第一話 「死ぬ直前に気づいたこと、死んだ直後に気づいたこと」
死ぬ、というのは、思っていたよりずっと地味な体験だった。
ドラマみたいに走馬灯が流れるわけでも、神様が迎えに来るわけでも、白い光のトンネルが現れるわけでもなかった。ただ、東京の路上で、夜の十一時に、俺は静かに意識を失っただけだ。
相場甲治、享年三十二歳。死因は過労。
死に際に思ったことといえば——。
「……俺、一回も、お客さんに本当に合う車を売れなかったな」
それだけだった。
情けない話だと思う。三十二年生きておいて、最後に浮かぶのが仕事の後悔か、と。恋人もいなかった。友達と呼べる人間もほとんどいなかった。家族には十年以上連絡を取っていなかった。それでも俺の脳みそが最後に選んだのは、売り上げノルマの話だ。
まあ、そういう人間だったということだ。俺は。
中古車販売員として十年働いた。最初の三年は、会社の言う通りに動いた。在庫を捌くために、客に合わない車を「お似合いですよ」と言って売った。故障リスクの高い車を「整備済みです」と微妙に曖昧な言い方で誤魔化した。ノルマは達成した。上司には褒められた。
でも四年目のある日、子供を三人抱えた客に、維持費のかかるミニバンを売った翌月——その客が「維持できなくなった」と泣きながら店に戻ってきた。
それから俺は変わった。
客の本当の事情を聞いて、本当に合う車を勧めるようにした。たとえ利益が薄くても。たとえノルマを下回っても。「この人には軽自動車の方が絶対いい」と思ったら、高い車を勧めなかった。結果、売り上げは落ちた。上司には怒られた。同僚には疎まれた。最終的には「会社の方針に合わない」という理由でクビになった。
退職金は雀の涙で、積み上がった借金の前ではゼロも同然だった。生活費を削りながら夜の配達バイトを掛け持ちして、ある冬の深夜——凍結した路面で自転車ごと転倒して、そのまま帰らぬ人になった。
誰かに見つけてもらえたのは、翌朝になってからだったらしい。
あまりにもひっそりとした最期だった。
——だから、である。
だから俺は、次の世界では、もう少しうまくやろうと、そう思った。
◆ ◆ ◆
目を開けたら、空が広がっていた。
青い。抜けるように、馬鹿みたいに、青い。東京で最後に見た空の色を、俺はもう覚えていない。だいぶ前から、空を見上げる余裕なんてなかったから。だからこの青さが、やけに胸に刺さった。ずきり、と。肺の奥の方まで。
(……生きてる)
そう思った瞬間に、次の認識が追いついてきた。
(いや、死んでたはずだ。じゃあここは——)
身体を起こす。見渡す限りの草原だった。風が吹いている。草が揺れる。どこまでも続く緑の海の中に、俺は一人で倒れていた。
自分の手を見た。
……手が、小さい。
子供の手だ。ついさっきまで三十二年間使い続けた、節くれだった中年男の手ではない。白くて、細くて、傷一つない、どう見ても十代前半の手が、俺の腕の先についていた。
「あー……」
声まで若い。声変わり前か後かくらいの、やたら高い声が出た。
「転生、か」
呟いてみたら、やけにあっさりと受け入れられた。むしろ妙に腑に落ちる。死んで、別の世界に生まれ直す。そういう話を、俺は知っていた。ゲームで、漫画で、小説で。フィクションの中でだけ知っていた概念が、今まさに現実になっている。
「まあ、悪くない」
本音だった。前の世界での俺の人生は、客観的に見て終わっていた。借金、孤独、過労死。やり直すなら、むしろ好都合だ。
立ち上がろうとして——そこで初めて、俺は「それ」に気づいた。
草原に、数字が浮いている。
草の一本一本に。転がっている石ころに。遠くの木に。吹き抜ける風にさえ。何もかもの上に、薄く発光した数字が張り付いていた。まるでゲームのUIみたいに、世界の全部に値札が貼ってあるかのように。
「……なんだ、これ」
草:4。石:1。木:227。風:計測中——。
試しに近くの石を拾い上げると、ぱっと数字が大きく見えた。【ヴァリュー:1】と。
ヴァリュー。価値、という意味だ。この世界の言語が頭に入ってきているのか、その単語の意味を、俺は自然と理解していた。
(この世界では……万物に値段がついているのか)
ゆっくりと、理解が追いついてくる。石ころ一個のヴァリューが1。木が227。ということは、数字が大きいほど、価値が高い。
じゃあ、俺は。
俺自身のヴァリューは、どれくらいだ。
水たまりが近くにあった。草原の地面に雨水が溜まった、小さな鏡みたいな水面。俺はそこに顔を近づけて、自分の顔を確認した。
黒髪、細面、子供の顔。それはいい。問題はその顔の上に浮かぶはずの数字だ。
俺の顔の上には。
何も、なかった。
数字がない。ヴァリューを示す光が、一切ない。草ですら持っている「4」という数字が、俺の上には存在しなかった。
ただ——数字があるべき場所に、細く、静かに、こう表示されていた。
【ヴァリュー: ——— 】
ハイフン。空白。何もない。
「……バグか?」
呟いた声が、草原に吸い込まれていった。
その時の俺には、まだわかっていなかった。
この「空白」が何を意味するのか。この世界で値段のない存在がどういう扱いを受けるのか。そして——この空白こそが、俺をやがて世界で最も恐れられる存在にする、その理由になることを。
◆ ◆ ◆
草原を歩いた。
方角もわからない。目的地もない。とにかく人の気配を求めて、足を動かした。草が膝まである場所もあって、転生したての子供の体には少々きつかったが、三十二年間の精神が宿っているせいか、弱音を吐く気にはならなかった。
歩きながら、ヴァリューの見え方に慣れていった。
飛んでいる鳥は20前後。地面を這う虫は1以下のものが多い。遠くに見える山は数万——桁が多すぎて読み切れない。この世界の「価値」の基準が、徐々につかめてきた。
(生き物は動けるほど、複雑なほど、数字が大きくなる。山みたいに巨大なものは別の意味で大きい。……基準は存在としての「影響力」か?)
前世の査定眼が、自然と分析を始めていた。中古車の査定も、最終的には「この車が市場にどれだけの影響を与えうるか」の見積もりだ。構造は似ている。
そして一時間ほど歩いたところで——俺は、初めて「人間」のヴァリューを目にした。
丘の向こうに、小さな街が見えてきた。石造りの建物が並んでいて、城壁で囲まれている。城門の前に、二人の門番が立っていた。
左の門番のヴァリューは【4,200】。右は【3,850】。
「(へえ、人間は数千か)」
近づいていく。門番の視線がこちらに向く——はずだった。
向かなかった。
十メートル。五メートル。三メートル。俺が城門のすぐ手前まで歩いていっても、二人の門番は視線を動かさなかった。ぼんやりと、正面を向いたまま、石像みたいに立っていた。
(……あれ?)
「すみません」
声をかけた。反応がない。
「もしもーし」
手を振った。ない。
俺は門番の目の前に立って、手をぶんぶん振り続けた。二人はまるで俺が見えていないかのように、完全に無視し続けた。
「……俺、透明人間か?」
試しに門をくぐってみた。誰にも止められなかった。街の中に入れた。
道を歩く人々も、誰も俺を見ない。目が合わない。ぶつかりそうになっても、寸前で無意識に避けていく。まるで俺という存在が、この人たちの認識の外側にあるみたいに。
「(……なるほど)」
薄々、わかってきた。
この世界では、ヴァリューのない存在は「存在しない」と同義なのだ。人々の脳が、無意識に値段のない対象を認識から除外している。ゼロならまだいい。ゼロすら表示されない「空白」の俺は——この世界の法則の、完全な外側にいる。
「……前の世界でも、誰にも気づいてもらえなかったけどな」
自嘲気味に笑って——止まった。
路地の奥に、少女が一人、蹲っていた。
◆ ◆ ◆
銀色の髪だった。
ぼさぼさに絡まった銀色の髪が、肩の下まで伸びていて、顔を隠している。膝を抱えて、路地の隅の壁に背をつけて、小さく、小さく、縮こまっていた。
その少女のヴァリューを見た俺は、思わず足を止めた。
【ヴァリュー:-8,720,441】
マイナス。八百七十二万。
(マイナスって……何だ?)
石ころでも1はある。飛んでいる虫でも0.5くらいはある。この世界に存在するあらゆるものが、正の数のヴァリューを持っている。なのにこの少女の数字は、マイナスだ。しかも八百万以上のマイナスだ。
もう一度、よく見た。
ヴァリューの数字の奥に、薄く、別の数字が透けて見えた。まるで二重に重なった印刷のように——。
【本来のヴァリュー: ——— 計測不能 ——— 】
計測不能。
俺は息を呑んだ。
この世界の一番でかい数字は何だろう。あの山が数万だった。人間の最大値がどれくらいかはまだわからないが、おそらく数千万かそれ以上か。なのにこの少女の「本来のヴァリュー」は、計測不能——それを超えている、ということだ。
では、マイナスの数字は何だ。
(……封印、か。本来の数字を、誰かが意図的に隠している。マイナスの数字は、借金みたいなものじゃないか。本来のヴァリューを担保に差し出して、その分の負債をこの子に背負わせている——)
考えている間に、路地の奥から声が聞こえてきた。大人の男の声が、二つ三つ。
「いたいた、厄病神」
「早く出ていけ。お前がいるだけでこっちのヴァリューが下がる」
「そもそも街の中に入れるな、こういう奴は。規則で弾けよ」
三人の男が、少女に向かって石を投げた。
石は少女の膝のすぐ横に落ちた。少女は顔を上げなかった。震えてもいなかった。ただ、ぎゅっと膝を抱く腕に力が入っただけだった。
男たちのヴァリューを確認した。【6,100】【5,400】【4,900】。門番よりは少し上。それなりの市民か、商人か。
そして俺の中で、何かがすっと冷えた。
三十二年間、俺はずっとこういう場面を見てきた。本当の価値を見ようとせず、表面の数字だけで人を判断する奴らを。あの時、維持費のことを考えずにミニバンを買ってしまった客に、「もっと安い車の方がいいですよ」と言えずに黙っていた同僚たちを。
「やめろ」
気づいたら、声が出ていた。
三人の男が、きょとんとした顔をした。視線がうろうろと動く。俺の方を向いているはずなのに、焦点が合わない。俺のことが見えていないからだ。
「誰だ?」
「声だけ聞こえる……?」
「幽霊か?」
三人が明らかにたじろいだ。ヴァリューのない俺は、彼らには「声だけが聞こえる何か」として認識されている。
俺は三人に向かって、はっきりと言った。
「お前たち三人のヴァリューを俺は見ている。六千と、五千と、四千九百。たいした数じゃない」
「な……」
「だがあの子のヴァリューは、計測不能だ。お前たち三人分を足して、さらに万倍しても届かない」
でたらめを言っているわけじゃない。俺には本当にそう見えている。
「お前たちが石を投げているのは、自分たちが一生かけても届かない価値を持った存在にだ。それを理解した上で、もう一度やるというなら、やればいい」
沈黙。
三人は顔を見合わせて、足早に路地を出ていった。
静かになった路地で、俺は少女の前にしゃがみこんだ。
少女がゆっくりと顔を上げた。
右目が、蒼い。左目が、金色だ。
その二色の瞳が、まっすぐに俺を見た。俺を、ちゃんと、見ていた。
「……見えるの?俺が」
少女が、こくりと頷いた。
「見える」
静かな声だった。声に似合わず落ち着いた、どこか疲れた声。
「あなたには値段がない。値段がない人が見えるのは、わたしだけ」
「……なんで」
「わたしも、ちょっと普通じゃないから」
少女は、自分のヴァリューが表示されている場所を指差した。もちろん俺にしか見えないはずだが、彼女はその位置を正確に示していた。
「わたしのヴァリューは、マイナス。この街で、唯一の。だからみんな、わたしを怖がる」
「……お前のことが、見えるのか」
「見える。ヴァリューがゼロ以下の存在は、お互いに見える。わたしはマイナス。あなたは空白。どっちも、この世界の法則の外側にいる」
俺は少しの間、この少女を見つめた。
マイナスのヴァリューを背負って、街の人々に石を投げられ、路地の隅で膝を抱えている。震えもせず、泣きもせず、ただ静かに耐えている。
(……この子は、本来は計測不能の価値を持っているのに)
「名前、聞いていいか」
少女が、少し間を置いてから答えた。
「……ネル」
「そうか。俺は甲治。相場甲治」
手を差し伸べた。
「お前の本当のヴァリューは、俺には見える。だからまあ——とりあえず、飯でも食いに行こう」
ネルが、目を丸くした。ぽかんと、口が少し開いた。
「……飯?」
「腹減ってるだろ。俺も減ってる。飯食いながら話せることもあるだろうし」
少女はしばらく俺の手を見ていた。
それから、ゆっくりと、手を伸ばしてきた。
細い手だった。ひどく冷たかった。何日もまともに食べていない人間の手の感触がした。
「……お金、あるの?」
「ない」
「じゃあどうするの」
「なんとかする」
俺は立ち上がりながら、路地の入口を見た。さっきの男たちが落としていった荷物の中に、小さな袋がある。石と一緒に投げつけようとして、落としたらしい。
袋を拾い上げた。中を確認すると、硬貨が数枚入っていた。ヴァリューのない俺が持っている物には、誰も気づかない。厳密には窃盗かもしれないが、石を投げてきた連中への正当な請求だと思うことにした。
「あった」
「……」
ネルは何も言わなかったが、目が少しだけ、丸くなっていた。
◆ ◆ ◆
屋台で買った黒パンを、ネルは三つ食べた。
俺が二つ食べている間に、ためらいなく、しかし行儀よく、三つ平らげた。よほど腹が減っていたのだろうが、慌てた様子は一切なかった。品があった。育ちがいいのか、単に気が強いのか。
「何日ぶりだ」
「……四日」
「そうか」
それ以上聞かなかった。聞いても今はどうにもできないことがある。まず目の前の問題から片付ける。それが俺のやり方だった。
「一つ、教えてくれ」
「なに」
「ヴァリューが高いと、何がいいんだ。この世界で」
ネルは少しだけ考えてから、答えた。
「全部」
「全部?」
「ヴァリューが高いと、いい場所に住める。いいものを食べられる。魔法も、剣技も、知識も、全部ヴァリューで買える。ヴァリューが低いと、街にすら入れない場所もある。ヴァリューが一定以下だと、法的な保護を受けられない国もある」
「……ひどい世界だな」
「そういうものだって、みんな思ってる」
「お前はどう思う?」
ネルが、少しだけ間を置いた。
「……わからない。わたしは、最初からマイナスだから。普通を知らない」
俺はパンを一口食べながら、この街の景色を眺めた。道を行く人々のヴァリューが、数字となって見えている。三千、四千、一万、八百——。
値段で決まる世界。値段で測られる存在。
(……前の世界と、大して変わらないな)
売り上げ、偏差値、フォロワー数、年収。前の世界にも、あらゆる数字があった。人間を数字に還元して、数字で序列を決める仕組みが。
そしてその数字からはみ出した人間が、どういう扱いを受けるかも、俺は知っていた。
「ネル」
「なに」
「俺は、お前の本当のヴァリューを見た」
ネルの目が、静かにこちらを向いた。
「マイナスの数字の奥に、別の数字がある。計測不能って表示されてた。この世界の尺度じゃ測れない価値が、お前の中にある」
「……嘘」
「嘘じゃない。俺はこれが見える。それだけが、今の俺の取り柄だ」
ネルは、長い間、俺を見ていた。
その目が、じわりと、滲んだ。
泣くのかと思ったら、泣かなかった。ぐっとこらえて、唇をきつく結んだ。
「……証明できる?」
「いつかな」
「いつかって、いつ」
「わからん。でも、俺が諦めるより先に諦めたら、その時は一緒に落ち込もう」
ネルが、ぽかんとした顔をした。
「……変な人」
「よく言われる」
「値段もないのに、よくそんなに落ち着いてられる」
「俺の値段は、俺が決める。そう思ってるから」
ネルはまた黙った。今度は少し長く。
それから、ぼそりと、こう言った。
「……わたしの値段も、わたしが決めていい?」
「当たり前だろ」
俺は即答した。
「この世界が決めた値段なんか、関係ない。お前の本当の価値は、お前と、俺と——あとは、これから出会う奴らが決めればいい」
路地から、風が吹いてきた。ネルの銀色の髪が、ふわりと揺れた。
その瞬間の彼女の顔を、俺はこれから先、長い旅の間、きっと忘れない。
生まれて初めて、誰かに値段を決めてもらえると知った少女の、戸惑いと、安堵と、かすかな希望が混ざった、あの顔を。
◆ ◆ ◆
その日の夜、俺は街外れの廃屋でネルと一緒に眠った。
眠る前に、ポケットを探ったら、何か固いものが指に触れた。
取り出してみると、古びたコインだった。
どこで拾ったのか、全く記憶がない。気づいたら持っていた。
表面は磨耗していて、何が描かれていたかもわからない。ヴァリューを確認しようとしたら——コインの上には、数字が表示されなかった。俺と同じ、空白だった。
「……変なコインだな」
捨てるのも何だかもったいなくて、ポケットに戻した。
裏返した時、かすかに何かが刻まれているのが見えた。摩耗して読めない文字の中に、一つの紋章のようなものが。
俺にはその紋章に、見覚えがあった。
今日、街に入る時に見た、城門の上に掲げられていた——あの紋章と、同じ形だった。
「……まあ、いいか」
深く考えるのは後回しにして、俺は目を閉じた。
明日は、この街でヴァリューを稼ぐ方法を考えなければいけない。ネルの食い扶持も確保しなければいけない。何から始めるか、段取りを組まなければいけない。
やることは山積みだ。
でも不思議と、悪い気分じゃなかった。
前の世界で最後まで持ち続けた「本当に合う相手に、本当の価値を届けたい」という気持ちが、この世界でなら形にできるかもしれない。そんな予感が、じわじわと胸の中に広がっていた。
値段のない男が、値段のない世界を旅する。
そこに何があるかは、まだわからない。
ただ確かなのは——この旅は、始まったばかりだということだ。
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