疑者問答
その男は部屋の正面に置かれた机に静かに座していた。ノックの音を聞くと、「入れ」と重低感のある声が響くとその部屋に一人の少女が招き入れられた。
「ようこそ。ノエル君から話は聞いている。こんな朝早くに来てもらったところ申し訳ないが、早速本題に入ろう。シェイラ君、君は私に何を聞きたい?」
ブリューゲルは温度感のない瞳でシェイラを見つめている。その威圧感や存在感が、シェイラに緊張の負荷をかけるが、シェイラは一歩踏み出した。
「私は、…私たちは、生きるだけでも精一杯です。法は平等だって、世間の人は言います。でも、それが守ってくれないときは、法なんてあっても仕方がないって私は思います。それでも、その時に刃を振りかざすことをどうして責められなければならないんですか?」
シェイラの切なる視線を受けて、ブリューゲルは静かに口を開いた。
「法の本質は秩序にある。秩序の上で誰もが平穏に暮らすことを保障できるように。ゆえに、暴力を認めることはない。だが、対立がなくなることもない。そして、立場が弱い側は従わざる負えないことがある。そこがおそらく現状における法の限界だ」
シェイラはそれを認めた事実に驚きながらも、すぐに我に返って話を続けた。
「なら、どうしてそれを信じなければならないんですか? 不完全なものなのに」
ブリューゲルは窓の外に広がる街を眺めながら呟く。
「もし法が誰もを救うものだと期待しているのなら、少なくともこの都市においては申し訳ないが難しいと言わざるおえない」
外に広がるのは天まで伸びていくビル群。そして、その下を人々がせわしなく行き交う道路や張り巡らされたネットワークなどのインフラなど、膨大な予算が注ぎ込まれたものが窓の外に広がっている。
「この都市は多くの利害関係が絡み合って支えられている。人の権利を保障するものだけではなく、経済的な意味合いで存在するものがある。特に、この都市の運営にはそういった人々の支えも必要になってしまうというのが現状だ」
「市政は市長だけに委ねられているものではなく、議会の中でそれぞれの利益を守ろうとする場でもある。また、都市の黎明期にはそれぞれが独自で都市を発展させてきた歴史もある。そういった都合上、一つの理念によって法を制定することが難しい」
ブリューゲルはそこで言葉を区切り、シェイラへと向き直る。
「ここまで言うと市民は無力だと誤解してしまうかもしれない。何も、一部の人間だけが議会の意思決定を独占しているわけでもない。加えて、社会を支えているのは市民のほうだ。今は市民の間で容易に情報が共有される。大多数の意識を変えることができたのなら、社会はそれを受け入れる」
ブリューゲルはそう口にしつつも、シェイラが納得していない様子を見ていた。
「でも、私たちの意見は…くだらないものだと切り捨てられました。それは、私たちに力がないからですか?」
シェイラの言葉に、ブリューゲルは何かを思案するように目を閉じて、少しのあいだ沈黙した。
「……そんなことはない。少なくとも、君たちの意見も天秤に乗せる価値があるだろう。だが、一つだけ誤解のないように。裁定官の仕事は罰することではない。そのあり方は、正義とは言えないかもしれない」
シェイラは静かにブリューゲルの話を聞いた。
「世の摂理と違い、人の世は常に揺れ動くものだ。絶対というものがない以上、いつかは抑圧する力も失われていく。時代は移り変わる。ゆえに、最後まで人に対する善意を手放さなければ、理不尽なこともいずれなくなるだろう。それに、どれほど長い時間がかかったとしても」
それでも、現状が苦しいことに変わりはない。
その現実をシェイラは感じていた。
「人にとって住める場所はここしかない以上、この都市の秩序に従ってもらわざるおえない。だが、約束しよう。人の法は不完全だからこそ、更新をする余地がある。裁定官はどちらにも肩入れすることはできないが、都市で多くの者が安寧を享受するためだ」
そう、結局シェイラたちにはこの都市しか行き場がない。理不尽が蔓延っていても、ここしかない。
「じゃあ…私たちはどうすれば良いんですか? 誰に助けを求めれば良いんですか? 結局、自分たちで抗う以外に……法のせいにしたところで、誰も守れないのに」
問題が解決されるまで我慢するしかないのだろうか。
「もし君たちがこの都市の運営を不満に思い自治を望むのなら、それを否定はしない。ただ、その代償が血でないことを望む。命だけは、どんな対価でも釣り合いが取れない」
もし、あの時ヒスイに刃を振りかざすことができていればどうなっていたのか。殺して、殺される。それが本当にみんなが求めている結末なのか、シェイラには分からなくなっていた。
「疲れたならしばらく休むといい。私は仕事に戻らせてもらおう。ここに機密文書のようなものはないから、好きに使ってくれて構わない。短い間であったが、この時間が君にとって有意義なものであることを願う」
そう言って、ブリューゲルは部屋から出ていった。




