とある絵本作家と透明少女の追憶
昔々、といってもそれほど昔というほどでもない。
それはまだ都市が混乱していた時代の話。
弱き者、老人や子ども。特に身寄りのない子どもには厳しい時代だった。頼るすべもなければ、一日一日を日銭を稼いで暮らしていくしかない。靴磨きでも、花売りでも、身体が未熟な子どもにとっては僅かでも生きていくための糧だった。当時最も求められていた力仕事をする地力もないからだ。
可能性の塊だと、余裕のある時代なら言われることでも、この時代では何も持たない何もできない空の存在に過ぎない。病気に一度でも侵されれば、徐々に生きる活力が奪われていく。
崩壊した建物と剥き出しの鉄骨、翼を奪われた鳥が地面の脇で蟻たちに群がられている。身寄りのない子どもがただ生きることを許される居場所はない。
だから、日の差さない隠れた場所でひっそりと生きていくしかない。やましいことがなくても、生きるためなら卑屈な方が楽で……堂々と道を進めるのは幸福を享受できる一握りの人たちだ。
こんな弱肉強食な、自然淘汰がまかり通る世の中だった。
けれど、幸運が巡ってくることもある。
一人の少年が病床に伏せ、死を待っていた時のこと。不意に何処からか、少女の声が何処からか聞こえた。
「君、しんどそうだね。こんな廃墟で寝転がらないで、仮設キャンプに行ったほうが良いんじゃない?」
少年は最初、幻聴かと思っていた。
重い頭を動かして、周囲を確認してもその少女の姿が見えないからだ。
「あなたは、……ごほっ、妖精さん?」
「妖精? アハハ、そんな訳ないじゃん。そんな幻想的な生物が、声をかけるとでも? まあ、そう思ってもいいよ。どちらにしろ、君にとってはあまり変わらないかもしれないからね」
その声は愉快そうに笑い声をあげるが、そこにあるのが敵意ではないと少年は感じていた。
大人も子どもも生きるのに必死で、いつの間にか少しでも懐に入れようと奪い合いや暴力沙汰は日常茶飯事になっていた。或いは…今まで隠されてきたものに、直視することになったのかもしれない。
「少し待って。炊き出しを持ってきてあげるよ」
「……あ! 待って!」
少年はその少女を引き留めようとしたが、行ってしまったようだ。この場所は少年が廃墟の中でも選りすぐって寝所にした秘密基地のようなものだ。
そして、この廃墟には他にも住人がいる。
もしかしたら匂いにつられてやってくるかもしれない。少年は咳き込みながら、壁伝いに少しずつ歩き始めた。
せめて、ここよりも広い場所なら危険も少ないだろうと、一歩ずつゆっくりと廃墟の暗がりから少年は光の差す方へと歩き始めた。
どれほど時間が経ったのだろう。
足は中々進むことができず、時間がやけに長く感じていた。
なんとか、外まで歩いて出ると少女の声が聞こえる。
「風邪引いてるのに、無理してここまで来たの?」
「うん…、ここはあんまり良くないから」
当時、大人たちの間では子どもの誘拐やどうやって保護するのか、といった話が話題になっていた。
そして、少年のいる廃墟は事情のある人たちが集まって生活しているような場所でもあった。
疑われるのに、それほど格好の標的もいない。
「ふうん、別にどうでもいいことじゃないかな? 第一、うちがここに来た時点で目は付けられるよ。どうせすぐに忘れるだろうけどね」
その声はくだらない、と一蹴して気に止めない。
「視線が、怖くないの?」
あまり炊き出しの場所へは行くことがない。
あそこに行けば、様々な視線が自身へと向けられている気がするから。
その言葉を口にしたとき、姿が見えないのに少女は笑った気がした。
「視線、ね。……そうだね、もし透明人間だったら気にしたりなんかしないでしょ。好き勝手に、思うがままに選ぶことができる」
「それは空想だよ……、もしかしてお姉さんならできるの?」
「残念、それはできないんだ」
「そうなんだ…、透明人間なら気を負わずに暮らせると思ったのに」
もし透明人間になれば盗みや悪行が自身のせいだとはバレることもないだろう。
ただ、少年にとっては少し違った。
たまに同世代の子と遊んでも、時間になればその子の両親が迎えに来る。でも、別れよりも嫌だと感じたのは、あの視線だった。
相手を吟味するような目、疑うような目、憐れむような目……どれも、少年の心を惨めに思わせるには十分だった。
どちらにせよ、関わりのない子に手を差し出そうとする人なんて今までいなかった。ただ、彼らは吟味するだけなのだから。
しかし、少女は別の意見を持っているようだった。
「でも、透明人間がいいとは思わないよ」
「どうして?」
「考えてもみて、誰にも見られないってことは誰にも認められないってことだよ。実感ある? それで、この世界に生きているって感覚が」
少女は語る。英雄の物語を、人類史からこの都市の建創までに現れて名を刻んだ勇姿の足跡を。
「こういったものを、透明人間は刻むことができない。それってもったいないことだって思わない? だって、彼らは知られるべき人生を歩んできた。まさに、人の可能性そのものだよ」
少女は興奮した様子で語る。
「でも、僕らは凡人だ…。英雄でも、聖人にもなれはしない」
特別な存在ではない。秘められた力があるわけでもない。そんなこと、幼心にも分かっていた。
「だとしても、この人生を精一杯輝かせることができるはずだよ。人は、そのために生まれてきたんだから」
それは希望ばかり語る大人のように空虚に感じた。
そんな未来を、少年は思い描くことすらできなかったから。
「なんか、凄く適当なこと言ってない?」
「言ってないよ? ……そうだね、今は分からなくてもいい。人が自己実現のために生き、試練を乗り越えることで成してきたってことを。生命って、存続だけの為に生きるわけじゃないってことを」
「なんか、難しいね」
「人生なんて、苦行みたいなもの。だからこそ、足掻くことに価値がある。それが虚無へと進む道だとしてもね」
「それだと、がんばろうとも思えないよ…」
「報われないとしても、結局はどうあろうとするかだよ。今はどうあるのか、それだけは変えられないから。君も、夢を見られるといいね。絶望に負けない、何処までも魅入られる輝きを」
その時、光が少女の輪郭をなぞり、見えていなかった姿が見えた気がした。まるで夜空のベールのように美しい、その横顔とともに。
その時見上げた夜空を、満天の星々を今でも覚えている。




