剣身は澄み渡る
ヒスイは料理の味見をして、しばらく沈黙していた。
「……これで良いのか?」
ヒスイはイロハのように甘党ではない。
だから、彼女に合わせるために少しずつ調整しながら妥協できる境界を探る。
(あんなに喜ばれたら、妥協するわけにもいかないな)
イロハは料理を口に入れるたびに目を輝かせて美味しそうに頬張る。それを見ていると、まだ彼女が子供であると実感させた。
(……もっと、そういった時間を過ごしても許されるだろう)
気合いを入れ直して、再び料理と格闘していると、電話が掛かってきた。
『……突然すまないが、君はヒスイ君か?』
女性の声で呼び掛けられる。
その声は妙に真剣味を帯びていた。
「ああ……貴方は、確かイロハのところの院長さん?」
『そうだ。……申し訳ないが、今日、イロハをそちらへ向かわせることができなくなった』
「そうか、それは残念だな。次に来る時を楽しみにしている、と伝えてほしい」
『……』
やけに重い沈黙が向こうから聞こえてくる。
まるで、何かを言うことを躊躇っているように。
『今、ニュースを見ることはできる?』
「ニュース?」
料理に熱中していて、朝から確認していなかった。
新しいニュースを確認すると、その画面にヒスイは愕然とした。
「院長! どういうことだ……なんで、イロハが…」
そこに映されたのは丁度少し前に起きた“誘拐”の記事。そして攫われたのは、高校生くらいの少女とイロハだった。
『……現状、警察に捜索を依頼したが、あちらは時間がかかると思う』
その語りは淡々としていて、隙がない。
ただ事実を、ありのままに話す。
『……そういう訳だ、一応言っておくが君のせいではないよ。治癒院は特殊な立ち位置でね、他との協力関係が弱い。もし権限があれば、彼女の自由を束縛することになろうとも監視をつけさせていた……』
感情を見せず、最後に感謝の言葉だけを口にした。
『君には感謝している。彼女を人間として扱っていてくれたことを。私たちのような人間には与えられない心を、ね。』
「待ってくれ!」
通話を切ろうとする院長を止めて、ヒスイは怒りを押し殺して話す。
「……僕も手伝わせてくれ。コハクには及ばないが調査を手伝うことはできる」
『何の為に?』
それは冷徹というほど冷たい口調だった。
『どちらにしろ、彼女は傷を負うことになる。生きて帰ってきてくれるだけでも希望があるかもしれない。それを君の一時の怒りに任せるわけにはいかない……それを許せば、彼女は何を支えにして生きればいい…?』
深い溜息が電話越しに聞こえる。
『君の善意は理解している。その立場、守護者の弟子というのも問題じゃない。君には力がある。だが、考えても見てくれ。あの子は、イロハは自分のために誰かが傷つくことを許せると思うか? それを“善意”によってだ』
「……だとしても、」
『あの子の自己犠牲は知っているだろう。あれは代替行為だ。そうすることで自身の心を守っている。だが、本当に対価もなく守られたとき……あの子の心は耐えきれない。向き合ってきた私だから分かる。ここは君の出る幕じゃない、……汚い大人が自らの尻拭いをするべきだ』
そう言って、院長は通話を切った。
「……っ!」
バァンッ! と、壁を強く叩いた。
叩いた拳が痛くてヒリヒリする。
(なんでイロハがそんな目に遭わなきゃいけないんだ。……あの子は、ただの子供だろう!)
ヒスイは自分の行いがイロハを当惑させていることを知っていた。それでも知ってほしかった。イロハは生きた“人間”で普通の“子ども”だということを。
(イロハは優しい子だ、なのに!)
あまりにも脆すぎる。彼女は自身に向けられる優しさに耐えられない。優しさを返すことで自分の存在意義を保証する、という等価交換の薄氷の上に成立している。
だから、少しずつでも受け入れることができるようにと考えていた。無力で守られるばかりの痛みを、ヒスイは知っていたから。
しばらくして落ち着いてきた頭で考える。
(助けに行かないと。……でも、俺が何とか助けることができてもイロハを苦しめることになるだろう)
もしかしたら、それは生き地獄に陥れることになるかもしれない。
(それでも……)
迷う余地はない。
今行動しなければ後悔する。
(それに未来を恐れてイロハの助かる術を離したら、もう一度会えるかなんて、誰にもわからない)
ヒスイは剣を手に道場を出る。
何が待ち受けていようと、“今”のイロハを救うために。




