第一章 春、香る <5>
イライラする。
リビングの中央に、盤面強化ガラス製のテーブルを囲むように置いてある黄色のソファーに深々と座り込む。心の中でブツブツと小言を言っていると、30分程して遥が風呂から上がるなり2階へ向って行くのが見えた。
上下淡いピンクのスウェット姿で、首にはバスタオルを掛け、髪がまだ乾いてないまま部屋から例の手紙を持ってリビングに入ってきた。
やつの事など知るかとばかりに無視をする。
遥はテーブルを挟んで反対側のソファーに座り手紙を一通り読み終わると、また険しい顔で絡んできた。
「参ったか」
「何が?」
「読んでみたら判るわよ、このバカ兄!」
遥は手紙を俺の顔に投げつけた。
「なにすんだ、てめぇ!」
ムッとして遥を睨み返した。
「あぁあ、バカ兄のおかげで気分最悪」
「いったい何を知ってるんだ、お前は」
「ふん!」
まだ文句言い足りない不満顔で、バスタオルを頭に被り髪を拭きながら自室へ戻っていった。
1人リビングに残った俺は、渋々散らばった手紙を向きやページを気にしながら丁寧に集めた。
イラつく気持ちを抑え、この問題の手紙を読んでみる事にした。
女の子独特の可愛いレター用紙。一語一句逃さないように読む。
多少だが、遥があんな態度をとった理由が判った。
昼休みに廊下で呼び止めてきたあの子は俺と同級生の 佐々木 葵 さんで、中学の頃から俺のことが気になっていたらしい。そんなとき彼女が所属していた陸上部に遥が入部してきた。そして俺の妹であることを偶然知る。
その後、何度か告白を試みようとしたが、結局なにも伝えることができないまま高校受験で忙しくなり、それどころじゃなくなってしまう。
半ば諦めかけていたとき、自分が進学する高校に俺も通うことを卒業式当日、担任の先生が教えてくれた。すると彼女はこれはきっと運命かもしれないという衝動に駆られ、春休みの期間ずっとどうしようか悩んでいたようだ。しかしなかなか良い案が浮ばず、どうしようもなく後輩である遥に相談を兼ねてそれとなく伝えてもらう方法をとった。
「う〜ん……」
この手紙を読んでしまった罪悪感と、読まずして彼女の気持ちを察しろという遥の言動に無茶があると思った。
とりあえず理解はできた。できたがどうすれば良いのか判らなかった。
癪に障るがやつに相談するのが妥当かもしれないと思った。
ソファーから立ち上がり階段を上がって、遥の部屋の前に立つと憂鬱な気分になる。
まだ怒っているのは兄妹じゃなくても判る。
緊張気味にノックする。
「なに?」
行動を見抜いていたのだろう、声を掛ける前に誰なのか判っているようだ。
「あ、俺だけど入るぞ」
「どうぞ」
扉を開けると、ベッドに寝転がって単行本を読んでいる遥がいた。
「なによ」
やはりまだ機嫌が悪く、言葉の音程がいつもより低い。
「あ、いや手紙の件なんだけどさ」
なんだか被告人の気分。
「読んだよ」
「あっそ、で?」
不信感漂う目。
「ぶっちゃけ聞くけど、これって俺はどうすればいいんだ?」
「どうって、勝手にすればいいじゃない」
「いいのかそれで?」
「いいでしょ、あたし関係ないし」
目線を外し本を読む遥。
「関係なくはないだろう」
「なんでよ」
「なんでって、佐々木さんはお前にこの手紙を託したんだろ?」
「だから、お兄ちゃんにそのまま隠さず手紙見せたじゃない」
俺に投げつけた行為を、こいつは見せたと思っているようだ。曲りなりにも尊敬すべき兄に対してあの態度をとったということは、余程遥の信頼度を下げてしまったみたいだ。
「これ以上、あたしにどうしろっていうのよ」
睨む遥。
「いや、お前の先輩だろ?応援とかしないのか?」
「先輩だろうと後輩だろうと、結局は本人同士の問題でしょ?あたしが入る理由なんてないじゃない」
「俺が言ってるのは、佐々木さんのアピールとかお前はしないのか?ってことだよ」
「そんなのしないわよ、何言ってるの」
「冷たいやつだなぁ」
「ちょっとそれ、酷くない?」
本を置き、険しい顔をする。
「佐々木さんのことは良い人だと思ってるわよ。だけど、あたしが先輩に対して持ってる印象がアピールしてほしい事とは限んないじゃん。そうでしょ?」
「……」
女の理屈は理解しずらく、返す言葉が浮かばない。
「だから、こういうことは本人同士だけでやってくれたほうが話がややこしくならなくていいの。わかった?」
「うぅん」
「わかったら、早く出てってよ!」
納得する間もなく部屋から追い出された挙句、遥理論で言い包められた気がする。まったくもって不完全燃焼な気分だ。もう一度扉を開けてリベンジしたいところだが、今のあいつには火に油を注ぐどころか、ガソリンを撒くようなものだ。
行くだけ無駄だろう。仕方なく、自分の部屋に戻ることにした。
冷静に考えてみる。
遥が言ったことを思い出してみると、まんざら間違いではないかもしれないと思えてきた。それに同性として、もし自分ならどうするか考えた上であんな行動を取ったのかもしれない。だから、自分の仕事はこれで終わったと思い、これ以上は邪魔になると判断して俺を突き放した。もしこの考えが正解なら、我が妹ながらメリハリのある行動に素直に感心してしまう。
しかしだ……
あいつに恋愛のいろはを教えられた様で少々悔しい。
でもなぜか悔しいはずが嬉しかったりする。
切っ掛けはともかく、あいつとあんな内容で喧嘩したのは初めてだった。
いつもなら、あいつが買い置きしてあったジュースを勝手に飲んでしまったとか。
HDD録画で容量が足りず無断で消してしまったとか。
思えば、どれも俺が悪い。しかし、何処にでもある他愛もない兄妹喧嘩。
こんな感じで、色恋の話などまったくしたことがなかった。
これはいつまでも少女ではなく大人の女性なのだと、考えを改める必要があるかもしれない。
逆に、俺の方がまだまだ子供かもしれないと少し恥ずかしく思えてくる。
それにしてもどうしたものかと悩む。
ベッドに腰を下ろし、手に持った手紙を見つめながら物思いに耽った。
知ってしまった以上、無視するわけにいかない。だからといって素直に受け入れる事もできない。そもそも彼女のことをまったく知らない。
しばらくすると空腹でお腹が鳴る。
自室を出ると階下から美味そうな匂いがした。その匂いに誘われるままテーブルにつく。
食事中、母親に住民票を取ってきてもらうことをお願いした。
なぜ住民票が必要なのかあまり理解できていない様子だったが、買い物のついでに通える範囲なので、特に質問もせず了承してくれた。
食後すぐ部屋に戻り、手紙のことは気にはそっちのけで例のサイトを見ることにした。ゲームの情報が気になっていたからだ。
あれこれと調べてみるもこれといって詳しい情報はなく、どれもゲームソフトに同封されていると思われる説明書の内容が書かれているぐらいだった。他には経験者の感想が数行書き綴られている程度であまり欲求を満たす内容ではなかった。
「結局、自分で体験してみないとわからないのか……」
早朝、今日も遥は朝練に出掛けていった。
俺はというと、8時までぐっすり。
昨日よりゆっくり登校して、佐々木さんがどこのクラスなのか校門の掲示板を確認する。
隣の1−A。
好意を寄せてくれるのは非常に有り難い。有り難いのだが、状況が複雑でテンションが下がる。どうせなら、そんな手が込んだことしないで、昨日あの場でそれとなく言ってくれたほうがまだ良かった。
俺なんかいつも直球勝負なのに。
ただ、わざわざストレートしか投げていないのに、カーブだとかスライダーを待っている相手ばかりだった。
なんであろうと、冗談でこんなことはできないはずだ。
放課のときにでも様子を見に行こうと考えた。
あれ?ちょっと待て。昨日あの手紙が俺から遥に渡ってることは、相手は百も承知のはず。で、あの遥が必ずなんらかの行動を起こすことは、いっしょにクラブ活動していた先輩なら容易に想像がつくだろう。そして情報がどういう形に変化していたとしても、彼女が好意を示してることを俺に知られることは予定の範囲内だとしたら?
おいおいおいおい、相手は臨戦態勢じゃないか。
ある意味、追い込まれてるのは俺の方か!
何も心構えのないまま様子なんて見に行ってたら鴨葱状態じゃないか。
これは非常にまずいと勘ぐった。
いつまで経っても掲示板の前で、自転車に跨ったまま腕組をして唸っている俺を見るに見兼ねたのか、自転車管理をしてる伊藤さんが声を掛けてきた。
「今泉君、そろそろ授業が始まるぞ」
「え?あ、はい」
「自転車は私が引き受けるから、君はもう行きなさい」
「すみません……」
どうやら始業時と終業時の門番も兼任してるようだ。
間に合っていながら校内遅刻するところだ。
それにしても名前を覚えられてるとは思わなかった。
急いで教室に行き、PCの準備をした。
なんだか今日は妙にクラスのみんながざわざわしている。
「なあ、今泉」
梅田が話しかけてきた。
「ん?おはよう」
「うん、掲示板で何してたんだ?」
「あぁ……見てたのか」
「うん。別に見ようとして見てたわけじゃないけど、何度か校庭に目がいったときにずっと掲示板の前に居たから」
「いや、ちょっといろいろあって考え事を……」
この学校に来てから数日の間にいろんな事が起こる。毎日が波乱万丈でほんと退屈しないが疲れる。
横でくすくすと笑う石本姉妹。
それを横目にまたかと無視をして溜息をつく。
一時限目は現代国語。
昨日は貴重な時間を無駄にしてしまった。
気持ちを切り替えて本腰据えて向き合わないと今後大変なことになるのは明白。ただでさえ、あの学級委員長とは何やら、すでに差があるように感じてならない。あのメガネには負けたくない。
今日の現国の内容は山月記。
高校生にはなかなか理解しがたいところがあるが、人生を歩む中で尊大な羞恥心や臆病な自尊心、そして人間存在の不条理といった言葉の意味やその問いかけを学ぶことはこれからの血となり肉となる。そしていろんな局面で如何に決断できるかということを学ぶことは決して損にはならないというのがこの内容の真髄。
この山月記の中で、難しく理解しにくい李徴が述べた一文を自分なりに解釈してファイルに保存した。
不条理は不条理として受け入れ、あとは死ぬだけ。
しかし、獣は目の前を兎が走れば心身共に獣になるが、人間と違って自分の意志で死ぬことは許されない。
恐らくこの意味はいくら解釈して教えられても、その時が来るまで本当の意味で理解できないかもしれない。
だが俺の直感がこう耳打ちする。
こんな事は来なければ来ないほうが幸せなのかもしれないと。
「起立、礼」
本文修正 12/10