放課後のピアニスト
電撃大賞応募作になります。
元のストーリーを電撃さんの規定枚数に合わせる過程で、相当蛇足を追加する結果となってしまいました。もはやムカデです。
そういったことから、元のストーリーの方がおもしろいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。様々なご助言をお待ちしております(期待)
オレンジ色に染められた校舎。
ピアノの旋律が響いてくる、誰もいないはずの音楽室。
僕は、そこの扉を開けてしまった。
その途端、旋律の音が止み、静寂が支配する。
防音処理のため細かく小さな穴があけられた壁や、授業で使うだろう楽器類たち。
その中でも僕がとりわけ目を留めたのは、御器のように黒光りしたグランドピアノだった。
いや、正確には、そのピアノの奏者の椅子に腰掛ける少女に。
少女は初め、目を丸くして僕のことを見つめていたが、五秒数えたくらいで表情に笑みを浮かべて口を開いた。
「何の曲が聴きたい?」
「……て、いう少女の霊が出るらしいんだって、この学校」
昼休み。僕はいつものように、幼馴染みの少女、笹原美優と昼食をとっていた。
「へえ~」
適当に僕が返事を返すと、美優はムスッとして訊ねてくる。
「ねえ、ちゃんと話聞いてるの、潤?」
「ん、聞いてるよ」
潤と呼ばれた僕、榎本潤は、幼馴染みの機嫌を損ねないために、ちゃんと聞いているふりをしながら弁当を食べ進めた。
それに満足したらしい美優は、声を弾ませて続ける。
「ねえ、怖いでしょ! 烏川高校七不思議のひとつ――放課後のピアニスト」
「……それ、本当に幽霊なの?」
「だっておかしいでしょ。うちの学校って音楽部はないし、吹奏楽部は講堂で練習するから放課後に音楽室に人がいるはずがないし」
だからきっと幽霊に違いない、そう言いたいのだろう。まったく、根拠も確証もない話をよくもまあ信じられるものだ。
しかし僕は、その言葉を腹の底にしまい込み、静かに笑って言う。
「それは確かに怖いね」
昼が済み午後の授業を終え、放課後がきた。
「ほら、潤、いっしょに帰ろ」
終礼を迎えて間もなく、美優が明るい声音で僕へ声を掛けてきた。
僕はできる限り申し訳なさそうな顔を作って美優に謝る。
「ごめん、美優。今日も寄るところがあるから先帰って」
「えー、今日もぉ?」
「本当にごめん」
その後も駄々をこねる美優であったが、僕の誠意のこもった――ように見える――謝罪に負け、一人で帰って行った。
「さて、と……」
帰り支度を終えた僕は席を立ち、教室を後にした。
赤い夕陽に染められた校舎を進む。もうほとんどの者が部活に行くか帰るかした学校は、綺麗に静まり返っていた。
波紋ひとつない澄んだ空気は、どんな音でも鮮明に通してしまいそうだ。そう、それは、ちょうど今微かに聞こえてきたピアノの旋律のように。
音楽室へとまっすぐ通じる廊下は、南校舎三階にある。僕らのホームルームが北校舎一階にあることを考えると、全くの正反対と言ってもいい。
普段運動をしていない僕にとって、この距離を短時間で移動するというのは、息が上がる要因に他ならないのだが、このピアノの旋律が耳に入ってくるだけで、その疲れも一瞬で吹き飛んでしまう。
僕が廊下を進むにつれ、足から伝わるピアノの振動が強くなってきた。鼓膜を震わす空気の波も大きく、そして細かくなっていく。
音楽室の扉に手を掛けた時がその頂点となり、開けた瞬間――――消えてしまった。
初めから誰もいなかったように、もぬけの殻となっている音楽室。その場の空気たちからは生気が抜け、また音を欲してしるかのように見えた。
その空気に向かって、僕は声を与えてやる。
「また来たよ、彩音」
彩音、という響きは、空気たちに潤いを与えるキーワードにも感じた。
いや、違う。ここにいる彼女が、空気に潤いを与えたのだ。
「来てくれたのね、潤」
月夜の海のように黒く輝くグランドピアノからひょっこりと顔を出したのは、清楚そうな印象を受ける同い年くらいの少女だった。
少女、神宮彩音はグランドピアノを回り込み、僕の目の前へと出てきた。
西日に照らされてオレンジにも見えるライトブラウンの髪を赤い楓の髪留めでツーサイドアップにし、透明度の高い灰色の瞳をしている。
肌は光を放つように白いが、頬のあたりはほんのりとピンク色に染まっていた。夕日のせいでそう見えるのだろうか。ともかく、化粧をしない彼女にとって、それが唯一の化粧となっているのは違いない。
服装は僕らと同じ制服のはずなのに、彼女が着ると、どうにも高貴で優美な雰囲気が醸し出されていた。
「今日はもう来てくれないのかと思ったわ」
安堵の笑みを溢す彩音に、僕は微笑んだ。
「それは絶対にありえないよ。僕が学校に来続ける限り、放課後は必ずここに来る」
「まあ、王子様みたい」
彩音にからかうように笑われ、僕は顔から火が出るような気恥ずかしさを感じた。それを誤魔化すように、僕は真面目な話を突きつける。
「それよりも彩音、学校で噂になっていたよ。放課後の音楽室で、少女の幽霊が出るって」
彩音は小首を傾げた。
「それはあり得ないわ。だって私は、潤にしか見えないもの」
そう、僕にだってわかる。彩音の存在は――――幽霊である彩音の存在は、どういうわけか僕にしか見えない。もし他の者が見れば、彩音の存在は一瞬で消えてしまうらしい。以前足だけ見られた際に、そこだけ消滅してしまったそうだ。今は、綺麗に回復しているのだが。
「どうせ根も葉もない噂でしょ」
彩音は特に気にも留めた様子もなく、踊るように髪をなびかせながらくるりと踵を返し、グランドピアノの席に着いた。
そして、いつものように僕へ問う。
「何の曲が聴きたい?」
僕は、んー、と三秒ほど考えてから答えた。
「ベートーヴェン、ピアノソナタ第14番、『月光』」
「わかったわ」
僕がピアノから距離を置いたところの椅子に座ったところで、彩音は目を瞑って一つ深呼吸をした。それから鍵盤の上に両手を置く。
そして、空気に静寂が戻ったところで、奏で始めた。
大人しめの入りから感じ取れる悲しみや孤独、中盤で訪れる激しい波。僕はこの曲がなんとなく自分の心情に似ているような気がして好きなのだ。
そういえば、彼女とここで初めて会った時も、月光の音を聴いていたような気がする。
そう、あれは、この学校に入学して間もないころ、今から半年ほど前のことである。
当時の僕は、失意の底をさ迷っていた。なぜなら、好きなことができなくなってしまったからだ。
昔から僕は、音を奏でることが好きだった。いや、正確に言えば、音を好みの色形に変えるのが好きだったのだ。空気に服を着せてやり、化粧を施してやる。そうして、周りを自分好みの空間に変えてしまうことにより、心に安寧を与えていたのである。
音を奏でる道具はたくさんあるが、その中でもピアノの音色に対して、ひときわ魅力を感じた。だから僕は、プロのピアニストを目指して日々音を奏でることに専念していたのである。
だが、高校入学直前に、とある交通事故で両手の神経が麻痺してしまった。
麻痺のレベルは、日常生活を送るうえでは全く問題ないのだが、ピアノを演奏するなどの高度な指の動きをするとなると大いに支障が現れた。医者が言うには、もう一生プロレベルのピアノ技術を身に着けることは不可能だ、ということである。
医者の言葉を聞いた時、僕は無限の闇に突き落とされたように感じた。
そして、失って初めて、僕は音の中で生きていたということに気が付いた。僕は、音が無くては生きていけなかったのである。それはまるで、普段は、生きていく上で必要不可欠だとなかなか気付けない空気や水のような存在であったともいえる。
僕にとって五感とは、音がすべてなのだ。その僕から――言ってしまえば音の中でしか生きられない僕から音を奪ったら、一体何が残るというのだろう。
それからは、毎日が絶望だった。
何のために生きて、何のために勉強しているのか分からない。むしろ、今自分が生きているかすら定かではない。そんな毎日。
そんな時、僕は放課後の音楽室に迷い込んだ。
そこで響くピアノの旋律は、僕の奏でたい音そのものだった。僕好みの空間が、そこにはある。そう思うと、すぐに音楽室の戸を開け、彩音に出会った。
彩音の存在が幽霊だということには、最初から気が付いていた。だが、僕にとってそんなことは関係ない。音を奏でられない僕の代わりに、僕の好きな音を与えてくれる彩音の存在は、何であろうと癒しに変わりなかったのである。
しかしながら、正直、この音楽室にいないときは今でも、いつだって自分の存在感がないような気がする。そもそも音の中に生きる僕にとって、目や鼻は飾り物だ。飾り物を使って生きる世界なんて、意味がない。
僕だけが彩音を見ても大丈夫なのは、ひょっとしたら、そういうことなのかもしれない。僕が目や鼻を使って生きていないから、僕の目や鼻は幽霊のそれと変わらないのかもしれない。
と、いつの間にか、18分近くある長い名曲の最後の音になっていた。
曲の余韻を楽しんだところで、すかさず拍手を送る。
「よかったよ、彩音」
照れたように顔を綻ばせる彩音にさらに賛辞を送り、その後は完全下校時刻まで雑談に花を咲かせた。
他愛のない話しかしないが、この雑談の時間も、僕にとっては潤いの時間になっていた。音を奏でたり聴いたりするわけでもないのに、誠に不思議なことでもある。
「じゃあね、彩音……」
「ええ、また……」
こうして、完全下校時刻が魔法の解ける鐘の合図である。明日まで、また僕は生き地獄の中で過ごさなくてはならない。
僕は少しでも彩音の音の余韻を残しておくために、足音を立てずに帰った。
このような流れが、僕らの日課となっていた。
「ねえ、潤……」
この日の昼休みは、珍しく美優が遠慮がちな視線を向けながら声を掛けてきた。
いつもは聞き流しているだけの会話だが、今日は少し集中しなければならないかもしれない。
「なに、美優?」
「潤は、さ……将来どうするつもりなの?」
何を言おうとしているのか大体理解できた……。
分かってしまうと、僕はこの場から全力で逃げたくなった。
美優は僕のいたたまれない気持ちなんか全く知った様子もなく話を広げる。
「あの、ほら、ラヴェルさんって人が、『左手のためのピアノ協奏曲』とか作ったって話だから、潤もそういう曲を作る人を目指したらどうかなぁって……思った、ん……だけど……」
ようやく僕の顔色が好ましいものではないと感じ取ったのか、徐々に勢いを失っていく美優。
僕は一つ大きなため息を吐いた。
「はあ……」
僕の息が周りの空気に棘を練り込ませたのか、美優がどこか痛そうに目を細めた。
本当はここで怒鳴ってやりたかった。だが、怒声は聞くに堪えない不協和音だ。そんな音を奏でるのは、もっと嫌だった。
だから僕はもう一度ため息を吐いて、静かに言い放つ。
「そんなに気を回さなくていいんだよ、美優」
おせっかいだ。僕に関わらないでくれ。
僕は好きな音を奏でられなくなったことに落胆しているんだ。空気を僕の音で染め上げていくことができなくなったことに絶望しているんだ。
僕好みの音でないものを作っても、意味がない。
「そうだよね……ごめん、潤……」
美優はぎこちない笑みを浮かべてそう言い、それ以上何も言うことなく、音を立てずに昼食を終えた。
彩音の演奏を聴き終えた後、小さなステージに腰かけて雑談を繰り広げる。いつもはその場で適当に話題を掘り出すが、この日僕は、ずっと気になっていたことを彩音に訊ねてみることにした。
「そういえば、彩音」
彩音は僕に微笑みを向けて話を促した。
「彩音は、どうして音楽室にいるの?」
すると彩音の表情が珍しく曇った。
相手は幽霊だ。存在意義を問われれば、やはり不快に思うのかもしれない。
「ごめん、彩音っ……」
僕は急いで撤回しようとした。だが、彩音が手の平を向けて僕を制す。
「いいの、聞いてちょうだい」
それから彩音は、悲しく笑って話を始めた。
「実は私ね、生きていた時の記憶が無いの」
「……え……」
彩音との付き合いも、もう半年になるが、それは初耳だった。
「だから、私がなぜ音楽室にいるのかも、わからない。ただね、ピアノを弾いていたいって気持ちだけはあるのよ。たぶん、生きていた時の最後の想いか、あるいはよっぽど強い願いだったのでしょうね。その思いだけが形となって残ったのが、私、だと思っているわ」
ピアノを奏でる以外に、存在の理由がない少女。それは、音の中でしか生きられない僕と似ているような気がした。彩音は僕と、同じなのかもしれない。
「そう、なんだ……」
彩音の真実を知った僕は、どうしてか――少し嬉しかった。
口直しとでも言うつもりか、彩音はぴょんと立ち上がって明るい声音で提案する。
「何の曲が聴きたい? 今日はもう一曲サービスするわよ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
僕は頭の中で曲名の辞書を引く。きっと彩音は明るい曲を欲しがっているはずだ。彼女の願いに応えてやらねば。色々と名曲はあるが、僕はしばらく聴いていないという理由である曲を選出した。
「ストラヴィンスキー作曲の『ペトルーシュカからの3楽章』で第1曲『ロシアの踊り』」
すると彩音にしては珍しくというべきか、ぎょっとした顔になった。
「あれ、すごく難しいのよ?」
「知ってる」
「ヘタをすると、あの某――短時間料理番組のテーマ曲みたいになるし」
「それもよく知ってる」
彩音の怯えるような言い方が妙に可愛くて、僕がついつい笑いながら答えると、彼女はぷくっと頬を膨らませてしまった。
「意地悪……」
普段は大人っぽい雰囲気を醸し出している彼女だが、こうした子供のような仕草も似あうから不思議である。ツーサイドアップという髪型のせいだろうか。
に、しても、今日の彩音は一段と表情が豊かなようだった。こんな彩音を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
彼女はピアノ椅子に腰を下ろすと、今度は不安を含んだ笑みで僕に頼んできた。
「失敗しても、絶対に笑わないでちょうだいね」
「当たり前だよ」
僕がそう答えると、ようやく彩音は鍵盤の上に指を添えて、集中を始めた。
いつもよりも難しい曲だ。しっかりと精神を研ぎ澄ませてから挑みたいのだろう。彩音はじっくり十秒頭の中で数えてから、奏で始めた。
元気に飛び跳ねるような始まり。その始まりから、いきなり高難易度の指使いが要される。僕も何回かゆっくりと練習したことしかないが、指を使う順番を一つ間違えるだけで、音がずれてしまったりする。
それから中盤、一度大人しくなる。だが、そこで指や頭を休められるというわけではない。静かだが確かに、ぐるぐると回るような音が目まぐるしく訪れるのである。
そして、終盤。終わりは、始め以上の元気さだ。中盤で溜められた元気を放出するかのように、音がぴょんぴょん飛び跳ねる。普通の奏者は、ここまでの指の疲れからミスしてしまうことが多い。
それにしても、やはり彩音は凄い。高校生の実力では、この曲を弾ける者はほとんどいないだろう。いたとしても、本当に一握りの高校生ピアニストだけだ。さすがは、放課後のピアニストと呼ばれる幽霊のことだけはある。
だが、
「……っあ」
と、あと少しで終わりというところで、彩音の手が止まった。きっと素人が聴いても、なぜ彼女が止めてしまったのか分からなかったことだろう。だが、僕には分かった。彼女は指の動かし方を間違えてしまったのである。
彩音は、えへへと笑った。
「間違えちゃったわ」
「でもすごいよ。僕なんかゆっくりでやっとだった」
賞賛の笑みを送ると、何を勘違いしたのか、彩音は口を尖らせてしまった。
「あー、酷ーい! 笑わないって約束したのに!」
「い、今のは違うよっ!」
ついにはそっぽを向いてしまった彩音に駆け寄り、誠心誠意謝罪した。しかし彼女は機嫌を直す様子もなく、いじけたように呟く。
「でも笑ったもの」
「えぇ……」
笑っちゃ駄目って、そういうことだったのか。どうすれば許してくれるだろう。と、困り果てていると、彼女の肩が小刻みに揺れ始めた。
「彩音?」
彩音の顔を覗き込むと、彼女はお腹に手を当てて大笑いしていた。
「ふふふふっ、冗談よっ」
笑い声でそう言われ、僕は安堵のため息を吐いた。
なんだ、冗談かぁ……。
力が抜けた僕の横を軽やかなステップで通り過ぎ、彩音は小さなステージに再度腰かけた。
「さあ、座って。笑ったお詫びに今日はたっぷりとお喋りに付き合ってもらうわ」
あれ、冗談だったのでは……?
「完全下校時刻には、いつも通り帰らなきゃいけないんだけどね……」
「たまには、ちょっとくらい居残ってもいいじゃない」
甘えるようなトーンでそう言われ、僕の胸がドクンと高鳴った。
それも冗談だろうか……? そうだ、冗談に違いない。
「ははは、僕もそうしたいのは山々なんだけどね」
「何なら泊まっていくとか?」
「……え……?」
まさか、冗談ではないというのだろうか……?
額から汗が噴き出してきた。手汗も酷い。だが暑いという自覚はない。いや、熱いのは僕の身体だ。理由は不明だが、勝手に体内で何かが燃焼しているようである。
僕がオーバーヒート寸前なのを見て、彩音は悪戯っぽく舌を出して笑った。
「う・そ」
「もー、彩音はぁ……」
まあ、そんなことだろうと思ったけど……。
本気でないと解ると、急激に汗が乾いていくのを感じた。気化熱によって、僕の体温は平常に戻される。
僕はやれやれと肩を竦めて、彩音の隣に座った。
それから彩音のお喋りとやらに付き合い、楽しく過ごした。
そう、楽しかった。これ以上ないくらいに楽しかった。だが本当に、これ以上はなかったのだ。なぜなら――
――僕たちの音を引き裂く雑音が、ガラガラと音を立てて現れたからである。
「あれ、潤、だけ……? ねえ、今ここにもう一人いなかった……?」
それは、笹原美優だった。先に帰ったと思ったが、こっそりと僕の後をつけてきたのだろう。
訝しげに音楽室を見回す美優に、僕は答える。
「いないよ」
そう、ここには、僕以外に誰もいない。空っぽの音楽室には、僕だけしかいない。今さっきまで会話をしていた少女の姿は、そこにはない。
「それより美優、何か用事?」
「う、ううん! ただ、どうしたの? 誰もいない音楽室に一人で……?」
「何でもいいよ、美優には関係ない」
「関係あるよっ!」
美優が唐突にあげた、悲鳴にも似た叫び声が、僕らの聖域の空気を壊した。よく見ると美優の目には涙が浮かんでいる。が、今の僕には、そんなことはどうでもよかった。
「ねえ、潤、もしかして潤は、音楽室の幽霊に憑りつかれてるんじゃないの……?」
コツン……コツン、と靴を鳴らして、美優が僕のもとへと歩み寄ってくる。そのたびに音楽室の空気が美優の物になっていくような錯覚を感じた。
やめてくれ美優、それ以上ここを汚さないでくれ。
「潤……いっしょに帰ろ、ね」
こちらへと伸ばされる美優の手を、僕は強く払った。
バチン、という音が響き、次に冷たい静寂が支配すると、僕は呟く。
「やめてくれ……美優」
絶望を顔に映す美優だったが、引き攣った笑みを浮かべて、それでもなお、僕に構おうとする。
「あのね、潤……」
「帰ってくれ……」
「…………」
ダムが決壊したように美優の目から涙があふれ出し、彼女はそれを袖で拭いながら壁を伝って音楽室を去って行った。
僕は音楽室の扉を閉めて美優を送り出すと、室内に大きな声を上げる。
「もう出てきて大丈夫だよ、彩音!」
しかし、その声もろとも、すべての音は防音壁に吸収されるばかりで、彩音の姿は現れない。
もう一度呼びかけてみる。
「彩音! 出てきておくれ!」
しん、と空気は澄み、帰ってくる声はない。
嫌な予感がし、僕は真っ青になって音楽室中を探した。
ティンパニーの後ろ。譜面台の陰。そして、ピアノの裏側。
しかし、そのどこにも彩音の姿は見当たらなかった。
嫌な予感が、より現実のものへとなっていく。
もしかすると、彩音は、美優に見られて消えてしまったのではないか……。
僕はその場に折れるようにして膝をつき、音にもならない悲鳴を上げた。
その日から、僕はまた失意の底をさ迷うことになった。
無気力に授業を過ごし、放課後になると音楽室に行き、完全下校時刻になるまで彩音が現れるのを待つ。
彩音は消えていない。そう信じて。このままでは、彩音の声を忘れてしまう。彩音の音を忘れてしまう。もう好きな音とかはどうでもいい。僕には彩音の音が必要だ。
しかし、改めて音を失った僕は、両手が麻痺した時よりも暗くて静かな闇に落とされた気分だった。闇の中に差す一筋の光を掴みかけたら、目の前で消えてしまったような、そんな絶望感。
闇の中で彩音を探している間に、僕はすっかりやつれきったような姿になってしまった。これでは、音楽室の亡霊は僕になってしまうかもしれない。そう見えるほどだ。
そんな生活が続いて一ヶ月が経とうとした時だった。その日も僕は放課後、一人で音楽室にいた。だが、授業やら何やらで疲れていた僕は、音楽室のステージの上で寝過ごしてしまった。
そして起きた時には、完全下校時刻をとっくに過ぎていた。
「……っ」
夕方という時間帯を抜け、すっかり暗くなってしまっている。光源は窓から差し込む月明かりだけだ。
ほんのりと青白く着色された校舎に、恐怖心と共に妙な安心感を覚えた。そして――
「何の曲が聴きたい?」
――ずっと聞きたかった声に、僕はとてつもない喜びを感じた。
「彩音っ!」
微かな明かりを反射して、月夜の湖面のように見えるグランドピアノ。その湖面から、ツーサイドアップの少女の顔が覗いていた。
僕は、ピアノ椅子に着いている彩音のもとまで駆け、そのまま抱きしめた。
「どこに行っていたんだ、彩音! 心配したんだぞ!」
「うん……うん、ごめんなさい……」
僕の胸の中で、籠った彩音の声がする。
彩音はここにいるんだ。消えてなどいなかったのだ。
今はそのことが嬉しくて、もう他のことなんてどうでもよかった。
もう離さない。もうここから出ない。
そう思ってしまうほどに、だ。そこでようやく、僕は彩音のことが好きだったんだと気が付いた。
幽霊であるはずの彼女に触れている部分がこんなにも熱く感じ、無いはずの彼女の声に耳が火照るのは、そういうことだからに違いない。
しかし僕の想いは、次の彩音のセリフによって打ち砕かれてしまう。
「潤……私たち、もう会うのは最後にしましょう」
「え……?」
「あなたには、幽霊なんかよりも、ちゃんと見てあげなければならない人がいるわ」
美優のことか……。美優は僕のこと全く理解していない。彼女がいなくても僕には関係ない。
「美優とは、何もっ……」
「美優さんだけじゃない。家族や友達だって……。潤は、私なんかのためにそれらすべてを捨てるなんて駄目。しっかり聴いて、しっかり見て、しっかり地に足を付いて生きなきゃ。音の中だけで生きているのは、私といっしょよ」
「それでも僕は音の中で生きる。彩音さえいれば僕は……」
すると彩音は、僕の抱擁を解き、立ち上がって顔を近づけてきた。不意に、唇と唇が触れ合う。
唇から彼女の強い熱が伝わってくる。幽霊であるのに、どうしてこんなに熱いのだろう。
それが何秒続いたか分からない。が、初めて彩音と音以外で通じ合えたような気がして、また嬉しくて仕方がなかった。
その時確かに僕は、音がなくても――生きていると感じた。
それと同時に、言葉では伝わらない彩音の思いが、どっと僕の中に流れ込んできた。
それを悟ったら、僕はもう彩音に逆らうことなどできなかった。
唇が離れると、僕は囁く。
「これで……最後にしよう……」
僕のその言葉を聞くと、彩音は優しく微笑んで頷いた。
「なら最後にね……」
彩音の声は震え、涙で濡れていた。だが、嬉しそうに笑っている。喜びと悲しみが混ざったような笑みだ。
いつの間に泣いていたのだろう。真っ赤な頬を伝う涙の雫が、月光に照らされて美しく輝いている。涙の宝石を纏い、今の彼女はこれまでで一番綺麗に見えた。
そして、もう何度も、何度も聞いてきた言葉が――最後の言葉が彼女の唇から発せられる。
「何の曲が……聴きたい?」
僕も泣いてしまいそうだった。でも、ここで泣いたら、彩音がもっと辛くなる。
僕は顔が崩れそうになるのを必死で堪え、声を絞り出す。
「彩音のお任せで、お願いできるかな?」
彩音は大きく頷き、ピアノ椅子の端に寄り、空いたスペースをポンポンと叩いた。
座れ、ということなのだろう。
僕は彩音の隣に腰を下ろし、彼女と共に音を奏でた。
最後の曲を聴き終えた僕は、音楽室を後にした。
もう振り返らない。もう止まらない。
そう心に言い聞かせて、ただひたすらに足を動かす。
視界がぼやけて何も見えない。目が熱くて開かない。
進んでいるのか、戻っているかすら分からない。
案の定、どうにか校舎を出たところで、
「……っ⁉」
と、足元を躓いてバランスを崩してしまった。
僕の身体は糸が切れた人形のように倒れていく――
「大丈夫っ⁉ 潤っ⁉」
――途中で、誰かに受け止められた。
見えなくとも、その誰かの正体がすぐに分かった。ずっと前から聞いてきた声だ。分からないわけがない。でも、何とか目を凝らして、その姿を確認する。
そこには、セミロングの髪をストレートにし、深い灰色の瞳をした少女。幽霊ほどではないが、血を薄らと感じさせるほどに白い肌をしている。制服を着ているということは、ずっと学校にいたのだろうか。その容姿は、ずっと見てきたはずなのに、久しぶりに見たような気がした。
「……美優……」
僕の身体を支える少女 笹原美優は、優しく微笑んだ。
「今日、そんなに暗くないよ?」
分かっているよ、美優。分かっている。今日は月光が輝いているから、本当はよく見えるんだ。でも、今の僕には見えない。
進めばいいということは分かるが、どこに進めばいいのかが見えないのだ。
ふと、美優が僕の手を掴んだ。それは決して強い熱ではない。だが、ずっと温められてきた確かな温もりを感じた。
「わたしは潤の音、好きだよ。たとえ潤が気に入らない音でも、わたしにとっては最高の音だよ。だから……」
美優は何かを言いかけて、やめた。その代わりに、穏やかな笑みを僕に向けてくれる。
「わたしが手を引いてあげるから、いっしょに帰ろ?」
ああ、美優はどこまで優しいのだろう。一度は突き放したというのに、どうしてそこまで僕の道を照らし出そうとしてくれるのだろう。
ある少女からは進む勇気を貰い、またある少女からは進むための松明を貰った。
もう、僕は、音の世界から旅立たなくてはならないのかもしれない。
エピローグ
二年後
「ほら、潤、いっしょに帰ろ」
日課のように声を掛けてくる幼馴染みの美優に、僕は謝る。
「ごめん、美優。今日も寄るところがあるから先帰って」
「今日は……あ、お母さまの誕生日ケーキ買いに行くんでしょ。わたしも手伝うよ」
「いいの? 遠回りだよ?」
「彼女なんだから、これくらい当然でしょ。この前だってお母さまには、とってもお世話になったわけだし」
「そう……?」
美優と僕が付き合うことになったのは、つい最近のことである。付き合いだしてからというもの、何かにつけて彼女だから、と世話を焼いてくれる美優は、恋人というよりも姉弟のような気がしてならなかった。
ちなみに、お世話になった、というのは、以前僕の家でいっしょに食事をした時のことを言っているのだろう。本当に美優は、律儀な性格をしている。
「じゃあ、いっしょに帰ろうか」
僕がそう提案すると、美優は満面の笑みで頷いた。
「うん」
帰り道、美優が「そういえば」と切り出して僕に問う。
「ご両親には、あのこと話したの?」
「あのこと?」
「ほら、進路のこと」
「ああ」
高校生活も早くも残すところあと半年。高校三年生の僕らは、完璧に進路を固める時期となっていた。つい最近まで進路で迷っていることがあったのだが、とうとう焦りだした僕は美優に相談して、何とか進む方向を定めたというわけである。
「実はまだなんだ」
僕がそう答えると、美優は温かく笑って提案した。
「じゃあ、わたしも一緒にお母さまたちにお話ししてあげる」
「えー、いいよ、そんなお世話してくれなくても……」
「だーめ」
美優は人差し指を立て、説教をするように言う。
「いい? 潤は私がお世話してあげないと全然ダメなんだから」
「僕って、そんなに信用ないの……?」
「当たり前よ。潤は、音楽以外はからっきしなんだから」
その言い方は心外だ。だが、音楽が誉められたことは嬉しかった。
結局のところ、とことん自分は、音楽が好きで仕方がないのだ。進路に関しても、音楽に関わる仕事に就くための進路しか頭に浮かばない自分がいたほどだ。たとえ何かが貶されても、音楽さえ誉められれば許してしまいそうだから、これから美優にはいいように使われそうである。
しかし、僕が音楽の道を改めて目指すことができたのは、目の前にいる少女のおかげだ。彼女がいたから、僕は進むべき方向を見つけることができた。だから少しくらいの横暴には、目を瞑って対処すべきだろう。何せ僕は、耳を塞ぐのは嫌いだが、目を瞑るのは得意だ。
僕は、これから長い付き合いになるであろう幼馴染みに呼びかける。
「ねえ、美優」
「ん?」
「今日、家に寄って行く?」
僕の問いかけに対し、美優は案ずるように眉を曇らせた。
「え、でも今日はお母さまの……」
「いいよ。そのほうが母さんも喜ぶし」
すると美優は、ぱあっと顔を明るくして目を細めた。
「じゃあ行くね!」
こうして僕らは、いっしょに帰り道を歩んで行く。
あれから、音楽室に行っても彩音の姿を見かけることはなくなってしまった。しかしきっと、今の僕が見ようとしても、彼女は消えてしまって、見ることはできないだろう。なぜなら僕は今、音以外の世界でも生きているから。
だが、見ることはできなくても、音を聴くことはできる。
だから今日も僕は、放課後の音楽室から響いてくるピアノの旋律に、彼女を思い出すのだった。
『――何の曲が聴きたい?』
『放課後のピアニスト』END