水の入ったガラスコップを、テーブルの中央に置いた。
「ありがと」
早速、割り箸を割り数本の麺を挟む。そして口に頬張るが、吸い込む時に湯気が気管支に入って咽てしまった。思わず、吐き出すまいと口をどんぶりに近づけながら麺を噛み切りそのまま飲み込んだ。
「そんなに焦らなくても」
梅田はうどん定食のかき揚げを頬張る。
その言葉に反応を示さないまま、また何本かの麺を口に運んだ。
この食堂で初めて食事をしているのに、なんの感想も思いつかない。しかも、このラーメンセットが美味いのか不味いのかそれさえも興味がわかない。ただ、惰性に目の前にある料理を食べているだけだった。
しばらくして梅田が両手でどんぶりを持ち、うどんの汁を飲み干し終わると、
「あのさ」
目線を梅田に向けると、不安げな表情をしていた。
「朝からずっと変だぞ」
そう言われて、俺は静かに箸を置く。
「やっぱ、そう見えるよな……」
「なにかあったのか?じゃなく、あったんだよな?」
梅田の洞察力は、鋭く正解だった。
「あ、うん……」
成るように成れと考えればそれはそれで済むことなのかもしれない。でも、あれは彼女なりの間接的な告白と俺は捉えている。だからといって、らしくない状態になっていることを、まだ数日しか会って間がない梅田に話すのはどうかと躊躇われた。
本来、校舎内にいるうちは学園生活を第一と考えるのが普通の優先順位だとは思う。だけど、今はどうしてもそんな気になれなかった。
他人から見れば、そこまで引きずるほど大きなイベント事ではないのかもしれない。しかし、このことが大きな壁のように目の前に聳え立ち、解決できるまでそこから一歩も動けず金縛りにあっているようなそんな気がしていた。
「何があったのか、分からないけど僕でよかったら聞くよ?」
周りのいろんな雑多音より、この変哲もない言葉が何より一番強烈に心へ響いた。
そして思った。
いっそのこと打ち明けても良いのかもしれないと。
昨日の昼休みから今に至るまでの経緯を話してみた。
梅田は、両腕を組み椅子の背凭れに上半身を預けた。
「うぅぅぅん……」
このての話で、即回答を出せる人はほとんどいないだろう。
梅田は、その顔の表情からして親身に考えてくれてるようだ。
一度鼻で深呼吸してから、
「僕もあまりこういう話題は苦手なんだけど……とにかくその子と話をしてみたらどうだろうか?そしたら、いろんな事から開放されるかもしれないよ」
それは、自分でも分かっていた。
「まあ、そうなんだろうけど」
「それに」
「それに?」
「うん、それに今の今泉の顔をもし彼女が見ていたら、あまり良い気はしないと思うよ」
「……」
俯いた視線の先に、コップの周りに付いた水滴がゆっくりと下へ流れ、他の水滴と交わりながら大きくそして早く流れて行くのを、目で追っていた。
確かに……
「まだ友達に成り立ての僕が思うんだからさ」
その瞬間、壁が崩れ落ち瓦礫となる破片すら綺麗さっぱりなくなった思いがした。そして、知らないうちに一歩を歩み始めていた。
顔を上げると、今まで気にもならなかった事が見え始めていた。
隣のテーブルで女生徒達が最近の話題で楽しく会話していること。それから、この食堂にだけサン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」〜白鳥が軽やかに流れていること。
「なんとなく気持ちが晴れたみたいだね」
「そうかもな」
冷めたスープを吸って太くなった麺を口いっぱいに押し込みながら、俺は梅田に感謝していた。
これが高校に入学して初めて親友と呼べる友ができた、掛け替えのないひとときだった。
それ以来、放課のときはいつも梅田とゲームのことや、今までお互い触れた事のない恋愛のこと、それからあまり大きな声では話せないようなことまで、いろいろ気持ちの部分で打ち解けることができていた。
徐々に他のクラスメートとも仲良く話せるようになって、友達の輪が大きくなっていくことがたまらなく嬉しかった。
半月が過ぎた頃には、このクラスで俺の事を今泉ではなくヒカルと呼ぶ生徒が多くなっていた。
それから日を追うごとに気温も上昇して、男子は紺のブレザーを脱ぎ、女子はブレザーから同じ色のベストに衣替えしていた。ズボンやスカートも通気性のよい生地で、そろそろ夏を感じさせる季節と変わりつつあった。
でも、季節がいくら変化していても後戻りさせる記憶はそのまま残っていた。
忘れていたわけじゃない、切っ掛けとなるタイミングを待っていた。
それに家へ帰れば、たまに遥から尋問を受けていた。
どうなった?なにやってるの?どうする気なの?他に誰かいるの?
関わりたくないような事を言っておきながら、これだ。
まったく、女ってやつは。
裏では何かあるのかもしれないけど、全ては彼女との会話で決まる。
そろそろ夏休みを意識し始める頃、彼女と俺は偶然に下駄箱で2度目の遭遇となった。
一瞬、彼女とは気がつかなかった、それはメガネからコンタクトレンズに変えていて、髪形も違っていたからだ。
彼女はクラブハウスに向かう途中で急いでいるようだった。俺はというと、予定もなくただ帰宅するだけ。
お互い顔を見会わせハッとした表情だったが、先に口火を切ったのは彼女だった。
靴に履き替えて、俺と向き合い両手を後ろで繋ぎ少し俯き加減で、
「えっと……この後……時間……ある?」
来るべき時が来た。
「うん大丈夫。でも部活……あるんだよね?」
彼女は顔を上げて、にっこりとする。
「覚えてたんだ」
そりゃあれだけ遥から尋問やら罵声を受けてれば嫌でも忘れないだろうし、逆に忘れるほうが困難なわけで。
「どうすればいい?」
「うぅん、どうしよっか」
咄嗟に、静かであまり人目につかない所を思い起こしていた。
「あ、屋上なんてどう?」
同じことを考えていたようで、
「そうね、じゃあ屋上で少し待ってて。部室で用事終わらせてすぐ向かうね」
「わかった、先に行ってる」
彼女は恥かしそうに走っていった。
見えなくなるまで目で追い、体育館の建物で見えなくなるとゆっくりと、屋上へ向かった。
予想はしていたが、いざと成るとやはり緊張する。
こういう状況は過去にもあった。でも、平常心でいられるはずもなく場所を指定するときでも、頭の中にハツカネズミがグルグルと動き回っているようだった。
途中、食堂の自動販売機で小さめのホットミルクティを2本買い、鞄の中へ入れた。そして結論をどうするべきか考えていた。たぶん、いろんなことを話すだろう。あれから一ヶ月ほどの猶予があったのだから、当然彼女は回答を求めてくるに違いない。
どうする……
前置きの話に流された勢いで、安易な回答だけはしたくはない。
それにお互い高校生になったばかりとはいえ、小中のときのような御ままごとレベルとは違う。経緯はどうであれ、彼女の話をじっくり聞いてみてからでも遅くはないと思った。
とにかく話をしよう。
屋上の扉を開けると辺り一面、薄っすらと茜色に染まりつつあった。
舞上った気分だったがあの時の判断は正しかった。放課後だけあって、ここで時間を潰す生徒は誰もいなかったからだ。
「ここに来るのは2度目か……」
持っていた鞄をベンチに置き、ただ何を見るわけでもなくフェンス際で景色を眺めていた。強くはないがやや風が吹いていた。その風は冷たくはなく、上着を必要とすることはない。少し前なら上着がほしいと思っただろう。桜も葉桜と変わり、陽も段々と長くなる。そして梅雨の時期が到来し真夏の前の貯水補給をする。
そろそろ夏か。
自分の影が伸び少し強めの風が吹いたとき、屋上の扉が開く音と同時に女性の声が聞こえた。
「もう……」
振り向くと左手でスカートを押さえ、もう片方の手で髪の毛が舞うのを押さえている彼女がいた。
周りを見渡して俺を見つけると、恥ずかしそうに近寄ってきた。
「ごめんね、遅くなって」
「いや、景色見てて時間のこと気にならなかったから」
そう言って景色に視線を戻す。
彼女は右隣で同じく景色を眺めた。
「ここ……初めて」
「俺は2回目かな」
しばらく無言が続いた。先ほどの穏やかな時間とは違う、男と女二人っきり独特の時間が時を刻んだ。
心の中で否定と肯定を繰り返すような、そんな押し問答を繰り返していた。
「あのさぁ……」
微妙に震えた声が、振り向いてほしいと訴える。
彼女に顔を向けると、右手はフェンスを掴んで小刻みに震える左手は握られていて胸元にあった。向けられる眼差しは優しく真剣そのものだった。
「遥ちゃんから、聞いてると思うんだけど……」
「うん、聞いてる。それと手紙のことも」
そのとき彼女の少し日焼けした顔が赤く染まるのを見てとれた。
そんな彼女を見て俺は動揺してしまった。
「あ、いや、うん、その……まずかった……かな?」
いつものように人差し指で眉間を掻く。
「ううん、いいの。たぶんそうなると思ってたから」
そう言うと、彼女は一度目を閉じ、そのまま顔を外へ向けた。
「えと、ごめん。もっと早く俺がこういう場を作るべきだった」
このシチュエーションで、どう包み隠そうとしても無駄だと思い、あれからの心境を嘘偽りなく話すことにした。
「あれからすごく悩んだ。遥にも、散々あれこれ言われた。それと、塞込んでいた時があって、クラスの友達に心配を掛けたりもした」
彼女は真剣に話を聴く。
「でも……それより何より、俺の意思がどうしたいのかが判らなくて今日までずるずると来てしまった」
俯いてしまう彼女。
「だから……ごめん!」
目をグッと瞑り深々と頭を下げる。咄嗟に頭を下げたものの、彼女の表情が気になった。
怒っているだろうか、それとも泣かせてしまったか。
二人の間を風が通り過ぎ、しばらくして彼女が口を開く。
「いいの……」
その言葉が聞こえると、彼女の表情を見つめた。
「私もね、実はあんな事しなければと後悔してたんだ」
彼女は穏やかで、それまでのような緊張ではなく安堵したよな表情で語り始めた。
「あのとき、もしあんな手紙ではなく話ができていたならと、何度も一人で反省してた。今まで同じクラスになったこともなくって、だからたぶん私の事知らないと思ってたし……」
心を見透かされていたようだ。
「私ね、中学の頃から陸上やってて、いつも日焼けしてるから男の子みたいって言われてた。髪も短くて、みんなからそう言われたのが切っ掛けで伸ばし始めたけど、まだこんな感じ」
彼女は髪の紐を解くと頭を左右に振った。解かれた髪は空を舞い落ち着くと肩ほどの長さだった。
そして小声で、
「男の子から声掛けられた事……ないんだ……」
空を見上げ、瞬きをするその目には潤むものが傾いた陽の光で輝いていた。それは一人寂しく、今まで苦悩した証のように見えた。
「周りの女の子は、普通に彼氏の事とかデートがどうだったとか楽しそうに話すの。でも私はその話に加わりたくてもできなかった。それどころか逃げてた。そんなとき思ったんだ……どうして他の子にはできて、私にはできないんだろうって」
話の端々に切なさを感じる。
「羨ましかったんだ……でもね」
彼女は振り向き、俺の顔を確認するかのように見つめ思い出を語る。
「そんなとき、君と出会ったの」
「それって」
そのとき俺は眉を反応させた。
彼女はそれを見逃さなかった。
「あ、でも勘違いしないで。別に誰でもよかったとか、そういうのじゃなくって」
両手のひらを前に軽く左右に振り、取り繕うように話を続けた。
「たぶん、覚えてないと思うけど。中学の部活で運動場を走ってた時、目の前にボールが転がってきて拾ってあげたことがあったの。それに駆け寄って来た君に手渡してあげたの……覚えてる?」
まったく記憶に残っていない。片鱗でもと探るがどうしても思い出せなかった。彼女は首を傾げる俺の表情を見ながら話を続けた。
「そしたら君が、ありがとうって言ってまた戻っていった。そのときね、立ち竦んだまま見とれちゃった……格好いいって。あんな人が彼氏だったらなぁって」
記憶にない自分を褒められているようで、恥かしく眉間に指がいく。
「それからなんだぁ……君を意識するようになったのは」
話を聴いているうちに、あの昼休みに思った第一印象が変化していくのを感じた。
「ごめん、覚えてないや……」
彼女は残念な表情をしながらも、明るく話す。
「そうよね、別に特別なことでもないし覚えてるはずないよね」
すごく悪い事をした気分だった。でも出会いなんてそんなものだとも思った。以前、女性の普段なんてことない仕草に惹かれたことがあった。だから気持ちはわかる。
「でも俺は、君が言うほど格好よくない。それに何処にでもいる駄目男だよ」
彼女は下から覗き込むように見つめる。
「そう?」
その何気ない行動に一歩身が引けた。
「うん……」
戸惑った表情が可笑しかったのか、彼女は鼻でくすりと笑った。
「私……嬉しかったの」
「何が?」
「こんな私でも、恋ができるんだってね」
そう言った時の彼女の顔はとても輝いていて、注がれるその眼差しは生き生きと満ち溢れていた。
俺にはない物がこの子には有ると思った瞬間だった。
そして聞いてみたくなった。
「俺のどこが気に入ったの?」
意地の悪い質問だった。この質問の答えはとても難しく、もし俺が問いかけられた立場なら口を開くまでかなりの時間を要するだろう。
それでも聞きたかった。
「うぅん、なんだろ」
彼女は昔の事を思い出しているようだった。
ずっと向けられていた瞳は、極狭い範囲を左右に落ち着きなく動いていた。
数分の沈黙を得て、彼女はこう答えた。
「どこの部分とかそういうのじゃなくて、君から醸し出す未来絵図って言ったら格好付け過ぎ?」
「うぅん……」
言葉の意味が理解し辛かった。たぶん、いろんなことが複雑に絡んでいるのかもしれない。だけど容易く出てくるような言葉ではない事だけは分かる。
「なんかね、君が見てるものを私もいっしょに見たくなった、そんな感じかな」
「なかなか、奥が深そうだね」
腕組みをして首を傾げていると彼女はまたくすくすと笑い、俺もその笑顔に釣られて苦笑いした。
「あ、そうだこれ」
ここに来る途中で買った、ミルクティーを鞄から取り出した。
「ありがとう」
お礼の言葉に笑顔で答えた。
缶を握るとまだ温かく、封を開けて飲んだ。
彼女はそれを受け取ると、近くにあったベンチに腰掛けた。そしてスカートからハンカチを取り出し、スカートの上に広げミルクティーの口を開け一口飲んだ。
彼女は缶を両手で持ち、人差し指でプルタブを一度弾く。そして俯いたまま口を開いた。
「あのね……」
「ん?」
何かを決意するように、彼女はゆっくり深く呼吸する。
「私の事……どう思う?」
核心を突かれた。覚悟はしていても、YESかNOを迫られるのはどうしても気持ちが右往左往する。
だけど。
「佐々木さん……」
「葵でいいよ」
顔を上げ、力強い視線を送ってきた。
「葵さん……」
ミルクティの缶が凹むほど力が入る。
「俺は」
2人見つめ合い俺は物静かに語った。彼女の両手に添えられたミルクティは手と共に震え、ひと筋の涙がゆっくりと頬をつたう。
彼女の瞳は潤いが止むことなく夕日に照らされていた。
そんな彼女に俺は、
「……」
本文修正 12/10