第一章 春、香る <2>
校長の有難く長いお話と備品の配布、そしてその説明及び確認のみだから午前中で終わる。
備品とはノート型パソコンのことで、各生徒の設定状況をチェックすること。 つまりこれから授業や伝達に必要なことは全てこのPCで行うことになる。これはこの学校だけが取り入れている事ではない。どこの学校でも行っている極々普通の一般常識のようなもの。
儀式のような行事も終わり、校内を見学することにした。段々と他の生徒は下校して、先程までの賑わいが静かになっていく。
どこの学校も同じような造りで、広い敷地の南側に運動場で校舎はそれを囲むように建てられている。校舎の離れに体育館。その脇にクラブハウスや倉庫が並んでいる。
屋上からの眺めを一望してみようと階段を登る。
施錠のしていない重い扉。ゆっくり開けると待っていたように風が雪崩れ込んでくる。まるで窒息気味の校舎が一気に深呼吸したようだ。
屋上は全面淡い緑色のフェンスで覆われ、野球ボール程度の大きさなら外へ飛び出せないようになっている。足元は人工芝、隅には木製のベンチがいくつか設置してある。
フェンスに近寄り、5階屋上からの景色を眺める。
家は……あっちか。
西へ3Kmほどの距離。途中、小規模のショッピング街がある。大概の買い物ならそこで済ますことができるし、稀少品ならネット通販で事足りる。他にバッティング場やボーリング場、映画館もある。
学生が遊びに行ける場所としては不自由しない。
幼い頃から慣れた土地だから特に不安はないけどちょっと新鮮味に欠ける。それとかなり縮小の一途を辿っているが、所々に田んぼや畑があってのんびりとしている。でも、それがこの町で過し易い理由。あまり都会すぎてもゴチャゴチャと落ち着かないからだ。たまに出掛けるけど、帰宅するころにはぐったりと疲れてしまっている。だから個人的に十分この町で満足している。
町並みから視点を校庭に向けると、運動場でクラブ部活が始まっていた。
サッカー部や野球部、校外の舗装された狭い道にも陸上部だろうか、ランニングしてる生徒がいる。
「どうするかなぁ」
クラブ活動は中学のころと違って強制ではない。入部してもしなくてもどちらでもいい。3年間なにもしないよりは、見聞を広める意味でどこかに入部して活動したほうがいい。けど、なんだかそんな気持ちになれなかった。
空へ視点を変えて一度深呼吸。
雲ひとつない澄み切った天気だ。
屋上という解放感と春色の仄かな桜の香りが、前髪を通り過ぎていく感触がとても気持ちいい。
「なにか良いことあればいいなぁ」
この学校で新年度を向えて、無意識にそう呟きながら背伸びをするとあくびまで誘発させた。
近くのベンチに腰を下ろすと、張っていた緊張が解けると同時に眠気で瞼が重くなっていく。
木製のベンチがこのぽかぽか日和で心地良い程度に暖められ、それが制服から肌に伝わる感触が更に眠気を誘う。そして徐々に意識が遠のいてゆっくりと崩れるように横になっていった。
ねえ……
ねえってば……
どれぐらい眠っていたのだろう、誰かが体を揺らして起こそうとしている。
瞼をゆっくり開くと傾いた太陽の日差しが容赦なく射し込んできた。渋面でぼんやりとした映像の中、体を揺らす人を探した。
「ねえ、悪いけど起きてくれない?」
寝ているそばで、髪の長いメガネを掛けた女生徒がしゃがみ込んだ体勢で声を掛けていた。
さっぱり状況が飲み込めず右手で目を擦りながら、
「なに?」
彼女は困った面持ちでベンチを指差す。
「えっと、ここあたしの指定席なの。だから……」
「だか……ら?」
まだ朦朧とした頭で言われてることが理解できず復唱した。
「だから、そこどいて」
「はい?」
なに言ってるんだこいつは。
ゆっくりと体を起こし辺りを見回してみると、他のベンチは全て空いている。静まった屋上にいるのは二人だけ。そもそも見ず知らずの人を叩き起してまでこのベンチに座りたがる理由はなんだ?
寝起きでだらだらとしていると、彼女はイライラした表情で、
「早くどいて」
なんであれ、もうここに居る理由はない。それに、これ以上あれこれと言われるのも気分悪い。吐息に揺らぐロウソクの炎のようにゆらゆらと立ち上がり席を譲る。すると彼女は笑顔を取り戻して、にっこり微笑む。
「ありがと」
と、このベンチに座る。
彼女は持っていた学生カバンを左脇に置き、中からハードカバーの小説を取り出し、栞が差し込んであるページを開いて読み始めた。
まったく何がなんだか。
漸くはっきりとしてきた目で見ていると、なぜか綺麗という言葉が頭に浮かんだ。
「あ、あの……」
ここに拘る理由を聞こうとしたが、想像力を膨らませて熱心に読んでる姿が、今の私を邪魔しないでと言っているように見えた。
人の姿でこんな印象を抱いたことは今まで一度もなかった。だけど、たぶんそうだと直感した。
まあ、いいや。
どんな理由があるにしろ、俺にはどうでもいい事だ。彼女に背を向け階段の方へ歩きながらズボンから携帯電話を取り出す。
15時ちょい前。
溜息を一つ吐き捨てポケットに戻す。
もう一度彼女の方へ目をやるが、他に気を囚われることなく本に集中している。
少しは気にしろっての。
下駄箱へ向いながら、メガネ女のことを思い出す。
変な女。あのベンチに何があるっていうんだ?まったく見当もつかない。
5番と書かれた箱から革靴を取り出し履き替えようとした。はたと手を止め明日また40分も歩いて通学することを考えると、今から貸し出し許可を貰ったほうがいい事に気付いた。
この学校には生徒の為にレンタル自転車という制度が有る。利用したい生徒は事前に担任の許可をもらっていれば、いつでも借りられるシステムだ。
取り出した革靴を戻し、職員室へ向う。
今日配布されたパソコンで先生宛メールで連絡してもいいのだけど、たぶん直接行ったほうが早い。
校舎の一階中央にその部屋はある。
それにしても、職員室というところは小中の頃からいつも緊張する。用事がなければあまり近づきたくないエリアだ。
スライド式の扉の前でタッチパネルを操作する。
つかはら……あった。生徒手帳をセンサーにかざし通信するという文字を押す。小さなモニターに塚原先生の顔が映る。
「あら、どうしたの?」
「すいません、自転車の許可を貰いに来ました」
「あ、はい、どうぞ」
扉が開く。
一般の作法だが、恐らくこの作法からしてこのエリアから敬遠させる要因なんだ。
中に入って席をぐるりと見廻す。
広いスペースに壁と言う壁には書類整理のロッカーやキャビネット、そしてフロアケースなどがいっぱいという想像をしていたけど、中学の職員室とはまったく違っていた。各先生の机がずらりと並んでいるだけで他には所々に花や造花が飾られている簡素なフロア。そんな空間に何十人も居る中から塚原先生を探す。雑談している先生もいれば、黙々と机上のパソコンで何かをしている先生もいる。
入り口で立ち往生してるのが目に付いたのか、近くにいた先生に声を掛けられた。
「どうした?」
「あ、あの塚原先生に用事があるのですが、どちらでしょうか?」
「塚原先生なら……あそこの奥の窓際にみえますよ」
そう言うと左手で方向を指差した。
「はい、ありがとうございます」
教えてくれた先生に一礼して向う。
さっさと終わらせて帰りたい。
塚原先生は、明日の授業内容の整理をしているようだ。
「すみません、塚原先生」
呼ばれたことに気が付くと笑顔で振り向く。
「君まだいたのね」
多忙でも笑顔を忘れない人なんだと、少し心を許してもいい感じがした。
「ええ、帰る前にちょっと校舎をうろちょろしてました」
そう言いながら指が無意識に眉間へ向う。
「そう、えっと……今泉君」
まだうる覚えだったのだろう、顔はこっちを向いていても視線はPC画面を見ていた。
「5番、今泉です」
先生は心を読まれたことが恥ずかしかったのか苦笑いする。
「えっと、自転車よね、ちょっと待って」
「隣の空いてる机、お借りしていいですか?」
「どうぞー」
先生は申請用ファイルがあるアイコンを探しそれをメールで俺へ送信した。
「はい、いいわよ」
メールが届くのを待つ。
早くこの場所から逃げ出したい気分は、いつの間にか人間味ある仕草のおかげで抵抗感が薄れていた。
しばらくしてメールが届き、その添付ファイルに必要事項を入力して返送。
先生は確認すると、貸し出し番号を入力して許可証を発行してくれた。
「体育館横に自転車置き場があるの知ってる?そこで管理人をしてる伊藤さんに、この番号言えば貸し出してくれるわ」
「はい、ありがとうございました」
「気を付けて帰りなさいね」
軽く会釈をして、職員室をあとにする。
ずらりと並んだ自転車は、宛ら駅の自転車置き場のようだ。片屋根の下で整理され、ここの管理人らしき男性が綺麗に並べていた。
「すみません、この番号の自転車お願いします」
「ちょっと待って、確認するから」
年は60過ぎだろうか、額から天辺にかけて少し髪の毛が薄く白髪交じり。顔には年輪のようにシワがいくつもあった。不思議とやさしそうな面持ちで俺の知らない事をなんでも教えてくれそうな、そんな雰囲気がした。緑色上下の作業着で、手には何度も洗って使っているような軍手をしていた。
おじさんはパソコンでその番号の許可内容を確認すると案内してくれた。
「これ使ってちょ」
「はい」
早速サドルに座って、足が地面に着く感じを確かめた。
自転車の種類は俗に言うママさん自転車で、ハンドルの前に荷物カゴ、後ろは二人乗りできないように腰が置けるような台のようなものはなく、タイヤハウスがそのままむき出しになっていた。
調整の必要がないことを目視すると、おじさんは軽く手を振った。
「気をつけて帰りなさい」
「ではお借りします」
片側のペダルに足を乗せ、ゆっくり蹴って漕ぎ始めた。
辺りは夕焼け色で染まり、上着を着ていなかったら少し寒いくらいだ。
寄り道をせず、真っ直ぐ家路に向う。
行きとは違って15分ほどで到着。
我が家は2階建てで大きくもなく小さくもなく、区画整理された住宅地の並びに建てられている。注文住宅でオール電化、各所にオート機能や通信機能を施してあるのが父の拘ったところらしい。
ガレージの前に立つと自動でアコーディオン式のフェンスが開閉。レンタル自転車をガレージ脇に置き玄関に向うと、そこでもシステムが反応してスライド式の扉が開く。
「ただいま」
「おかえりなさい」
キッチンから母の声。
パタパタとスリッパの音をさせながら玄関にやって来る。
「どうだった?」
長く編んだ髪を肩から垂らし、指でいじりながらにこにこしている。息子が入学式の報告するのを楽しみにしていたようだ。
「なにが?」
「なにがって、学校のことよ」
「ああ、普通の学校だよ」
母は落胆した面持ちで、
「なによそれ、素っ気ない子」
「いろいろあって疲れたんだよ」
そう言って靴を脱ぎ、2階にある自分の部屋へ向う。
「ほんとに、お父さんといいあなたといいよく似てるわ」
と、小言をトッピング。
「もうちょっとしたらご飯だからすぐに降りてらっしゃいよ」
またパタパタとキッチンに戻っていく。
世間一般から見ると俺の母さんは若い。
いっしょに買い物へ出掛けると、売り場の店員にお姉さん扱いされるのがすごく嬉しいらしい。子供の立場としては、いい迷惑以外なにものでもない。
以前一度だけ、父さんが母さんとの昔話を話してくれたことがあった。
父さんより3つ年下で、母さんが高校生の頃から付き合っていた。
出会った頃はショートカットのよく似合う生徒で、横を通り過ぎる男子生徒が振り返ってしまうような女の子だったらしい。そんな母さんとたまたま町で出会って付き合うに至るまで結構苦労したようだ。でも、恥ずかしいのかその過程を語ってはくれなかった。恋愛期間は長くもなく短くもなく母さんが大学を卒業と同時に結婚。そしてその数年後、俺が産まれた。
後にも先にも父さんが話してくれたのはこれっきり。
なんであれ、今の母さんへの感想はうるさい叔母さんでしかない。
階段を上がり自室の扉を開ける。入るなりカバンを机に置き、制服のままベッドに身を投げた。
「ふぅ」
味も素っ気もない部屋。勉強机の上にPC、あとは映画などのDVDしか並んでない棚だけ。無用な物は捨てるなり処分して貯めないようにしている。ただ壁紙が柄のないグレー1色なのが少しだけシックな雰囲気にしてくれている。
「朝8時起きでも間に合うな」
目覚まし時計を手に取りタイマーをセットする。
早起きは苦手ではないけど、朝はゆっくりするより多少急いでるぐらいが丁度いい。だからいつも少しギリギリめに目覚ましが鳴るようにしてる。
ベッドから起きて椅子に座り、PCを起動させる。
しばらくメールなどをチェックしていると扉が開く音がした。
「お兄ちゃん、ご飯だよ」
「お前なあ、部屋に入る時はノックしろといつも言ってるだろ」
「だって、めんど〜い」
何か閃いたのか、妹の顔が段々とにやけていく。
「あ、わかった!エッチなの見てたんでしょ?」
そう言うと小悪魔が嬉しそうに部屋から出ていく。
「お母さーん、お兄ちゃんがねぇパソコンで変なの見てたよぉー」
「おい!なに言ってんだ!」
「ちょっと輝!」
「違うって!」
妹の 遥 は2つ違いの二人兄妹。
背丈は俺の肩より少し下で、髪は短かく色素が薄いせいか少し茶系。陸上部に所属していて顔とか腕、足が年中日焼けしている。毎日早朝トレーニングへ元気よく出掛けるそんな中学2年生だ。兄貴として評価しがたいがいろいろ噂とか聞くと、どうやら異性に人気があるらしい。
あいつの生活態度からは、とてもそうは思えないのだが。
だけど誰かと付き合ったという話は一度も聞いたことがない。
それと妹の後にもう1人いたことを最近知った。
流産だったらしいが、両親はそれ以上語ろうとしなかった。それを告げたときのあの寂しそうな顔を思い出すと、深く聞くのは子供ながら禁句なのだとそう思えた。しかし遥はたぶんそのことを知らない。
それを聞いたとき、その場に両親と俺以外誰もいなかったからだ。恐らくまだ早いと判断したのだろう。
まあつまり、あいつはまだ子供ってことだな。
メールチェックも終わってキッチンに行くと、二人は食事を始めていた。
「父さんは?」
「いつものことよ」
母はなんの躊躇いもなくそう言った。
今晩の献立は、豚の生姜焼きと味噌汁、それと鰯の天ぷら。あとキャベツの千切りがボール皿にてんこ盛り。この生姜焼きのタレにキャベツをつけて食べるのが俺は好きだ。
「そうだ輝、明日からお昼どうする?」
「どうって?あ、弁当のことか。食堂あるみたいだけど、どっちでもいい」
「そう、じゃあ明日は作ってあげる」
「うん」
とりあえず、明日の昼飯は安泰。
「ところで何時に家出るの?」
「8時半ちょっと前に出れば大丈夫」
「そう……だけど」
「ん?」
「男が毎食、親の手作り食べてるようじゃ出世しないからちょくちょく手を抜くからね」
そういうもんなのか。
「そうなの?」
不思議そうに遥が聞く。
「そうよ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
初めて聞いた。
ただ単に、作るのが面倒なだけなんじゃないのか?
「ごちそうさま」
「お風呂沸いてるから入ってらっしゃい」
「へいへい」
脱衣所で服を洗濯カゴへ投げ入れ浴室へ。
湯船に浸かり、今日一日の事を思い出す。
文章修正 12/09