遊離する夢中人
混濁する白と黒。
混じり合うことはなく、風のように揺蕩う。
いったいいつからここにいたのか、何のためにここに来たのか。感覚すらあやふやで朧気に立ち消え、所在なく変幻自在。混沌とした空間の中で、一人の女性が座していた。
何度目かの覚醒。
けれど、その意識が思考することはない。
曖昧模糊の中で、夢のように取り留めもなく外界の様子を感じるだけ。
喜び、悲しみ、幸福、不満……全てが一緒くたに届けられ、混沌とした中で一つの自我が芽生える。
行く当てもなく、女性の下へと近づいていった。
そこには彼女に纏わる様々な記憶が堆積していた。それはあまりにも長く、振り返ろうとすればずっと長い時間費やす必要があるくらいに。
重い歳月の埃を払うよりも、まだ浅いところにある目新しいものに惹かれて自我は目を通した。
心を揺さぶる英雄を見た。
知略を尽くす学者を見た。
生命を謳う祈祷を聞いた。
子どもの笑い声、共に交わした盃、繰り返し訪れる別れ。物語のように魅力的で、目を引きつけてやまない人々の物語。
彼女の記憶を読み取り、蓄積し、願望が育まれていく。
(外に出たい)
そう思えば、あとはそれに応えるように女性は自我を抱え、胸に宿した。
自我を中心に再び散らばった断片は収束し、新たな時間を紡ぎ出す。
*
重い瞼を開けると、目の前に広がるのはどこまでも暗い空間だった。彼女は自然と手を伸ばしたが、何かに阻まれてそれ以上進めない。
(ここは……どこだ?)
頭の中でちらちらと映るイメージが明滅するように巻き起こるが、全てが切取られたフィルムのように不自然に散らばっている。
(邪魔だな……)
そう思うと、簡単に目の前の何かは砕け散り、外へと足を踏み入れる。振り返ってみると、そこには一つの砕けた結晶があった。
そこから自分が出てきたとしたら、どうやって閉じ込められたのだろう? 疑問に思いつつも、女性は部屋に扉を見つけてその先へと進んだ。そちらにも誰もおらず、彼女は退屈に感じ始めていた。さっさと次へと進むと、今度は人の声が騒がしく聞こえてきた。
「もう早速仕事かぁ……戦ったってのに、日常が戻ってくるのはあっという間だな」
「そうは言うなよ。直ぐに仕事に戻れたんだ。これも、ブリューゲル様や市長様のお陰だろ。それに、議会の奴らが日和ってる間に俺たちが動きやすくなったんだから、損ばかりじゃない。これから色んな改革を打ち出していけるんだ」
そんな会話をしながら通り過ぎていった二人を見送った後、ひっそりと扉から出た。
(ブリューゲル……ブリューゲル……ああ、彼のことか)
その名は印象に残っている。
もし彼に会えば頼りになるかもしれないが、一体どこにいるのだろう。建物の外を眺めると、綺麗な内装とは裏腹に地面はえぐれており、工事に多くの人が働いていた。
(そういえば、市長と言っていたな。彼に会っても良いかもしれない)
記憶の中の市長は朗らかで優しい男だった。
思いつきで、彼の部屋を探してみることにする。人目につかないように気配を消しながら、記憶を頼りに彼の部屋を目指していく。
「えぇ……また書類? そろそろ体を動かさせてよ。鈍っちゃうよ」
「私としては、少しくらい落ち着きを持っていただいたほうが良いのですが」
部屋の中から落ち着いた壮年の男性の声と少女の声が聞こえた。
(……誰?)
彼女は少し戸惑った。
片方の男の方は少し記憶より老いている気がするが、見たことがある。確か、オズワルドという名前だったはずだ。しかし、その側に彼はいない。
(外に出よう。知り合いを探さないと)
彼女は窓を開け、そこから飛び降りた。
「少し休憩! あんまり根を詰めすぎると、みんなへの笑顔も半減しちゃうからね。あれ? あそこの窓、誰が空けたんだろう?」
「間諜? いや、気配はしなかったはず。大方、誰かが窓を明けっ放しにして何処かに行ってしまったのでしょう」
*
(随分と、発展してる)
外に出て街並みを眺めながら、その一つ一つの齟齬を確かめていた。適当に歩いていると、ある大きな像の前に行き当たる。
(彼は……セネカ。流石に生きてはいないだろうね)
思い返すのは、壮絶な戦いに赴く彼の背中。
敵を貫き、敵味方問わず屍の上に立つ勇姿。
彼は最後まで、戦い抜いたのだろう。
それが勇者と呼ばれた男の生きる道だ。
少し離れたところで男女一組が何かを話している。
「劇場に被害がなくてよかったけど……スケジュールは全てパァね。でも、演奏する場には困らなさそう」
「必要とされてるなら良いことだな。ただ、少し意外なのはアリアが受け入れたことだな。今回求めるのは女王様ではなく、心を慰める音楽だ」
「屈辱かって? ……場には合わせるわよ。それに、これをオーケストラの入り口させられれば、関係ない」
二人の会話を聞いたあと、彼女は人々の表情に暗さがあるのに気が付いた。未来を憂う余裕があることに。
(……そうだ、あの子たちは──)
記憶を辿って、眠る以前に面倒を見ていた子どもたちを思い返す。
(──コハクとヒスイ、あとレック。彼らは元気にしてるかな?)
彼女は増えた目的を頭の中で書き留めて、再び雲のように気ままに歩き始めた。




