Summer’s エチュード
一人の少女がピアノとともに成長していく話です。短い話ですが、ほんのり苦く、そして温かい話を書きました。楽しんで頂けると嬉しいです。
弦を震わせ、鳴らした音はEs(ミ♭)の音。慣れ親しんだその音は私をどこかほっとさせた。黒と白のコントラストは、もう十年もの間、飽きるくらい見続けているもの。88の鍵盤を持つ『楽器の王様』と呼ばれるそれが鳴らす音は、優しく、温かく私を包み込んでくれた。
「今日までありがとう。ーーじゃあ、行ってきます」
私はそう言いながら蓋から手を離す。蓋はゆっくりと閉まっていき、コトン……とくぐもったような音をたてた。まるで、私の言ったことに返事をしてくれたかのように。
「茜、もうそろそろ行くよー!」
母の声が聞こえる。その声に、私は口元に笑みを浮かべた。母の声はいつも通りの明るい調子。そんな母のちょっとした気遣いに感謝しながら、私は「はーい」と返事をした。
そばに置いてあった鞄を持ち上げ、肩にかける。白いト音記号のイラストがついた黒い鞄だ。中には私が今日演奏する楽譜と、お気に入りであるパンダのぬいぐるみが入っている。
「早くー!」という母の声にせかされるように、私は練習室を足早に飛び出す。その時、確かに聞こえたのだ。「頑張って」という、私の相棒の声が。
はっとして振り返っても、そこにあるのは済ました顔をしている黒く大きな一つの楽器だけだった。何をすました顔してんのよ……と思いながらも、私は満面の笑みで相棒に言った。
「合言葉は自由に誰よりも楽しく。頑張ります!」
それは今日も私を見守ってくれている。
★★
私の名前は林 茜。北海道の小さな港町に住む中学三年生だ。趣味は読書、特技は五歳から続けているピアノ。あとは特に特筆することもない、平凡な中学生。ただ、ピアノに関しては色々なコンクールなどにも出場している手前、この小さな町ではちょっと名の知れた演奏者だったりする。
私はピアノが好きだ。私が鍵盤を押すと、たくさんの音色をピアノは聴かせてくれる。それは明るく楽しい音であったり、悲しく虚しい音であったり色々だけれども、それらが私の手から生まれてきているんだと考えると、とてもドキドキする。どこまでも表現できるあの楽しさに、私は魅せられ今日もピアノと向き合っていた。
私の家にあるのは俗に言う、グランドピアノと呼ばれるモデル。弦の入った箱を三本足で支えているピアノだ。譜面台を外して鍵盤を押すと、ハンマーが弦を叩いているのがよく見える。そういえば、私はよくクラスメートにせがまれて、音楽の授業が始まる前の十分休みの時とかに、最近流行りの曲とかを弾くことがあったけど、皆私の演奏よりもハンマーが弦を叩く仕組みの方が面白いみたいで、飽きもせずにじいっと眺めていたっけ。十年もピアノを弾いている私には当たり前の光景だけど、皆にとってその仕組みは不思議な光景なのかもしれない。ともあれ、私は今日も夏にあるコンクールに向けて、自分の家にある練習室で猛特訓していた。
そう、私は六月に行われたとあるコンクールの予選を突破し、夏休み中に行われる全道大会に出場することが決まっていた。そのコンクールは何度も全道大会に行ったことのあるコンクールだったけど、今年はレベルが高いのか苦戦し、ボーダーぎりぎりの点数での予選突破だった。だからこそ全道大会では……!という思いは強く、いつも以上に燃え上がって練習していた。
しかし、私は今日もある曲のクライマックス直前で演奏をやめることを余儀無くされていた。
ショパン作曲、エチュードOp10-10。明るく優雅な曲調とは裏腹に、この曲は演奏者を苦しめる過酷な曲だった。『ショパンの25のエチュードの中で五本の指に入る難曲』その異名は伊達ではなく、未熟な中学生ごときが演奏するのには、あまりにも難しい曲だった。きちんとした演奏フォームで弾かなければ、右腕に負担がかかって痛くなり、演奏を続けることが出来なくなる、この曲はそんな曲だった。
そんな曲を何故私が練習しているのか。理由は簡単。この曲が全道大会で弾く曲のうちの一曲だからだ。
コンクールの課題曲規定では、「ショパンのエチュードからどれか一つ」となっている。別にこんな難曲を弾く必要などどこにもない。先生にも大反対された。それにコンクールということを考えるならばもっと簡単な曲を確実に弾けた方が審査員にも好感を持ってもらえるだろう。つまり選択としてはリスクがありすぎる、最悪な選択だ。
じゃあ何でこの曲を選んだのか。理由は単純。今年のコンクールはどうしてもこの曲を弾きたかったからだ。どうしても弾きたい理由があった。
私は再び楽譜に目を向けると、痛みのひいた右手を鍵盤に乗せて練習を再開した。この曲をステージで弾きこなす、未来の自分の姿を思い浮かべて。
★★
一学期最終日。明日から夏休みということで、私のクラスメートは皆ニヤニヤ浮かれ顔。友達と談笑しながら、夏休みの計画について語り合っている。しかし私達は中学三年生。ただ遊びほうけるだけでなく、中学最後の夏として中体連を、そして受験生として勉強を頑張る人が多いようだ。
もちろん私も負けてられない。中学最後の夏を最高に充実したものにしたいと思っている。ピアノでも、勉強でも。
「茜、そういえば夏休み中に全道あるんだよね?」
「え、そうなの?頑張れっ!」
突然話し掛けてきたのは私の友人ちゃん二人。一人は長い黒髪がよく似合うとっても美人で背の高い女の子。「頑張れっ!」と変なポーズ付きで激励してくれたのは、黒髪ショートのメガネ娘ちゃんだ。
「うん、八月の最初にあるよ。しっかしよく覚えてたね、話したの一ヶ月前だよ」
私はそんなふうに返しながら、私の机に立っている二人の友人に目を向けた。
小学一年の頃からコンクールに出ていた私は、あまりクラスメートと放課後に遊べず、友達が出来なかった。だけど中学に入ってからは私を理解してくれる友人が増え、今ではとっても楽しい毎日を送っていた。
チャイムが鳴る。私と他愛もない話をしていた友人ちゃん二人は席に戻っていった。男子が慌てた様子で廊下を走ってきて席に着いていく。教室は休み時間の時よりもざわめき始めた。男子たちが中体連のことを話し始めたからだ。
「テニス部が団体優勝だって!」
「バスケ部は男女全道行きが決まったってさ」
「バド部は予選敗退……個人で○○が駒を進めたらしい」
そんな男子、女子の声が飛び交う。惜しくも敗退して引退したクラスメートが恨めしそうな表情でその話を聞いている。教室は結局先生が来るまで、中体連の話で持ちきりだった。
そんな中話についていけない生徒が一名。私だ。
私はいつもピアノ中心で、部活には入ったことがなかった。でも、実を言うと私は部活というものに憧れを抱いていた。一致団結してチームメイトと共に上を目指して行く部活。仲間と支え合い、時にはライバルとして、共に成長していく仲間と、それをまとめあげる顧問の先生や声を枯らして応援する保護者。そんな、まるで青春を具現化したような光景に、私は羨ましさを感じ、同時にいつも惹かれていたのだった。
私がいる世界は違う。一度コンクールの舞台に立てば、冷たい目でこちらを見てくるライバルがいて、厳しい表情で耳を傾ける審査員がいる。応援の声なんぞ聞こえてくるわけがなく、変にピリピリとした無音の雰囲気の中で私は闘わなければならない。だから私はいつも、部活に憧れを抱いていた。
でも。それでも私はあの舞台の上が大好きだった。
ちょっとピリピリとした、薄暗い舞台そでの雰囲気も、私を優しく包み込んでくれる、スポットライトの温かさも、全て私が小さい頃から慣れ親しんできた舞台の光景だ。最高潮の、極度の緊張の中で、私の指は鍵盤の上を滑り、私の音楽は輝いてはじけていく。あの瞬間が、私は大好きだった。
皆のことは正直羨ましい。でも私はそれ以上の経験をしてきたと思っている。だからこそ私は、皆が経験する青春の時を削ってでも、あの舞台の上に立ち続けたいと願うのだろうと思う。
ただし。
私はあの日の記憶を思い出し、思わず口元に苦笑いを浮かべた。苦々しいあの思い出は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。輝かしい舞台の上に立つには、それ相応のリスクを背負うことも覚悟しなければならないという事実に、私はただ、苦笑するしか出来なかったのだった。
★★
『舞台には魔物が住んでいる』。舞台に立つものならば、誰でも知っているであろうこの教訓を、私が実際に経験したのは一年弱前という最近のこと。晩秋を感じさせる肌寒い風に吹かれ、その日、私はとあるコンクールの北海道大会出場のために札幌へと足を運んでいた。
そのコンクールは日本でも有数の、学生のためのピアノコンクールだった。課題曲も難曲ばかりで非常にレベルが高く、いつの時代も音大を目指す学生の登竜門として、名を轟かせていた。私はその年、そのコンクールに出場し見事予選突破。道内ベスト十二で競う、北海道大会まで駒を進めていたのだった。それはもう、私にとって快挙だった。最高レベルの学生たちが集い、技術を、そして表現を競い合う。そんな憧れの舞台に、私も立つことが出来る!その夢のような事実が本当に嬉しくて、私は毎日浮き足立って過ごしていたような気がする。それが最大の敗因だった。
「私も全国大会を狙うことが出来るのかもしれない……」
基本、賞のことは考えないで自分の音楽を精一杯舞台の上で表現する、それが私のスタンスだった。しかしそんな欲深き邪念が入ってきてからというもの、私の中で何かが崩れ始めていった。今思えば浮かれすぎていたのだろう。レベルの高い舞台なのだから、浮かれている暇などなかったはずなのに。そう、単純に考えればわかることなのだ。それが、あの頃の私にはわからなかった。
結果、私は舞台の魔物に喰われることになった。曲の序盤で左手がわからなくなるという、ありえないミス。この舞台に立つ者ならばそんなミスは犯さない。もう無我夢中に棒弾きした私は、逃げ去るように舞台から退いた。もちろん賞などはかすりもしなかった。
「これだから茜ちゃんはダメなのよ」
そう捨て台詞を吐いて、私のことを睨みつけて去って行った先生。私の次に弾いた人への、ロビーにまで漏れ出す満場の拍手の音。真っ黒い雲からざあざあと降り続けていたうっとおしい土砂降りの雨。ーー全て、私を打ちのめすには十分だった。
私があの舞台で、先生の信頼も両親の期待も犠牲にして手に入れたのは、後悔という名の長く重い鎖だけだった。私は今更のようにそのことに気がつき、その重さを感じ、呆然とその場に立ち竦むこと出来なかったのだった。
その日以来、私はピアノに手を触れることさえ億劫になってしまった。自業自得だというにもかかわらず。
★★
何を考えていいのかもわからず、ただぼんやりと過ごしていたあの頃。そんな時に私はあの曲に出逢った。ショパン作曲、エチュードOp.10-10。そう、あの難曲に。
最初は先生が私に紹介しただけの曲だった。なぜ先生が、自信喪失している私に、こんな更に打ちのめすような曲を持ってきたのか、その真意はわからない。単に私に意地悪をしたかったのかもしれないし、はたまた私という人間を理解して、立ち上がらせるための方法だったのかもしれない。どちらにせよ一つだけ言えるのは、私はこの曲に会って、音楽に対する情熱を取り戻せたということだ。
色々な練習方法を試しても、何をしても一向に弾けてくる気配のないこの曲に、私は腹を立てながらも徐々に惹かれていったのだった。自分が全く弾けそうにもない曲に出逢ったことで、私の音楽魂は再び燃え上がり、毎日一ミリぐらいしか進まない小さな進歩に喜びを感じ、安堵しながら、私はいつの間にか、以前のようにピアノに向かうことを楽しく感じるようになっていたのだ。
今年のコンクールの話が来た時、私は真っ先に一つの曲を思い浮かべていた。
私に自信を取り戻させてくれたあの曲。
どの曲よりも弾いて弾いて弾いて弾きまくったあの曲。
わけわかんないくらい、難しいあの曲!
あの曲を全道で思いっきり弾いて、自信回復の証としたい。そして何よりも、あの曲を完璧に弾きこなしてみたい。私はそう強く心に決め、その日以来、私の猛練習の日々は始まったのだった。
★★
ーー心に誓った日から半年、私は夏真っ盛りの中、全道大会の日を迎えていた。
ポー…ンと一つ鳴らす音はあの曲の一番始めの音。私にとって、嫌になるくらいに慣れ親しんだ音だ。格闘してきたあの曲は、なんとか弾けるようになっていた。それでも完璧とは言えなかった。まだまだやりたいことはたくさんある。もっと表現も磨きたかった。でも、私はもう満足していた。今出来る精一杯を、今日までやることが出来たから。あとは本番で楽しく弾くだけだ。それが私のスタンスなのだから。
「今日までありがとう。ーーじゃあ、行ってきます」
相棒はきっと笑ってくれているはずだ。ホントに君には感謝してるよ。
「茜、もうそろそろ行くよー!」
母のいつも通りの明るい調子の声が耳に飛び込んでくる。本番当日だというのに、それをまるで感じさせない母の声は私を安心させた。きっと父と母は今、車の前でどこか旅行にでも行くように満面の笑みを浮かべて、私を待っていることだろう。ありがと、ママとパパ。二人のおかげで私はいつもリラックスして会場まで行けます。
足早に練習室を出て行こうとした私の耳に、「頑張って」という相棒の声が飛び込んできた。振り返ってもそこにあるのは済ました顔の一台のグランドピアノ。笑みを浮かべた私は言った。
「合言葉は自由に誰よりも楽しく。頑張ります!」
練習室を飛び出した私は思った。今日もあの曲は、私の背中を軽く押すように見守ってくれていると。
ーENDー
読んで下さって本当にありがとうございます。この話はフィクションです。