蝉
『蝉』
心臓がバクバクとうるさい。かたむけて倒したドアノブの上で、汗でずぶぬれの手が滑る。チーズみたいにとろけた頭に、セミの鳴き声が反響する。わんわんと唸るそれは、女の絶叫みたいだ。
開けた隙間からドアの向こうに体を滑り込ませると、自動でパッと明るくなる。砂っぽい殺風景な玄関には、ギラついた赤いヒールがあった。
「……いるのか? ――――なぁ!!」
返事はない。ただ、廊下の先のキッチンの、水を弾く音が一段と強まった気がした。合わせるように、鼓動が早鐘を打つ。半ば朦朧とした意識の中、俺は壁伝いに一本道の床を駆けた。
正面に見えるリビングは、昼間のわりに暗い。眩しかったのか、カーテンが閉まっていた。キッチンはその手前にある。水音はもうすぐそこだ。
壁に手を突いて止まると、洗い場の前に案の定お前がいた。息切れがひどい俺に、気づいているのかいないのか、無言で包丁を洗っている。
背後から近づき、そのまま抱きしめる。少し日焼けしたきゃしゃな体から、ツンとした芳香剤が香った。一瞬肩を震わせただけで、無反応を決め込まれる。
「好きだ、愛してる」
構わず、耳元で囁く。包丁から手を引きはがし、勢いのままに押し倒すと、そこはもうベッドだ。脇のそばに落ちた包丁をどける。滑り止めに敷いたマットの上で、俺はむいてむき出しにした肌に歯を立てた。
暴れるような素振りを見せた後、あきらめたように力が抜け、リサは俺の奴隷になった。ブラをはぎとって胸にしゃぶりつくと、苦悶の表情を浮かべて喘ぐ。
その顔が、たまらなく愛おしい。
足の指を舌先でなめ、そのまま胸元までのラインをなぞっていく。あおあざの上を通るたび、片手でふさいだ唇から、甲高い喘ぎ声が溢れる。俺はリサの上にまたがって、その絶景を一望しようとした。
その時だ。
鼓膜を破るような絶叫が響いて、あのセミの鳴き声に変わった。死に悶えるような、生き急ぐような叫び声が、体中で震える。
脇腹がじんわりと熱い。それは重力に従ってどろりと広がり、俺とリサの太ももに、赤黒い泥をぬった。
おおいかぶせようとした手に、ひんやりとした突起が当たる。それは包丁の柄だった。少し骨ばったリサの手が、固く絡みついている。包丁のそこから先は、当然のごとく俺の脇腹に埋まっていた。
「もう嫌なの!!」
そう叫んだらしいリサの金切り声が、ぐにゃりと歪んで響き渡る。鳴りやまないセミの鳴き声の全部が、『もう嫌なの』に聞こえた。
俺か、誰かの絶叫は、体中にはりついたセミの、『もう嫌なの』に掻き消された。