極光
まるで世界に沈み込んでいくような感覚に囚われている。一体先程まで何をやっていたのか。そんな疑問とともに深くへと沈んでいく。
身体は重力の重みを感じず、ただゆらゆらとぼやけた輪郭へと手を伸ばした。それが何であるかも分からぬまま、溶けてしまいそうな意識を輝く光が包み込んだ。
*
数時間前、ヒスイはいつも通り道場で近所の子どもたちの稽古をしていた。とはいえ、子どもたちにとっては道場とは名ばかりの憩いの場だ。ヒスイが時間になるまで面倒を見て、駄菓子や多少剣術を指導しながら時間になれば迎えに来た両親を見送る。
この日も、同じように子どもたちを見送り、ある用意を始めていた。
家の中庭で剣の手入れをしていると、女性の声が上から聞こえる。
「本当に……よく、子どもたちを見て飽きないよね」
ヒスイの姉弟子・コハクが酒を手にしながら、屋根から飛び降りてきた。
「少しお酒を飲み過ぎじゃないのか?」
ヒスイはいつものように窘めつつも、それが通じないと知っている。
「アンタがアタシに一本でも取れたら言うんだね……こんくらいじゃ、ぜんぜん足らなぁい!」
ふらふらとした足取りでコハクはヒスイの隣に腰を下ろす。
「はぁ……言っておくけど、俺は飲まないよ」
「ちぇっ、いいじゃん、ちょっとくらい」
ぶーぶーと不満を訴えつつ、結局注いだ酒を自身の口に傾けた。
「今の様子を師匠が見たらどう思うか……」
「師匠は何も言わないよ。昔に師匠の饅頭を勝手に食べた時だって怒らなかったんだから」
酒の入った瓢箪をちゃぷちゃぷと音を立てて振っている。まるで暇な時に手元のものをいじる子どものように。
そんな団欒をしていると、遠くから慌てた足音が聞こえてきた。
「せっ、先生方ぁっ!」
「ん、なんかマズいことでも?」
そちらにいち早く気づいたコハクが呟くが、相手は息を切らして次の言葉を告げられずにいる。
「まずは落ち着いてくれ…」
「あっ、ああ……」
彼が息を整えると、事の次第を語りだした。
「…少し前に、俺らのチームは結界の外に出て結晶石を取りに行ってたんだ」
「こんな時間にか?」
「ほら! 結晶石は早いもん勝ちだろ? だから、誰も取りに行かないような時間に取れば、その生成されるまでの期間さえ把握すれば、独占できる!」
「……」
「…いや…もうしない。しようとも思わない! いつも通り霧の中を進んでいたら、突然見たこともないような化け物に襲われたんだ! 仲間たちは散り散りに逃げて、俺は何とかここまで逃げ延びた……お願いだ、仲間を助けてくれ!」
ヒスイは表情を険しくしながら答えた。
「君は……瘴気の脅威を分かって言っているのか? 昼間なら多少はなんとかなる。だが、この時間となると……素直に警察に出頭したほうがいい」
しかし、男は必死で縋るようにヒスイの足にしがみつく。
「待ってくれ! オレには家にお袋がいるし、仲間には待ってる家族がいる。……いや、オレのことはこの際どうでもいい、命だって賭けてもいい。でも、これがバレたらまずいんだ。やってくれるなら、なんだってする。頼む!」
ヒスイはコハクを見る。コハクは冷めた目でシスイを見ていたが、それが無駄だと分かっているからか観念したように口を開いた。
「まあ、聞いてあげるよ」
コハクはなんてことないように言う。
「本当か?」
「まあ、うちの道場には『尋ね人あれば迎え入れよ』という教えがあるから。ただ、その分の報酬は貰うし、譲歩なんてしない。どう?」
「ああ、絶対に約束する! だから、頼む!」
「おっけー、交渉成立。ほら、ヒスイ。とっとと行くよ」
*
外へと踏み出すと、そこは霧に包まれたように視界の悪いなかで地面に埋まった小さな結晶石の輝きが足元を照らす。
「さて、アタシは敵をなんとかするから、他はアンタに任せるよ」
「…無茶を頼んですまない」
ヒスイが口にすると、コハクはふっと軽く笑う。
「なんで謝るの、アンタが悪いわけじゃないんだから。どちらにしろ、あそこで手を差し伸べなきゃ、師匠の弟子失格だし?」
コハクはため息を吐いた。
「……それに、アンタは師匠の忘れ形見みたいなものよ。今でも病弱なアンタを師匠が連れ帰ってきたときのことは覚えてる。だから、人の役に立ちたいってこともね。そんな健気な弟弟子を、蔑ろにできないよ」
結晶石を使って周囲を探知すると、霧に隠された向こうも捉えて粒子が輝いて輪郭を描く。
「全員離れてかなり遠いところにいるようだ。今のところ、敵の気配はしないけど慎重にいこう」
不気味なことに恐ろしいほど静寂に満ちていた。
歩みを進めていると、足元にあった死体にぶつかる。それは瘴気によって生まれる魔物のものだった。
あたりに散らばった死体は激しい交戦の跡が窺える。それ自体は不自然というものではない。
ただ途中から別の違和感が心に宿ってくる。
「コハク」
「分かってるわよ。最初は多少強い程度の雑魚かと思ってたけど、少し違うみたい。たった一撃で仕留めてる。味方だといいけど」
二人は粉々に砕けた魔物の残骸を後に進んでいく。
暫くすると、数人が木陰に隠れた場所で倒れていたのを見つけた。
急いで駆け寄ると、息があるようだ。
「おい、意識はあるか?」
確認したなかで、一人がうなされながら頷く。
「……はやく、逃げ……化物……」
「安心してくれ、助けに来たんだ。これで全員か?」
「あ……ああ」
結晶石の力で彼らを浮かす。少し石に無理をさせているため、一人はヒスイが背負うことになった。
霧が徐々に濃くなってくる。
「大丈夫だ、きっと帰れる!」
コハクは酔いの覚めた目で周囲を警戒する。
感覚で感じ取っていた。何かが来る。
ドン、ドンと音を立てて何がが迫ってくる。
「避けて!」
コハクの言葉が聞こえた瞬間、虫のような外骨格の大きな魔物がヒスイを押し潰そうとするように頭上から落ちてきた。
咄嗟に前へ転んで回避すると、目の前で質量が地面にめり込んだ。
だが、少しでもヒスイ側に傾いてくれば簡単に押し潰されるだろう。
地面に体を打ちつけて、背負っていた男が苦悶の声を上げる。瘴気の粘りつくような空気が心を蝕む。怖い。死が目の前にある。こんな空間では人は簡単に命を失ってしまう。泡が弾けることと同じように。
風を切る音が聞こえた。
それは澄み切った綺麗な音だった。
次には目の前にいた魔物が真っ二つに分かれている。
「もう少し気を張りなさいよ、この程度で心を揺らがせない」
コハクの声が聞こえて安心したとき、彼の背後から悲鳴が聞こえた。どうやら目が覚めたようだが、様子がおかしい。
「あっぁぁぁっ!」
「暴れないでくれ! 一体どうしたんだ」
恐怖に顔面が蒼白になっている。見るも恐ろしいものを見たかのように。
「ああ、あっ、あいつが来る!」
今度はガタガタと地面が揺れる。
ヒスイとコハクは頷いて、一刻も早くこの危険地帯を越えようと走り始めた。それと同時に、何処からか多くの魔物が群れをなしてこちらへと迫ってくる。
「ワタシが殿を務める」
こちらに向かってくるものだけを仕留めながら、コハクは霧の奥から迫ってくる存在に意識を向ける。
一方で、ヒスイは人を抱えて全力で走っていた。自信の持てる走力を使って、背後から追いつかれないように。
「後少しだ!」
その時、背後から何かがヒスイの横を通り抜けた。
「コハク!」
「くっ…」
口から血が滲み、重い一撃を受けた体をよろよろと上げる。
「なに、してんの! 早く行きなさいっ!」
コハクが結晶石で鍛えられた剣に力を込めると、剣が輝きを宿し始める。その壮烈な輝きはそれほどまで切迫していることを訴えていた。
一閃、振るわれた剣は前方のあらゆる障害を切り裂く。
しかし、それはさらに荒々しい何倍もの威力の暴風となってこちらに襲いかかる。
それに吹き飛ばされ、都市との境界付近で何度も地面に体を打ちつけた。無力なほど、圧倒的で無慈悲な力によって。
「ま、だっ…」
ついにコハクさえも立ち上がれないほど力尽きた状態になった。先程の攻撃によって、数人を浮かせていた結晶石も砕け、このまま向かってくるのであれば逃げることもできない。
「ふざけないで…アタシは許さないっ、絶対に!」
地面に爪を立てて、コハクは憎しみを込めた目で霧の向こうを見つめる。ただ一直線に、敵を見据えて。
「ぐっ…」
ヒスイはなんとか体を起こすことができた。だが、自身の剣術ではどうすることもできないと知っている。だが、諦めることなどできるだろうか。
(師匠っ!)
心の中で、あの人の背中を思い出す。人類の“守護者”として、全てを捧げたあの人を。心から善を信じ、為してきたあの人を。
死が直前に迫っていると感じる。霧の奥から何ががこちらへと向かってくる。それがここに振り下ろされたとき、命は簡単に糸を切られる。それが不可逆で、戻らないことを知っている。
(師匠も、こんな気持ちだったのかな…)
常に前に立ち、生きる道を説き、それに一度も背くことはなく、ただその背中だけを見ていた。ヒスイは目の前の脅威に直面したとき、足が竦んだ。人の矮小さを感じた。それでも。
(あの一撃を耐える方法はある。その後は……分からないけど)
心臓に力を注ぎ込む、鼓動がどんどん速くなる。それは師匠からの贈り物。そして結晶石で作られた心臓だ。
「やめて、アンタまで!」
(…後悔はしない、後悔はしない! 拾われた自分の命だ、誰かが助かるときに使わないでいつ使う!)
ドクンッ
一層力を込めた輝きは激しい光を放って周囲を包み込む。
(この選択に後悔はしない、もう誰かを失うなんて、もう嫌なんだ!)
光が霧を払ってその奥にいる何かがシルエットになって浮かび上がる。それは見たこともないほど強大で、この方法でも致命傷を負わせることができない。
そしてその脅威はこれからも存在し続ける。
「ああああああっぁぁぁっ!!!!」
師匠の善意すら残されたのは一部しか残っていない。もしかしたら、これもすぐに消えてしまう儚い波紋に過ぎないのかもしれない。
けれど、それでもいい。みんなが助かるのなら。
これがコハクを巻き込んでしまった自身の弱さだというなら、せめてその選択の責任を背負わなければならない。
叫び声とともに極光が影を押し返しているのが見えた。
そして光りに包まれた世界が、徐々に霧散していく。
*
まるで世界に沈み込んでいくような感覚に囚われている。一体先程まで何をやっていたのか。そんな疑問とともに深くへと沈んでいく。
身体は重力の重みを感じず、ただゆらゆらとぼやけた輪郭へと手を伸ばした。それが何であるかも分からぬまま、溶けてしまいそうな意識を輝く光が包み込んだ。
『本当に、ばかな子だ』
師匠の声が聞こえた。それは幼い日の光景。
『お前たちには平凡な日常を渡してやりたかった』
多くの弟子が十年前の厄災でいなくなり、残されたのは二人だけ。だから、思い入れも強かったのだろう。彼女は優しく声をかける。
『だが、心はお前に剣を握る力を与えた。例え、この先が茨の道だとしても進むというなら…』
その最後の言葉は記憶に刻まれている。
「『最後までその道を貫け、それが剣を振るう理由ならば』」
心臓に一つの手が重ねられる。
『心と力を制御できれば、きっと歩む力になる』
*
現実へと意識が戻ったが、相手の一撃を退けてもなお心臓は暴走したかのように脈打ち、その輝きを緩めない。
溢れる力を留められず、声が言葉にならない。
このまま力が流出し続ければどうなるだろうか。
ただ放出するだけで済むのならまだいいかもしれない。しかし、それがふとした拍子に暴発することになれば、この周囲に大きなクレーターができる。
(師匠は言っていたはずだ。心を鎮めろ、と)
だが、こんな状況で鎮められるものだろうか。
それどころか、霧の向こうからもう一度あの強大な存在が迫りくる。もし結界に隙を作ってしまったら、あの存在が内側で暴れるのだろう。
(失敗は許されない)
「──本当に、アンタってやつは!」
コハクの手が背中を支える。その手を伝って、輪郭を整えるように力がはっきりと鮮明になる。
「力の方はアタシが制御してあげる。この奔流自体はどうすることもできないかもしれないけどっ、目の前にいるでしょ。おあつらえ向きの的が!」
それはゆっくりと緩慢ながらもこちらへと向かっている。
鼓動は早打ち、雑念ばかりが湧いてくる。自分の命を投げ捨てれば終わりだなんて甘えは許されない。
光が収束して迫りくる強大な力と拮抗し始めた。徐々に光が影を呑み込み、押し返す。
「「はぁぁぁぁっ!」」
二人の声が重なり、光が消えた後にはあの強大な存在感も消えていた。
*
あの時に救出した人々を送り出し、コハクが以来人にぶんだくれるだけ報酬を要求した後、いつもどおりの日常が戻ってきた。
コハクは傷を負いながらも、すぐに回復して今ではまた酒を飲みながら広がる星空を屋根の上で見つめている。
「……どうしたの? 珍しいこともあるのね、アンタが上がってくるなんて。師匠に「いつになったら大人しくなるのだ」って怒られるだろうね」
けれど、その目は冴えているようで、それを誤魔化すように酒を飲む。
「…師匠なら、口では言いつつもとがめないはずだ」
「そうだね、あの人はそういう人。空気のように軽い人……誰かが仙人みたいだって言ってたけど、師匠は確かに自然と現れてさらりと真理を口にしては去っていくような人だから」
懐かしむようにコハクは酒を口にする。
「師匠がいない日常に慣れて、あの人が守った世界でずっと生きてる。世界は相変わらず、アタシも変わらないまま」
「……」
月は空高く静かに輝いている。
「アタシたちはあの人に誇れる? 胸を張って会える? あの人を犠牲にして作られた日常はこんなにも……こんな世界が正しいだなんて、アタシは認めない」
全ては暗い夜に紛れる。
今日の言葉もそうやって消えていく。
しかし、消えない炎も暗闇に秘められている。




