第二話 「値段のない男が、初めて商売を覚えた日」
朝が来た。
薄い光が廃屋の隙間から差し込んで、埃の粒が金色に輝きながら空中をゆっくりと漂っている。ネルはまだ眠っていた。壁に背を預けて、膝を抱えたまま、浅い呼吸を繰り返している。昨夜の疲れが抜けきっていないのだろう。四日ぶりに食事をした体は、眠ることで必死に回復しようとしているのかもしれない。
俺は起き上がって、静かに廃屋を出た。
朝の街は、夜とは別の顔をしていた。
石畳の道に、商人たちが次々と店を広げている。野菜、干し肉、香辛料、陶器、魔道具——あらゆるものが所狭しと並べられて、客を呼ぶ声が飛び交っていた。それぞれの商品の上に浮かぶヴァリューの数字が、朝日の中でよく見えた。トマトが7、鶏の丸焼きが22、精巧な細工の短剣が840。
(面白いな)
思わず足を止める。
同じ野菜でも、同じ種類のトマトなのに、数字が違う。一つは7で、隣の店のは5だ。見た目はほぼ変わらない。だが俺の目には、品質の差が数字として表れている。熟し方、水分量、おそらく育てた土地の違い。それが数字に出ている。
(この目が使えれば、商売はできる。問題は——)
俺は近くの果物屋に近づいて、店主に声をかけた。
「すみません、この林檎を一つ」
店主は俺を——見なかった。視線がするりと俺の上を通り過ぎて、後ろの壁に抜けていった。
「……」
もう一度、大きな声で言った。
「林檎を売ってください!」
店主は眉をひそめて、きょろきょろと辺りを見回した。声は聞こえているが、発生源を特定できない様子だ。昨日の門番と同じだ。
俺は硬貨を一枚取り出して、カウンターに置いた。硬貨はカウンターに着いた瞬間、店主の目にはっきりと映った。しかし俺の手からそれが出てきたという認識がないから、店主は「なぜそこに硬貨が?」という顔で固まっている。
「……幽霊屋敷じゃあるまいし」
店主がぶつぶつ言いながら、硬貨を弾いて端に寄せた。受け取る気がない。
つまり——取引が、成立しない。
ヴァリューのない俺との契約は、この世界では法的に無効になる。それは昨夜なんとなく予感していたが、改めて実感すると、腹の底が重くなった。
(物は拾えても、正式に買えない。契約書にも名前が書けない。雇ってもらうこともできない。つまり俺は、この世界で「経済活動」が一切できない)
冷静に整理すると、かなりまずい状況だった。
昨夜の硬貨は運よく手に入れたものだが、それもいつまでも続かない。ネルは四日間食べていなかった。このままでは、明日の食事も保証できない。
俺は路地の角に背を預けて、腕を組んだ。
(……どうする。この世界で俺が動くには、誰かを通す必要がある。俺の代わりに取引してくれる存在が必要だ。つまり——相棒が必要だ)
気づいたら、廃屋の方向に足が向いていた。
◆ ◆ ◆
「要するに」とネルが言った。「わたしを使うつもり?」
「使うって言い方はよくないが、頼みたいのは本当だ」
起き抜けのネルは、目をこすりながら俺の話を聞いていた。廃屋の床に座って、ぼさぼさの銀髪が寝癖でさらに跳ねている。
「わたしはマイナスのヴァリューを持ってる。わたしが取引したら、相手のヴァリューを下げる。誰も関わりたがらない」
「それはわかってる。でも俺の目には、お前のヴァリューの奥に計測不能の数字が見えてる。本来のお前はそっちだ。マイナスはあくまで表面上の数字だ」
「そんなこと言われても、みんなには表面しか見えない」
「そうだな」俺は認めた。「だから頭を使う。俺が情報を出す。お前が交渉する。お前のヴァリューを相手が嫌がる前に、話を終わらせる速さで動く」
ネルがしばらく黙って俺を見た。
「……具体的に何をするの」
「まず、今日の食い物を確保する。次に、この街でヴァリューを稼げる仕事を探す。それだけだ」
「シンプルすぎる」
「複雑にしても仕方ない。まず動く」
ネルは少しの間考えて、それから立ち上がった。髪を手で押さえながら、静かにこう言った。
「……わかった。ただし、条件がある」
「聞く」
「昨日みたいに、危ないことはしない。わたしのせいで誰かのヴァリューが下がったら、その人がわたしを恨む。わたしはその積み重ねが、もうたくさん」
ネルの声は平静だった。だが俺には、その平静さの重みが少しだけわかった気がした。長い時間をかけて積み上げてきた、傷の数だ。
「わかった」
「本当に?」
「本当に。お前が不利になる動き方はしない。俺がちゃんと段取りを組む」
ネルは短く鼻から息を抜いた。不信感がゼロになったわけではないだろうが、とりあえず納得した、という顔だった。
「……行こう」
「ああ」
二人で廃屋を出た。朝の光の中に、街の喧騒が広がっていた。
◆ ◆ ◆
最初の仕事は、思わぬ形で転がり込んできた。
市場の一角で、一人の老人が困り果てた顔をして立っていた。足元に大きな荷車があって、荷物が山積みになっている。荷車の車輪が石畳の溝にはまって、どうにも動かせないらしかった。
老人のヴァリューは【1,200】。市民としては低い方だ。周囲の商人たちは見て見ぬふりをしていた。
(車輪が溝にはまってる。浅い角度でジャッキアップすれば抜けるはずだが——あの荷物の量だと、人手が二人いる)
「ネル」
「見てた」
「俺が車輪を持ち上げる。お前がお爺さんに声をかけて、荷車を前に引いてもらう。二十秒あれば終わる」
ネルが一瞬だけ躊躇した。老人が自分を見た瞬間に避けるかもしれない、という恐れだろう。
「やってみる」
それでも、ネルは頷いた。
俺が荷車の脇に回って、沈んでいる側の車輪の下に手を入れた。子供の体でこれをやるのは少々きついが、てこの原理を使えばなんとかなる。石畳の継ぎ目を支点にして、体重をかける。
「あの、すみません」
ネルの声が聞こえた。おそらく老人に声をかけている。
「荷車が動かないんですか?前に引いてもらえれば、抜けると思います」
老人が反応した。マイナスのヴァリューを持つネルを見て、一瞬だけ顔が固まった——が、困り果てた状況が勝ったのだろう、老人は荷車を引いた。俺が同時に車輪を持ち上げる。ずるり、と、車輪が溝から抜けた。
「お、おお!動いた!」
老人が顔をほころばせた。ネルに向かって深く頭を下げた。
「助かった、ありがとう!お嬢ちゃん、どうもありがとう!」
ネルは小さく頷いた。表情はあまり動かなかったが、少しだけ目が柔らかくなっていた。
老人は懐を探って、硬貨を数枚取り出した。
「ほんの気持ちだが」
「……いいです」
「受け取ってくれ」
「でも、わたしのヴァリューは——」
「関係ない」老人はきっぱりと言った。「助けてもらったんだから、お礼をするのは当たり前だ」
ネルの手が、ゆっくりと伸びた。硬貨を受け取った時、その手が微かに震えていた。
俺にはわかった。お礼を言われることが、この少女には珍しいことなのだと。いや——初めてに近いことなのかもしれない。
(……やることはある。この街に、やることは山ほどある)
俺の中で、何かが静かに形になり始めていた。
◆ ◆ ◆
午後になって、俺たちは街の北側に足を踏み入れた。
北側の空気は、市場とは全然違っていた。道が狭く、石畳が欠けていて、日当たりが悪い。建物はくすんでいて、住民たちの顔も同じようにくすんでいた。ここに住む人々のヴァリューを確認すると、ほとんどが千以下だった。中には三桁のものもある。
「貧民街か」
「低ヴァリュー区」ネルが静かに訂正した。「公式名称はそう。ヴァリューが一定以下の人間は、この区域にしか住めない。家賃もここが一番安いから」
「一定以下って、いくつから?」
「二千を切ると、この区域に移るよう行政から通知が来る。五百を切ると、街から出るよう言われる」
「……出た後は?」
「知らない」ネルはそれだけ言った。「戻ってきた人を、見たことがない」
俺は黙った。
道の脇に、子供が一人座っていた。七つか八つくらいの男の子だ。膝に穴の開いたズボンを履いて、地面に落書きをしている。ヴァリューは【420】。
「ねえ」男の子がネルを見上げた。「お姉ちゃん、ヴァリューがマイナスなんだ」
「そう」
「すごいね。見たことない」
好奇心だけの、まっすぐな目だった。大人のような嫌悪も恐れもない。ただ珍しいものを見た、という顔。
「ぼくは六十三。お父さんが言ってた。あと少ししたら四百を切るって。そしたら街を出ないといけないって」
「六十三?」俺は声をかけようとして——声が届かないことを思い出した。男の子には俺が見えない。
「ねえ、ネル」
俺はネルの隣に立って、耳元で言った。
「この子のヴァリューは四百二十だ。俺の目には、ここから伸びる余地が見えてる。適切な環境と機会があれば、まだいくらでも上がる。でも今のままだと——」
「わかってる」ネルが静かに言った。「わたしも、ずっとこっち側にいたから」
その言葉が、俺の中にすとんと落ちてきた。
ネルがしゃがんで、男の子と目線を合わせた。
「名前は?」
「クロ」
「クロ。あんたのヴァリューが今いくつかは、あんたのせいじゃない。この街のルールが、そう決めてるだけ」
「でも、街を出たら——」
「出さない」ネルは静かに断言した。「まだそうなってないから」
男の子がきょとんとした。ネルも少し驚いた顔をしていた。自分の口から出た言葉に、自分で驚いているのかもしれない。
俺は何も言わなかった。言う必要がなかった。
◆ ◆ ◆
夕暮れが街を橙色に染める頃、俺たちは酒場の前を通りかかった。
煤けた看板に「黒犬亭」と書いてある。低ヴァリュー区の外れに近い、安っぽい酒場だ。中から怒鳴り声と、テーブルを叩く音が漏れてきた。
「……騒がしいな」
「よくある」ネルが素通りしようとした。
しかし俺の足が、止まった。
酒場の入口の脇に、男が一人、壁に背をつけて座り込んでいた。
でかい男だった。二メートル近くあるだろう体格に、かつては鍛え上げられていたとわかる筋肉が、今は弛んで垂れ下がっている。無精髭が顎から首まで伸び放題で、髪も雑に結んであった。手に酒瓶を持って、目が半分閉じている。
男のヴァリューを見た。
【ヴァリュー:12】
十二。
石ころが一で、普通の市民が数千の世界で、人間が十二というのは——事実上の最底辺だ。この数字では、近いうちに街を出る通知が来るだろう。
だが。
【潜在ヴァリュー:4億2300万以上(推定)】
俺は息を呑んだ。
四億。推定。しかも「以上」。
これまでこの街で見た、あらゆる人間の潜在値を、この男は一人で超えていた。完全に潰れているが、その奥に眠っているものの大きさが、尋常じゃない。
(……何者だ、この人)
「ネル、あの人のことを知ってるか」
ネルが男の方をちらりと見た。
「……ガロウ。ガロウ・クロスタ。知ってる名前」
「どういう人だ」
「かつての英雄。五年前まで、この国で最高のヴァリューを持っていた剣士。九億八千万だったって、昔の記録に残ってる」
「九億——」
「でも何かがあって、今はああなってる。何があったかは誰も知らない。本人が話さないから」
九億八千万が十二に。
その落差を想像すると、胃の辺りに鈍い痛みが走った。数字の話ではなく、その数字の向こう側にある、何かを失った人間の話として。
俺はガロウに近づいた。ガロウには俺が見えない。だが俺の声は聞こえるはずだ。
「あんたのヴァリューは今、十二だ」
ガロウの目が、ぱちりと開いた。
「だが潜在値は四億を超えてる。俺の目にはそう見える」
ガロウは虚空を見つめたまま、低い声で言った。
「……幽霊か」
「違う。ただ値段のない人間だ」
「値段のない人間が、俺の潜在値を見えると言う」ガロウは酒を一口飲んだ。「おもしれえ冗談だ」
「冗談じゃない。あんたにはまだ四億分の価値が眠ってる」
長い沈黙が落ちた。
ガロウは酒瓶を地面に置いて、膝の上に肘をついた。その目が、遠いどこかを見ていた。
「……四億あっても」
ガロウがぽつりと言った。
「戻ってこない奴は、戻ってこない」
その一言の重さを、俺はうまく処理できなかった。戻ってこない奴、という言葉が、空気に溶けていった。
「……今日は、それだけだ」俺は言った。「また来る」
ガロウは答えなかった。ただ、酒瓶を拾い上げる手が、さっきより少しだけ遅かった。
俺はネルのところに戻った。ネルは少し離れたところで待っていた。
「話せた?」
「少しだけ」
「ガロウは、話さない人間だよ。ずっとあそこにいる。誰も近づかない」
「そうだな」俺は振り返って、ガロウの背中を見た。「でも、聞いてた」
ネルは何も言わなかった。
ただ少しだけ、ガロウのいる方向を、俺と一緒に見ていた。
◆ ◆ ◆
夜になって、今日の稼ぎを数えた。
老人からもらった硬貨が数枚。午後に市場でいくつか手伝いをして受け取ったもの。合計すると、二人分の食事と、廃屋よりはましな宿屋の一番安い部屋に一泊できる程度になっていた。
「今日の収入」俺は硬貨をネルの前に並べた。「全部ネルが稼いだやつだ。俺の手柄じゃない」
「あなたが考えて動いた」
「それだけじゃ飯は食えない。体を動かしたのはお前だ」
ネルは硬貨をじっと見た。
「……初めて、自分で稼いだ」
「そうか」
「誰かにもらうのとは、違う感じがする」
「違う」俺は頷いた。「全然違う。それが自分で積み上げたもんだ。誰にも奪えない」
ネルは硬貨を一枚、指先でそっと触れた。
その夜、安宿の二段ベッドで、俺は天井を見ながらガロウの言葉を思い返していた。
「戻ってこない奴は、戻ってこない」
五年前に何があったのか。九億八千万が十二になるほどの何かが。
そして潜在値四億が眠ったままになっているのは、なぜか。
「ねえ」ネルが下の段から声をかけてきた。「一つ聞いていい」
「なんだ」
「なんで、わたしはあなたが見えるんだろう」
俺は少し考えた。
「わからん。お前が言ってたろ、ヴァリューがゼロ以下の存在はお互いに見えるって」
「それはそう。でも——」ネルが少し間を置いた。「ゼロ以下の存在は、長い歴史でも、わたしとあなたの二人しかいない。この世界に生まれてから、ずっと一人だった。それが急に、空から降ってきた」
「空から降ってきたって言い方はどうかと思うが」
「事実でしょ」
「……まあ、な」
また沈黙。
「甲治」
「なんだ」
「わたしのヴァリューが封印されてるって言ったよね。誰かが意図的に」
「ああ」
「……それは、わたしが生まれる前から、決まってたことだと思う」
俺は黙って続きを待った。
「お母さんも、お婆さんも、みんなマイナスだった。代々ずっと。始まりは——千年以上前らしい」
千年。
その言葉が、俺の胸に小さな錘を落としていった。
「千年前に、何かあったのか」
「わからない」ネルの声が、少し遠くなった。「でも——」
そこで、ネルは口を閉じた。
「でも?」
「……何でもない。おやすみ」
「おやすみ」
宿屋の古い窓から、夜風が入ってきた。
俺はポケットのコインを取り出して、暗闇の中でその感触を確かめた。つるつるとした、摩耗した金属の感触。裏面の紋章が、指先に伝わってくる。
(……千年前。相場院の設立が、千年前だとしたら)
思考がそこまで辿り着いたところで、眠気が落ちてきた。
コインを握ったまま、俺は目を閉じた。
ネルの「でも——」の続きが、夢の中まで追いかけてきそうな気がした。




