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第三章 内と外

少威がもう一度目を開けると、目尻から一滴の涙が滑り落ちた。

顔の上を這うような痒みが不快で、彼は軽く眉を寄せる。

時計を見ると、もう二時だった。

身体の違和感を抱えたまま、少威は着替えを探しに二階へ上がった。


古めかしい浴室へ入る。

和式の便器は、ろくに修理もされないまま長いこと放置されていて、水が流れない。

ただ、手動ならなんとかなる。


給湯の管につながった蛇口をひねる。

熱い湯がゆっくりと流れ出し、プラスチック製の浴槽を少しずつ満たしていく。


少威は簡単に身体を洗った。

汚れと、虫が這うみたいな痒みを落とし、それから湯の中へ沈む。

数少ない「好きなこと」のひとつが、こうして湯に浸かることだった。

ここでは、少なくとも圧に押し潰される感じがしない。


湯の温度が皮膚に触れ、強張っていた筋肉がほどけていく。

少威は一階の天井を見上げた。コンクリートで固められた、無表情な天井。

何かを考えたいわけじゃない。ただ静かになりたかった。


水面から手を持ち上げ、まだ生きている身体の感触を確かめる。


すると、ある日の記憶が引きずり出される。

浴槽の縁に腰かけ、湯が溜まるのを待っていたとき。

浴室の外から、甲高い女の声が飛んできた。


「少威、お風呂の水、ためすぎないで。ちょうどいいくらいでいいのよ」


胸の奥がわずかにざらつく。

それでも少威は礼儀だけを残して答えた。


「わかりました、……おばさん。」


意識が、現在へ戻ってくる。

いちばん力が抜けるはずの時間に、父の恋人である「おばさん」の声を思い出してしまった。

そのせいで、湯の温度が少しずつ奪われていくみたいに、苛立ちだけが濃くなる。


少威は蛇口に手を伸ばし、もう一度、熱い湯を足そうとした。

あの「静かな瞬間」に戻りたかった。


けれど、湯は戻らない。

温かさは引き返さず、むしろ冷たさのほうが増していく。


少威は浴槽から立ち上がった。

冷えた湯で寒くなった身体が、空気に触れてさらに冷える。


「……うざい。」


吐き捨てるように呟き、急いで身体を拭く。

ここから逃げたかった。


洗い終えた少威の気分は、ほんの少しだけ軽くなっていた。

肌の痒みはすっかり消えている。

彼はスマホを手に取り、何も入っていないメッセージ欄を眺める。

空白は、いつものことだった。


それでも、上向きかけた気分がまたゆっくり沈んでいく。


少威は、数少ない友人二人のうちの一人を開いた。

過去のやり取りを眺めると楽しくなる。

けれど、その相手と実際に関わることを考えると、途端に億劫にもなる。

スマホを置いて、また手に取ってを繰り返す。


友人たちに離れてほしくない。

その気持ちだけは本物だった。


少威はもう一度トーク画面を開き、同じ履歴を何度も見返す。

見れば見るほど、逆に空っぽになっていく。


指が発信ボタンの上で、長いこと止まった。

そして最後に、少威は友人へ電話をかけた。


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