無我煩悶
「勝手に動いたら殺すから」
コハクはシェイラが不用意に動く前に、そう警告した。シェイラの手からナイフを落とし、ゆっくりとヒスイの上から下りるように促した。
「言いなさい。アンタに命令したのは誰で、何の目的でヒスイを狙ったのか」
その声は驚くほど落ち着いていた。
(そんなこと言うわけ…)
シェイラがそう思ったほんの一瞬、首が切断されるような錯覚を覚えた。
目の前の人物が、本気でそれを行おうとしていることを、シェイラは身を持って直感した。膝ががくがくと震えて、冷や汗が止まらない。呼吸が乱れて、心臓が悲鳴を上げる。
「っ、言えない! 絶対に、言わない!」
「…」
それでも、自分がどうなろうと、それだけは口にできない。シェイラは、目を瞑った。それだけが、彼女にできることだった。
「そう。別に言わなくても、口を割らせる方法なんていくらでもあるのよ。例えば、“記憶を読み取る”とか」
けれど、その声は残酷なまでにシェイラの心を追い詰める。それを見て、ヒスイが慌てて割って入った。
「コハク、その辺に──」
「自分が殺されそうだったのに、庇うの? 本当に…」
コハクが視線をヒスイに向けた隙を見計らって、キマイラに体当たりをさせてシェイラは抜け出そうとした。
「その程度で逃がすとでも?」
「痛っ…!」
鞘でキマイラを壁に叩きつけ、コハクは容赦なくシェイラを床に組み伏せた。
「はぁ…、一つだけ言っておくわ。ここにアンタみたいな素人を寄越してる時点で、この任務に価値はない」
「──ッ、これは私が選んだの!」
「でも、周囲は止めなかった。もしかしたら……アンタも捨て駒でしかなかったのかもしれないわね?」
「違う、違うっ! 絶対に、首領はそんな人じゃないっ!」
シェイラは必死で藻掻くが、コハクは簡単に抵抗を抑え込んでいた。
「なら、どうしてこんなにもおざなりなの? 本気なら、こんないい加減なはずはない。武器だって、ナイフ一本。それ以外には何も教えられていないんでしょ? でなければ、アタシを考慮にいれるはずよ」
コハクは何処までも冷たく、冷徹な目でシェイラを見つめていた。ついに、シェイラは抵抗を諦めて流れ落ちる涙を堪らえようとしている。
「……只の子どもね」
コハクは興味を失ったのか、視線をヒスイへと向けた。
「この子は警察にでも保護してもらえばいい。文句ある?」
「…コハク。俺は何が起きたのかまだよく分かっていないし、さっきのことを責めることもできない。ただ、シェイラはイロハの友達で、俺とも多少交流もあった。今夜くらいは、時間をあげたい」
「甘いけど…そのくらいならね。ただ、部屋からは出られないように術をかけておく」
ヒスイが頷いたのを見て、コハクはシェイラとキマイラを部屋へ連れて行った。
*
堪らえようとしても、零れ落ちる涙が止まる気配はない。けれど、それを流させているのは怒りでも悲しみでもなくもっと奥底にある寂しさや不安だった。
(いつも、首領は私を側においてくれた…。いろんなものをくれたし、いろんなことを教えてくれた……血もつながってないのに)
それは血が繋がっていなくても、愛してくれているからだとシェイラは思っていた。世の中は厳しくても、そんなふうに助け合う絆といった…そういった繋がりを。
しかし、それは本当に確かなものなのだろうか?
それを疑ってしまった瞬間から、シェイラの心を支配したのは耐えられない不安だった。
戻りたい、早く帰りたい。
けれど、そこに自分の居場所はあるのだろうか?
心は焦燥感を生み、いいようのない気持ち悪さから吐き気がこみ上げる。視界がふらふらして、それでも意識だけはくっきりと浮かび上がる。
考えたくない、やだ!
そう思っても、思考が止まることはない。
身体を丸めて、震えを抑えても、それから逃れることはできない。
だから、考えを変えることにした。
それなら、私以外が首領の隣にいたら?
(……私なんかより、ずっと愛想があって、普通に生きようとして、明るくて…)
そう思う方が心は軽くなった。
(…少し心配をかけて、お転婆だったり…可愛い服とか、着たりして…友達と──)
『また、会いましょうね!』
そして、イロハの約束、ヒスイに向けていた笑顔も思い出した。
(結局、何もできないのなら…何もしないほうが良かった…!)
歪に形が残るくらいなら、いっそのこと粉々に砕け散ってしまう方が……ずっといい。
自分が大切な人のために、彼女の大切の人を奪おうとしたのならなおのこと。
(恨まれるくらい、嫌われてしまったほうがいい。全てを失ったほうが、もう誰も不幸にはならないから)
シェイラは心の中で祈った。
心の虚しさから湧き出す笑い声と身勝手でも自分の大事なみんなが幸せになってほしい、と願って。




