死者の指輪
俺の住む常浜市には「黒レンガ屋敷」と呼ばれる建物がある。
これは明治時代に建てられたという洋館で、当時の華族が住んでいたらしいが、関東大震災で一部崩落、後にその華族も没落して今は誰も住んでいない。後に再建され、今ではその建物にレストランや専門店がいくつか入っている。
その日、俺は買い物で黒レンガ屋敷にやって来たが、ちょうど昼ごろだったのでここで昼食をとろうと思った。それでレストランに入って窓際の席についたところで、テーブルの上に一つの指輪が置いてあることに気づいた。
拾って見てみると、金の指輪で赤い宝石がはまっている。前の人が置き忘れたのだろうかと思ったが、店員に聞いても心当たりがないという。それでも一応、落とし物として預けておいた。
その夜、夢を見た。
俺は地下のトンネルのような所にいた。はるかに続く坂道になったトンネルの、上り坂の向こうにはおぼろげな光が見え、もう一方の道は下り坂で、どこまでも暗闇が続いている。
「あれ?ここは一体……」
俺はそう言ってあたりを見回すと、下り坂の向こうに何かの気配がした。そして声がする。
「あなた……待ってたわ……」
「え?」
暗闇の中から、一人の女が現れた。彼女はいわゆる白無垢?というのか、和服の花嫁姿だったが、その服は所々破れ血まみれ、彼女自身も、顔の左半分ぐらいが無くなっていて、左肩と左胸のあたりも欠損している。その他の体の部位も所々肉がそげ落ち、骨や内臓が露出している血まみれの死体。そんな姿の花嫁だった。
「うわあああああ!!」
俺は驚いて逃げ出す。彼女は後ろから追いかけてきた。
「待って……待って下さい……私を置いていかないで……」
恐ろしげな声でそう言いながら、彼女はどこまでも追いかけてくる。
「な、何なんだあんたは!俺はお前なんか知らないぞ!」
「ひどい……ひどいわ……そんなこと言うなんて……。私はずっと待ってた……約束通り待ってたのに……」
彼女は後ろから追いすがる。俺は何度か後ろを振り返りながら逃げる。彼女はそれほど脚が速いわけではないようだ。少しずつ距離を離す……離す……よし、逃げ切れる!
そう思ったところで目が覚めた。
「ハアハア……な、なんだ夢か……夢でよかった……」
俺は起き上がって言った。そう言ったところで目覚ましが鳴ったのでビクッとしたが、目覚まし時計の表示を見るといつもアラームの鳴る時間だった。俺は首を振って言った。
「イザナギとイザナミかよ……。全く、変な夢を見たな」
その日は月曜日だったので、いつもながら仕事始めの、憂鬱な一日だった。しかしともあれ仕事を終えて帰ってくると、何だか寝不足のように思っていたので、早めに寝た。
気がつくと、俺は地下のトンネルの中にいた。
「あれ?ここは……どこかで見たような……」
そう言ったところで、
「待ってたわ……」
と声がして、再びあの花嫁ゾンビが現れた。
「うわあああああああ!!」
俺は逃げる。そうだ、思い出した。これは夢だ。昨日も見た夢だ。夢の中なのにこれが夢だと分かっている。明晰夢というやつだ。
「待って……待って下さい……」
彼女は追いかけてくる。俺は何度か後ろを振り返りながら逃げるが、やはり俺のほうが脚が速い。少しずつ距離を離し、よし、逃げ切れる……!と思ったところでまた目が覚めた。
「ゆ、夢か……。二度も同じ夢を見るなんて変だな……」
そんなわけで、その日も仕事に行ったが、寝不足な感じがして仕事に集中できない。そんな俺を見て、上司が言った。
「おい、どうした山本、寝不足か?」
「あっハイ」
「ちゃんと寝ろよ。社会人なら自分の健康管理ぐらい出来ないと、仕事に支障が出るからな」
「え?あっハイ」
訊かれた時は、一瞬自分のことを心配してくれているのかと思ったが、まぁそんなことはない。気にするのは仕事のほうだ。ま、それも当然か。しょせん会社で、ただの他人だしな。そのくせ仕事の上では、時々、まるで友情とか恩愛の絆で結ばれた仲であるかのように振る舞うことがあるので奇妙に思っていたが、それも要はチームワークが良くないと、仕事に支障が出るからなのだと分かった。仕事のための絆、効率のための絆だ。ま、そんなの会社に限ったことではないが。
家に帰ると、俺はネットで某SNSにある「常浜市民掲示板」を見た。俺はたまにこの掲示板をみて、市内の情報を得ている。しょせんネットなのでいい加減な情報も多いが、たまには役に立つこともある。
それで市民掲示板のページをスクロールしていると、こんな書き込みが目についた。
〝ところで、『黒レンガ屋敷の指輪』の話、知ってる?〟
〝何それ?〟
〝あぁ、またあの話ね。ただの都市伝説だろ〟
〝どんな話?〟
〝『黒レンガ屋敷』ってあるじゃん。あの店が何軒か入ってる。で、あの建物はもともとは昔の華族が住んでたんだけど、昔その家に病弱な一人娘がいて、病気でなかなか黒レンガ屋敷の外に出られなかったんだ。で、彼女には許婚がいて、彼女はその人と結婚するのを心待ちにしてたんだ。まあ、その許婚にしても、それまでに会ったこともない相手らしいけど〟
〝うんうん〟
〝会ったこともない許婚を心待ちにしてんの?そもそも、許婚なのに会ったこともないとかあるの?〟
〝それはまあ、昔の話だから、結婚前に会ったこともないってこともあるんじゃない?どうせ親が決めた相手でしょ?〟
〝そうそう。それに彼女はあまり家から出られなかったから、なおのこと結婚して家を出ることに憧れがあったのかもね。そこから新しい人生が開ける的な。まあそんなわけで、彼女はそれを心待ちにしてたんだけど、関東大震災で黒レンガ屋敷は崩落して、その時彼女も下敷きになって死んだらしいんだよ。嫁に行く前にね〟
〝で、それからしばらくして、その家では不審死が相次ぎ、その華族も没落してしまうんだけど、今でも黒レンガ屋敷にはその死んだ花嫁の亡霊が住みついてるらしいんだよね。で、黒レンガ屋敷に行くとたまに、持ち主不明の指輪を拾うことがあるんだけど、一度それを拾ってしまうと、死んだ花嫁と結ばれてしまい、彼女によってあの世に連れ去られてしまうらしいよ。許婚と間違えられてね……〟
〝それで今までに何人か死んでるらしい……〟
〝何人か死んでるって、それって何人とも結ばれてるってことじゃん。ビ○チだな〟
〝女が拾ったらどうなるの?〟
〝知るか〟
〝女が拾っても死ぬの?それって百合になるの?〟
〝百合厨はどこにでも沸くな。巣に帰れよ〟
まだ書き込みは続いていたが、俺はもう読んでいなかった。
「マジかよ……」
俺は頭を抱えた。いや、でもまだ本物と決まったわけじゃない。たまたま悪い夢を見て、たまたまこの噂とこじつけてるだけかも……いや、そもそも昔にこの話をどこかで読んで忘れていて、それが無意識下に残っていたせいで、指輪を拾ったあとにあんな夢を見たのかも知れない。そうだ、そうに決まってる。
俺はチラリと時計を見た。今の時刻は23時。もうそろそろ風呂に入って寝ないと……
その夜、俺はまたあの夢を見た。地下のトンネルの中で、後ろから彼女が追いかけてくる。俺は逃げる。坂の上のおぼろげな光に向かって、走って逃げる……彼女に捕まったら、きっと夢から覚めることもないまま、あの世に連れて行かれてしまうのだろう。光の反対側の、地下の闇に。
でも、やはり彼女はあまり脚が速くない。少しずつ距離を離す……そして、逃げ切れそうだと思ったところで目が覚めた。
起きてしばらくは呆然としていたが、やがて一つのことに気づいて愕然とした。
確かに俺は、彼女より脚が速く、距離を離して逃げ切っている……
が、何だか、距離を離すまでにかかる時間が、少しずつ長くなってきてないか……?
つまり……彼女は、夢の中で、少しずつ脚が速くなってきてないか……?
俺は戦慄した。やばい。やばいやばい。このままでは、いずれ追いつかれてしまう。
何か対策をとらなければ、と思うが、仕事に行かなくてはならない。仕事に行ってる場合か?とも思うが、この期に及んでも、でもまだ呪いと決まったわけじゃないし……そんな口実で休むのも……と気後れしてしまう。
結局仕事には行ったが、疲労がたまっていることもあって仕事もうわの空になりがちで、上司に何度か怒られた。
帰ってきてから、「黒レンガ屋敷の指輪」についてネットで検索してみたが、昨日見た常浜市民掲示板しかヒットしない。掲示板で呪いの解き方を訊いて見たが、もう誰もその話をしていないし、返信もしてくれない。そもそも、解き方なんて知らないのだろう。昨日も誰もそれについては言及していなかった。
もしここに指輪があれば、それを処分するか何かできるかも知れないが、あいにく一度拾っただけで後は店に届けたし……いや、そうだ。またあの店に行って、指輪の行方を訊いてこよう。でもこの時間では店も閉まっているし、店に行こうとすればまた次の休日まで間が開く……
その夜も、またあの夢を見た。もしかしたら、やはりただの思い過ごしで、今夜は普通に眠れるかもと思っていたが、甘かった。これはもう本物だ。
彼女はやはり追いかけてくる。俺は後ろを振り返りつつ逃げる……そして距離を離すが、やはりその時間は、前より長くなっている気がする……
目が覚めて、俺はしばらく絶望的な思いでベッドに横たわっていたが、もうこうなったら、今日は仕事を休もうと決意した。休んであの店に行って、指輪の行方を聞くんだ。
それで上司に電話したが、休みたいと言うと、上司は言った。
「理由を聞かせてもらおうか」
「えーと、それは……少し説明しにくいんですが……」
と言って、呪いの指輪と連日の悪夢について説明したところ、上司は怒り出して言った。
「ふざけるな!そんな理由で休めると思ってるのか!?大事な仕事の最中なんだぞ!」
「えっでも……ホントにやばくて……」
「ハァ……なあ考えてもみろ、お前一人が休めばみんなに迷惑がかかるんだ。当然みんなに説明しなきゃならないし、俺の上司にも説明しなきゃならなくなるだろう。その理由がそんなオカルトな理由で通ると思うのか?裁判だって、そんな理由は通らないだろう」
「そ、それは……でも現に……」
「そもそもお前、三日前からその夢を見てるんだろ?」
「え、ハイ」
「それでも仕事は一応出来てたんだ。それなら、あと三日頑張って仕事しろ。そしたら休みだから、その間にお祓いでもなんでもしてもらえばいいだろ」
「……」
そんなわけで、結局仕事に行くことになった。俺はうつろな気持ちで仕事しながら、あの店に行って指輪を見つけたら、それをどうすればいいのかと考えていた。そのせいで、三度も入力を間違えて怒られた。
「おい山本、真面目にやれよ」
「サーセン」
上司は俺の態度にイラッとしたようだが、それ以上は何も言わない。
夜は相変わらず、夢の中で彼女に追いかけられていた。やはり彼女は少しずつ速くなっている。が、それと共に、もう一つの変化に気づいた。
彼女は所々身体が欠損した死体の姿なのだが、その傷が少しずつ治ってきているのだ。傷がふさがり、血まみれだった姿も少しずつ綺麗になっていく。そして、それと共に……正直言って、彼女は少しずつ美しくなっていた。心が惹かれるほどに。そして、彼女に心を惹かれているという事実に、俺は恐怖した。
ようやく休日になったので、俺は急いであの店に行ってみた。まだあの指輪を遺失物として預かっているなら、そこから何か手がかりが掴めるかも知れない……。だが行ってみると、その場所には別の店が入っていた。俺は店員に訊いた。
「あの……ここに前あった店はどうなったんですか?」
「ああ、あの店ならもう撤退しましたよ」
「その店の人に連絡をとりたいんですけど……」
「私達には分かりません。黒レンガ屋敷の管理者に連絡を取ってみてはいかがですか?」
それで管理者に連絡してみたが、もうその店はなくなったということだった。チェーン店でもないので、本店に連絡することもできない。俺は言った。
「せめて、そこの店長か店員だった人に話を聞きたいんですが」
「申し訳ありません。そういう個人情報はお伝えできかねます」
「お願いします。本当に大事な用なんです」
「何か事件性があるんですか?」
「え?いえ。そういうことではないですが……」
「それでは、お伝えできかねます」
「しかし……」
「すみません。規則ですから」
結局、店の手がかりは掴めなかった。店が撤退したのは今週中のことだったというので、仕事さえ休めていれば……と改めて恨みがましい思いがする。
それならお祓いでもしてもらおうと思って、市内の神社に行ってみたが、なぜか神社には人がおらず、「しばらく閉鎖します」の張り紙がしてあった。どういうことかと思って周りをうろうろしていると、声をかけられた。
「どうしました。何かお探しですか?」
声をかけてきたのは、頭を剃って袈裟を着た僧侶らしき男である。俺は言った。
「あっハイ。この神社に用があったんですけど……」
「ああ、ここは今閉鎖してるんですよ。この間、ここの関係者の間で暴力事件がありましてね。ニュースになったでしょ?」
「え、そうなんですか?」
「まあ、私もここの関係者なんで、何か悩みがあるなら相談に乗りますよ」
「あっハイ」
神社の関係者なのになぜ仏僧の格好をしてるんだ?と疑問に思ったものの、なにせ急を要することなので、俺はその僧侶らしき人に連れられて、彼の自宅?に行った。
僧侶は居間でお茶を出して、俺に訊いた。
「それで、どんな悩みですか?」
「ええと、説明しにくいんですが……」
と、一連の説明をすると、彼は言った。
「そうですか。それなら、お祓いをしてあげましょう」
そう言うと、僧侶は一枚の紙を取り出してテーブルに置いた。そして紙に書かれた図を指して言った。
「まずお祓いAコース。これは料金5万円ですが、効果が薄いのでお勧めできません。Bコースは10万円。Cコースは20万円で、割高ですが、強力なお祓いなので安心です」
「え?」
途端に雲行きが怪しくなってきた。
「それから、この壺をお買い上げ頂きますと、今後の呪いも未然に防げ、金運と健康運もアップ。通常なら50万円のところ、今なら破格の25万円で……」
「ふざけんな!!誰が買うか!!」
俺は椅子を蹴って、家を飛び出した。
結局、一日かかって何の収穫もなく、ただ詐欺に遭いかけただけだった。世の中には、弱った人間に付け込もうとする奴らが多いものだ。
「くそっ、どうすりゃいいんだよ……」
俺は夕暮れの町を歩きながら途方に暮れた。
ふと、家族に相談してみようかと思った。何かこういうことに役に立つとも思えないが、もしかしたら……
でも、俺は家族とあまり仲がよくない。就職してこちらに来てからは、ほとんど連絡もとっていない。だいたい就職してここに引っ越してきたのも、半ば家族から別れるためのようなものだったんだ。正直、連絡しづらい。
「でも、そんなことも言ってられないか……」
そう言って、実家の電話番号を入力してみたが、最後にコールボタンを押すところで躊躇してしまい……、結局、そのまま電話を切った。
家族にも連絡できないし、友達にでも助けてもらえれば良いが、俺はこれといって友達もいないので、その助けも期待できない。
そうしてしばらく、明日はどうするかと思い悩んでいると、上司から電話がかかってきた。電話に出ると、上司は言った。
「山本、休みのところ悪いけど、明日仕事に出てくれないか」
「え?でも僕は、その……」
「実は、急に伊藤が病欠しちゃって、人が足りないんだ」
「しかし……」
「頼むよ。今が大事な時期なんだ。お互い助け合わなきゃやってけないだろ?同じ仕事の仲間なんだからさ」
「はあ……」
正直いって、仲間だなんて欠片ほども思ってないが、そういう建前で回っている以上、どうしようもない。俺は半ば自暴自棄になって言った。
「わかりました」
「悪いね。来週中に代休入れるからさ」
「はい、失礼します」
電話を切った後、さてこれからどうするかと思ったが、もう手は打てそうにない。結局、また次の休日に持ち越しか。
その夜からは、また彼女に追われ続ける。彼女は俺を追いかけながら言う。
「待って……待ってください……どうして逃げるんですか?私はずっと待ってた……あなたを待ってたのに……」
傷が治ってくるのと共に、彼女の声も普通の女性の声のようになってきている。それと共に、その声色に人間らしい感情が感じ取れるようになってきて、俺は心を揺さぶられた。
考えてみれば、彼女も俺と同じような境遇なんだ。自分ではどうにもならないような不自由な環境の中に囚われて、孤独で、解放を夢見て……でも、それが実現する前に死んでしまった。
彼女は仲間が欲しいんだ。孤独なんだ。だから俺を追いかけている……俺は、何のために逃げているのか……?
仕事が始まってからは、相変わらず疲労が抜けきらない状態で仕事していた。能率は悪いが、さりとて仕事ができない程ではないので、休む口実にもならない。そんな中途半端な状態。
今週、何か大事な商談があるというので、会社に客がやって来ることになった。上司は先方と電話しながら、大仰な敬語を使いつつ、受話器に向かって頭を下げる。
俺はそれをげんなりしながら見ていた。上司はまた受話器に向かって頭を下げてから電話を切って、俺に言った。
「明日の13時にお客様がお見えになるから、失礼のないようにな」
「はあ」
「なんだ、元気がないな。大事な相手なんだからな。気をつけろよ。我が社の今後がかかってくるかも知れない」
「分かってます」
そうは言ったが、なぜこんなに卑屈な態度をとらなければならないのかと、心の内では思う。なぜ……?いや、それは無論、ビジネスのためだ。利益を出すためだ。利益のための敬意、うわべだけの敬意……卑屈さ……
いや、それとも俺のほうがおかしいのか?本気でビジネスをやっていれば、自然とこうなるものなのだろうか。仕事にそれほど打ち込めない、むしろ負担に思う俺のほうがおかしいのか?社会不適合なのか?そうかも知れないが、たとえそうだったとしても、どうしようもないだろう。
夜は相変わらず、夢の中で彼女に追いかけられていた。彼女はもうすっかり傷も治って美しく、心を揺さぶる声で語りかけながら、俺を追いかけてくる。
一方俺のほうは、もう自分が、なぜ逃げているのかもわからなくなってきた。あの坂の上のおぼろげな光に向かって走ってはいるが、いつになったらそこに到達するのか……?到達する日は来るのか?
たとえここで彼女から逃げ切ったところで、俺の今後の人生にどんな希望があるというのだろう。何のために逃げているのか。ただ惰性で逃げているだけではないか?惰性で生きているのと同じように……
「待って……待ってください……私を置いていかないで……」
彼女の声に心を打たれる。後ろ髪をひかれる。彼女は孤独なんだ。癒やしを求めているんだ。だったら、それに応えてやるべきなんじゃないのか……?
彼女は俺を許婚と間違えているのかも知れないし、あるいはただ、盲目的な怨念で、誰彼構わず追いかけているのかも知れない。
しかし考えてみれば、俺の人生で、これほどまでに他人から求められたことがあっただろうか?これほど強く、見返りを求めない……いわば、無償の愛と言ってもいい。こんな愛情を今まで、親兄弟からさえ、受けたことがあっただろうか?
俺は、何のために逃げているのか……分からない……。そんな迷いに呼応するかのように、彼女は日に日に速くなっていき、俺は日に日に遅くなっていった。
そして、もう明日は休日という日の夜、俺はついに逃げるのをやめた。
そして立ち止まって、彼女のほうを振り返る。彼女は初めのころとは見違えるほど美しく、そして優しい声で言った。
「あなた……やっと分かってくれたんですね。もう逃げないんですね」
「ああ、もう逃げないよ」
彼女は俺の手をとって、俺の指に指輪をはめた。金の指輪に、赤い宝石。彼女は言った。
「知ってますか?欧州では結婚相手と指輪を贈り合うんです。指輪は『永遠』の象徴。そして金は朽ちないものですから、それも永遠の象徴。そして赤は血の色、命の色……つまり、永遠に結ばれる命の象徴なんですの」
そう言って彼女は優しく微笑んだ。俺の心は愛しさで満たされる。ああ、どうして今まで、こんな大切な人から逃げていたんだろうか?
そうだ。きっと今までは、気が変になっていたんだ。今までそれに向かって走っていた、あの坂の上のおぼろげな光、あれは俺を惑わすための幻だったんだ。今こそ正気に返った。もうこの人を離さない……。
「さあ、参りましょう」
そう言って、彼女は俺の手をとった。そして俺は、彼女に引かれるまま、おぼろげな光に背を向けて、どこまでも続く地下の闇に向かって降りていった。