序章
本作は短編小説で、うつを抱えた人物の内面や心理の揺れを描いている。
鈍い死の月が、漆黒の空にゆらりとかかっていた。
月明かりは少年の頬を撫で、彼の瞳は虚ろだというのに、頭の中だけが無数の声で痺れるほど騒がしい。
少年は目を閉じ、空っぽになろうとする。
自分を、過去へ沈めるみたいに。
しばらくして目を開けると、疑いと悲しみと無力感がひとつに溶け、湿って冷たい泥のように胸にまとわりついた。
彼は自分の身体を見下ろし、それから顔を上げて前方の道を見た。
その道に終わりはない。ただ「命じられた向き」だけがある。
少年は一歩を踏み出し、けれどすぐに止まった。
「後悔した? 逃げたくなった?」
脳内に響く声は、鉄みたいに冷たかった。
「無理だよ。おまえは行けない。俺たちも、どこにも行けない。」
疲労が潮のように四肢へ流れ込む。
力が入らない。呼吸さえ引き伸ばされる。まるで誰かが時間を指でつまんでいるみたいに。
「責任があるでしょ。」
別の声が鼓膜に貼りつく。鋭く、そして当然の顔をして。
「逃げちゃだめ。逃げられるわけないじゃない。」
ざわめきの群れが、ふいに裂けた。
雑音がすべて止まり、残ったのは、形のない響きがひとつ。
深いところから、ゆっくり浮かび上がってくる。
「死……」
一振りの短剣が、目の前に現れた。
少年はしゃがみ込み、拾おうと手を伸ばす。
その瞬間、見えない手に押されたみたいに身体がよろめき、勝手に前へと投げ出される。
雑音がまた押し寄せる。
今度はどれも違う話題、違う催促。
大勢に取り囲まれて好き勝手に話しかけられているのに、誰ひとり彼を見ていないような感覚。
「逃げられない。」
「早く行け、早く行け!」
「出られないんだよ。」
それでも、あの形のない声だけは消えない。
ただ、幾重にも上から塗りつぶされ、圧し沈められ、ほとんど聞き取れなくなる。
「死……」
少年は、ついに耐えきれなかった。
身体が少しずつ縮んでいく。幼い頃の自分へ戻っていく。
もうどうでもよかった。堪えることもできず、みっともないほど泣いた。
脳裏に、いちばん眩しくて刺さる二つの声が浮かぶ。男と女。
男の声は低く、扉を閉めるように。
女の声は甲高く、扉の向こうで手を叩いて喜ぶように。
「芝居がかってる……怠け者……恥さらし……役立たず……」
低い声が助けを否定すると、甲高い声がすぐに乗っかる。嬉々として、話題を見つけたみたいに。
「そうそう! だから言ったでしょ、あの子はそういう子なのよ。将来なんてないわ!」
少年の胸に、何かがのしかかる。
怒りと無力が同時に破裂するのに、反抗することさえ贅沢みたいだった。
「どうして……どうして……」
身体はゆっくり元の大きさへ戻っていく。
涙は落ちるはずなのに、彼は無理やり押し殺した。
残ったのは途切れ途切れの嗚咽だけ。
それでも、数滴だけ地面に落ちた。
二つの声は餌の匂いでも嗅ぎつけたみたいに、貪欲にその涙を「回収」した。
舐め取るように吸い尽くし、すぐに別の雑音に覆い隠される。まるで何もなかったみたいに。
少年は手を伸ばして、それを掴もうとした。
けれど指先は空気をすり抜けるだけで、何も触れられない。
次の瞬間、また前へ押し出される。
彼自身さえ理解できない、もっと深いところへ。




