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第1話

 夢と現実は違う。フィクションは結局のところフィクション。

 たとえば、朝曲がり角でぶつかった転校生と隣の席になって始まる恋とか、仲間とともに戦って掴む勝利とか。そういう、青春のキラキラした1ページ。私の現実にはそんなページなくていい。数少ない友達と、つかの間の夢を見せてくれる本があればそれで十分なんだ。




「ハルー!」

 期末試験も終わり、あとは来週のテスト返しを待つだけとなった放課後。春乃の教室に、幼馴染の燐音が息を切らして駆け込んできた。

「どうしたのリンちゃん? そんなに慌てて」

 帰り支度をしていた春乃は、燐音の必死の形相に面食らう。もともと賑やかな性格の幼馴染ではあるが、こんなに切羽詰まった様子を見るのは滅多にないことだ。

「ハル、お願い! 脚本書いて!」

「……え?」

予想外の言葉に、一瞬の間が空いた。


 聞けば、彼女の所属する演劇部では、今度他校の演劇部と合同上演を行うらしい。しかし、脚本を担当している部員が先日盲腸で急に入院してしまったのだそうだ。その上、相手方の学校には脚本担当の部員はいない。この際既成脚本で、という話も一度は出たが、両校の部員の意向としてはどうしてもオリジナルをやりたいのだとか。

「アンタ筆速い方でしょ? もうすでに進行カツカツ気味なのに、このままじゃ上演すら怪しいんだ!」

「そ、そんなこと言われても……」

「親友を助けると思ってさ! ね、このとおり!」

 燐音は、ぱんっ! と手を合わせて頭を下げる。春乃は、うぅー……と唸っていたが、やがて大きく息を吐き出すと眉を下げて苦笑した。


「じゃあ……一応やってはみるけど。……クオリティは期待しないでね?」

「ありがとう、ホント助かるよー! 今度駅前で何かおごるから!」

 じゃあ終業式までにお願い! と、慌ただしく走り去っていく燐音を見送りながら、春乃はそっと溜息を吐いた。

(つい引き受けちゃったけど……いいのかな? 私、演劇の脚本なんて書いたことないんだけど)

 しかし、燐音があんなに自分に縋り付いてくるのは珍しい。おそらく、小学校最初の水泳大会で水着を忘れた時以来だ。よほど追い込まれていたのだろう。大切な友人の力になってあげたいという気持ちももちろんある。なら、やれるだけのことはやってみよう。春乃は大きく頷くと、スクールバッグを肩にかけ、教室を後にした。



 春乃が向かったのは、学校の近くにある公立図書館だった。ここは学校の図書室よりも蔵書数が多く、クラスメイトと鉢合わせることも少なく落ち着いて本を読むことができるため、春乃は毎日のように通っていた。

 2階の閲覧室の、いつも座っている隅の席へ向かう。なんとなく周りの席を見回すと、一人の男子が目に留まった。


(あの人、今日も来てる)


 すっとした顔立ちの男子高校生だ。青のブレザーを着ていることから、隣町の男子校の生徒だということがうかがえる。学年は分からない。男子にしては少しだけ長めの黒髪を、読書の邪魔にならぬよう金色のヘアピンで留めている。熱心に目を走らせるその横顔から、落ち着いた印象を受ける。廊下を歩いていれば女子が騒ぎ出すほどの美形だ。春乃の通う私立椿ヶ原女学院はその名の通り女子校なので、実際にそのような光景に遭遇したことはないが、もし彼が同じ学校にいれば黄色い声援を浴びていることは想像に難くない。


 春乃のように毎日というわけではないが、毎週ここに通って本を読んでいる高校生は彼以外に見たことがなかった。しかも、毎度本を数冊机に置いている。本当に本が好きなのだなと、春乃は勝手にちょっとした親近感を抱いていた。しかし、決して話しかけるようなことはせず、遠巻きに眺めるに留まっていた。よく見かけるからという理由だけで知らない人間に話しかけるだけの度胸が、春乃にはなかった。


 荷物を置いて席を確保すると、脚本の書き方について、いい参考書になる書物はないかと本棚を漁る。2、3冊ほど目星をつけて、ついでに推理小説の棚を覗く。

「あ……!」

 目線を上げると、ずっと読みたかった作品が最上段に置いてあるのが見えた。これまでずっと貸出し中で、なかなか借りられなかった1冊だ。

 今借りるしかない……! 春乃は本に手を伸ばすも、なかなか背表紙を掴めない。あまり背が高くないうえ、本がきっちり並べられているため、隙間に指先を差し入れることすらできない状態なのだ。踏み台を使おうと周りを見回すも、先に中学生らしき二人組に使われており、しかも片方がそれに乗ったまま二人で雑談をしているため、なかなか空く気配がない。春乃は途方に暮れてがっくりとうなだれた。

(ど、どうしよう……ここで席に戻って目を離したら、また他の人に借りられてそう……)


 突然、頭上に薄く影が落ちるのを感じた。はっとして顔を上げると、春乃の目の前には目当ての小説が差し出されていた。

「え……?」

 きょとんとしてさらに視線を上へ向ける。するとそこには、例の男子が立っていた。

「どうぞ」

 静かな、しかしよく通る声が柔らかく響く。凛とした、という表現が似合う声だ。想像していたより少し低めなんだな、と春乃はぼんやりと考えた。

「あ、ありがとうございます……」

春乃が呆気にとられていると、彼は不思議そうに首を傾げる。こめかみに留まったヘアピンがきらりと光る。慌ててそれを受け取ると、何事もなかったかのように自分の席に戻り、読書を再開した。


 たっぷり数秒経って、春乃はようやく状況を飲み込む。春乃はぎゅうぅっ、と本を抱きしめてその背中に深々とお辞儀をすると、軽い足取りで貸出カウンターへ向かった。自然と頬が緩むのを感じたが、それを抑えることはできなかった。




――本当に本が好きなのね。

(そうだね。読むのも書くのも好きだよ。世界の中で自由にできるから)

――現実では言いたいことの一つも言えないくせに。

(だって、現実は所詮現実なんだもん。物語みたいにうまくいかない)

――どうしてそう言い切れるの?

(どうしてって……)

――今までうまくいくように努力したことあったの? それで挫折した経験でも?

(……ない、けど)

――それじゃあ、アンタはただ逃げてるだけね。現実が怖くて夢に引きこもってる。

(……いいじゃない、夢の世界なんだもん。フィクションなんだもん)

――まあ、アンタがそのままでいいって言うなら、別にかまわないけど。

(私は……)

――でも、もし変わりたいっていうのなら。そろそろ頑なに閉じてるその瞼を持ち上げるべきなんじゃないかしらね。

(……?)



「――て、起きてくださーい」

ゆさゆさと身体が揺れるのを感じ、春乃の意識がゆっくりと浮上してきた。顔を上げると、隣には図書館の職員が立っているのみで、他には誰もいなくなっていた。春乃はきょとんとして辺りを見回す。

「あ、れ……? 私……」

「ああ、やっと起きた。もうすぐ閉館時間ですよ」

ぼーっとしている春乃に、女性職員は小さく苦笑しながら告げる。なるほど、確かに窓からはオレンジ色の夕日が室内に降り注いでいる。

「す、すみません! 今すぐ出ます!」

春乃は顔を真っ赤にして俯くと、広げていた本やノートをそそくさと鞄にしまい始める。職員は眼鏡の奥の目を柔らかく細めながら、「忘れ物に気をつけてくださいねー」とカウンターの方へ戻って行った。


「……あれ?」

ふと床の方に視線を落とすと、何かが落ちているのが目に入った。拾い上げてみると、それはヘアピンだった。植物の蔦が絡まる様をかたどった金色の土台部分に、それぞれ大きさの異なる青い丸ビーズが2、3個くっついている。朝露が蔦に浮かんでいるような、繊細なデザインだ。

(もしかして、これって……)

春乃の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。


 あれから、脚本を書くために毎日図書館に足を運んだ。毎日通っていれば、どうせどこかでまた彼と会えるだろうと、春乃は拾ったヘアピンを制服のポケットに入れていた。職員に届け出るより、自分が預かっていた方が確実に彼に返せるだろうと思ったためだ。しかし、次はあちらが忙しくなってしまったのか、結局あの男子生徒を見かけることなく終業式の日を迎えた。


「ハルー、おはよう!」

朝、通学路を歩いていると、後ろから燐音が駆け寄ってきた。

「リンちゃん、おはよう」

春乃は挨拶を返すと、ごそごそと鞄を漁って中から原稿用紙の束を取り出した。

「はい、これ。脚本です。初めて書くからあまりうまくないかもしれないけど、そこはまあ許してね」

「ありがとー! 書いてもらえるだけでも御の字だよ! ホント、あんたには頭上がらないわ。何かお礼しないとね」

「別にいいよ。私も楽しかったし」

そう言って笑うと、燐音は「えー、何それ欲なさ過ぎー」と口を尖らせる。


「でもとりあえず、部員にはお礼言わせないとね。実際、あんたが引き受けてくれるって聞いた時に、みんな助かったって喜んでたし」

燐音はうぅーんと考え込んだ後、そうだ、と手を打った。

「今度、あたしたちの練習見に来てよ! 演劇部なら、やっぱり原作者に楽しんでもらって恩返ししなくちゃ」

友人の思いがけない提案に、春乃は慌てて首を横に振る。

「い、いいよそんな。練習中に邪魔するの悪いし」

「そんなことないって! 誰かに見てもらうのも練習になるんだから!」

正直、知らない人間の中に入っていくのはかなり気が進まない。しかし、せっかくの燐音の好意を無下にしてしまうのもなんだか申し訳ない。それに、春乃は燐音をはじめとする演劇部の舞台は好きだった。実際、演劇部の練習は部外者が立ち入ることはなかなかできないので、それに呼んでもらえるというのはかなり貴重な体験なのだ。


「じゃあ向こうとの合同練の時に呼ぶね。またメールするけど、場所は――」

春乃が悩んでいる間にも、燐音の中では話がどんどんと進んでいたらしい。彼女の口から告げられた校名を聞いて、春乃は思わず目を見開いた。

 私立吾郷野学園。あの男子生徒が通う学校の名前だった。



 夏休みに入って1週間。春乃は、吾郷野学園の最寄駅で燐音を待っていた。

 正直自分でも、かなり現金だったなと思う。あの時相手の学校を聞いた瞬間、二つ返事で「行く」と答えたものだから、燐音はちょっとびっくりしたように春乃の顔を見つめていた。


 学校に行ったくらいで、絶対に会えるとは思っていない。でも、もしかしたら廊下あたりでばったり会えるかもしれないと、金色のヘアピンを見つめた。図書館で彼がいつもこれをつけていたのを見ている。もしかしたらなくして困っているかもしれない。

 それに、本をとってもらったお礼をちゃんと言っていない。彼にしてみれば大したことないことかもしれないが、春乃にとってはとても重大なことだ。彼のおかげで、ずっと待っていた本を読むことができたのだ。ヘアピンを早く返したかったし、何よりあの時のお礼を改めてきちんと言いたい。あれ以来しばらく図書館で彼を見かけていない。少しでもチャンスがあるのなら、それにかけてみたかった。


「ごめん春乃! 待った?」

「ううん大丈夫。なんか、大変みたいだね」

改札から慌てて走り出てきた燐音に苦笑する。彼女は息を整えると、最後に大きく息を吐いた。

「ほんっと、1年がのんびりしててさー。相手の学校にも都合あるんだから遅刻厳禁って怒鳴ってきたところ」

部長は楽じゃないよー、と大袈裟に肩をすくめる燐音に吹き出す。「じゃ、行きますか」と、二人は駅を離れた。



「わー、さすが男子校。去年も思ったけど……雰囲気が汗臭いわ」

校門に入るなり、燐音がぼそっと呟く。彼女の視線は、グラウンドでぶつかり合いながら練習に励むラグビー部に注がれていた。

「リンちゃん、それすっごく失礼だと思う」

春乃がたしなめるように脇腹を小突くが、彼女はにっと笑って振り返る。

「聞こえなきゃ大丈夫だって。あ、演劇部は基本なよっとしたのしかいないから安心して」

何を安心しろと言うのだろう。友人の態度に呆れて溜息を吐くと、「こっちこっち」と手招きする彼女の後に続いた。

「今日の練習、体育館とれたんだって。さっすが、カオルは仕事できるわー」

「カオル?」

「吾郷野演劇部の副部長。しっかり者の姐さんって感じの人だよ」


“姐さん”という単語に首を傾げる。男子しかいないはずなのに、なぜ“姐さん”という表現が出てくるのだろうか。まあ、ぱっと聞いた名前が女性っぽいし、本人も仕草が女性らしいからとかそういう理由なのだろうなと結論付け、春乃は「そうなんだ」とだけ返した。


 体育館には、すでにこちらの部員も着いており、隅の方で女子が数名固まって立っていた。そちらに向かって人数確認をし、「よし、全員来てるね」と頷くと、燐音はステージの方へ歩み寄り、そこでストレッチをしていた男子生徒に声をかける。

「お久しぶりです! 椿ヶ原演劇部部長の扇だけど、そちらの部長さんは?」

眼鏡をかけた男子はストレッチを中断し、「お久しぶりッス」と軽く会釈をした。

「部長は今補習で先生に捕まってて後から来るはずッス。代わりに副部長は……あ、いたいた。おーい、カオルー」

彼が下手の方に呼びかけると、そちらから「はーい」とよく通る声が聞こえた。さすが演劇部、離れててもよく聞こえるんだな、などとのんびり考えていた春乃は、袖から出てきた人物を見て思わず言葉を失った。


(……え?)


すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。少しだけ長い黒髪にヘアピン。間違いなく、図書館の“彼”だった。




夢と現実は違う。フィクションは結局のところフィクション。

 たとえば、朝曲がり角でぶつかった転校生と隣の席になって始まる恋とか、仲間とともに戦って掴む勝利とか。そういう、青春のキラキラした1ページ。私の現実にはそんなページなくていい。そんなドラマは、本の中の泡沫の夢だけでいい。

 ――この時までは、そう思っていた。


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