第六章 因果の影
一 裂けた顔、裂けた日々
その夜、いつものように両親の喧嘩が始まった。
母・香代子は怒りに震えて甲高く叫ぶ。
父・敏光は見苦しい言い訳を重ねていた。
家政婦の田島絵里との関係が明るみに出てからこの家には笑い声というものが消えて毎日のように怒号が飛んでいる。
由美は両親の争いを止めようとしていた。
日々激しく罵り合う喧嘩がその日は益々エスカレートして常軌を逸していた。
由美はその危険性を察知して喧嘩を止めに入ったのだ。
「やめてっ……もうやめてよ!」
香代子が皿を敏光に投げつけてその皿は彼の背後の壁に当たって砕けた。
敏光はカッと怒りで顔を真っ赤にして妻を殴ろうと拳を振り上げる。
「いい加減にしてっ!!」
由美が2人の間に飛び込んだ瞬間に父の振り下ろした拳が由美の肩に激しくぶつかる。
由美は大きくバランスを崩して豪奢な本棚に頭から突っ込むように倒れた。
本棚のガラス扉がパリンと大きな音を立てて割れる。
その破片が由美の頬に深く刺さり鮮血が流れた。
「熱い……!」
由美は思わず右手で頬を覆う。
その指の間から血が流れ落ちる。
「由美!!」
「由美ちゃんっ!!」
両親は驚いて由美に駆け寄る。
由美の左のこめかみから頬を縦に裂くように長い切り傷が出来ていた。
悲鳴を上げる母。
驚いた父は、一瞬だけ由美に手を伸ばしたがその手が由美に触れることはなかった。
「お、俺のせいじゃないぞ……!」
敏光は震える声でそう叫ぶと逃げるように家を飛び出した。
残されたのは、泣き崩れる母と、
血に濡れる自分の手を見て呆然とする由美だった。
鏡を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。
美しいと呼ばれ続けてきた顔が血で染まっている。
その中に深く刻まれた傷が肉の内側の繊維を露わにしていた。
一瞬で壊された現実を、どう受け止めていいか由美はわからない。
なぜこんな事がと戸惑うばかりで涙も出ない。
母の香代子はすぐに救急車を呼び娘の血を止めようと奮闘していたが救急車を呼ぶことにようやく気がついて電話を入れる。
由美はすぐに救急車で病院に運ばれた。
だが医者にはその傷が残ることを宣言された。
由美の皮膚の体質によるもので一生残る傷だと説明される。
母はその場で泣き崩れた。
由美はただただ残酷な現実を受け止めるしかなかった。
父はあれから家には戻ってこない。
電話で父と言い合いをしている母を何度か見ただけだった。
そんな父を由美はどうでも良いと思っていた。
娘を傷物にした責任から逃げた男などに興味はない。
包帯が取れて鏡を見る由美は思わす薄笑いを浮かべた。
頬には痛々しい傷が残っている。
これでは誰も自分を綺麗だと言ってくれないだろう。
(ああ……これが、報いなのね)
あの日、健ちゃんを追い出したあの瞬間ーー
自分の中の何かが壊れた音を、ようやく理解した気がした。
二 崩壊のあと
父は離婚を望んだ。
新聞には、母の政治活動をめぐる不祥事と、
父の不倫が取り沙汰される記事が並んだ。
「もう終わりね……」
母はその言葉を何度も繰り返す。
家庭崩壊した政治家に世論は厳しかった。
家は売られ、残ったのは少しの貯金と世間の冷たい目だけ。
母は議員を辞め、
「元市議」としてスーパーのレジに立つようになった。
一方の由美は高校では不登校となり外出を避けるようになった。
安い県営住宅の一室に引きこもりスマホでネットを見る毎日。
SNSには参加しないで他人の書き込みを眺めるだけである。
そこに興味も感激もない。感情を失った心には何も映らなかった。
暇を潰すだけの空虚な時間が流れるだけ。
それでもーー
鏡を見るたびに健一の失われた瞳の事だけは思い出していた。
(私のせいで、健ちゃんは光を失った。
そして今、私は顔と心を失った。
これはきっと、地蔵が私に見せた“真実”なんだ)
三 母と娘
夕暮れ、狭い台所で母が洗い物をしていた。
赤く荒れた手、疲れた背中。
かつて市民の前で堂々と演説していた人の姿は、もうどこにもなかった。
「由美……少しは外に出たら?」
「いいの。出ても誰も見たくない」
「そんなこと言わないで」
「お母さんこそ……どうしてあの人を許したの?」
由美は父さんと呼ばなくなった人を憎んでいた。
あの人を助けようと思いさえしなかったら……
健ちゃんも……私も……
そんなドス黒い後悔を拭い去ることは出来なかった。
母は黙って目を伏せる。
そして小さく呟いた。
「憎んでる間は、前に進めないのよ……悔しいけどね……」
由美は答えられなかった。
母の言葉の中には、どこか“許すことへの諦め”があった。
その諦めが、哀しいほど現実的だった。
由美もそれは知っていた。
憎んでも元には戻らない。
酷い現実だと由美は冷笑を浮かべるしかなかった。
四 沈黙の部屋
夜になると、由美は古いオルゴールを鳴らした。
健一が子供の頃にくれた小さな玩具だ。
蓋を開けると、かすれた音で「ふるさと」が流れる。
その旋律を聴くたびに、
あの夏の庭が浮かぶ。
泥だらけの健ちゃんの笑顔、
スイカの種を吐き出して笑い合った日。
(あの頃は、すべてが光だった)
目を閉じると、暗闇の中に色が広がる。
緑の草、金色の陽射し、そして少年の笑顔。
それが今の由美にとって、
唯一の“生きる光”になっていた。
五 光と影の帰結
母が眠ったあと、由美は机に向かい、
小さなノートを開いた。
そこには震える字でこう書かれていた。
> 「あの人は別れの日、目を失っても前を見ていた。
> 私は、目が見えるのに過去に縛られ続けている。
その一文のあとに、ゆっくりとペンを置いた。
窓の外では、遠くで夜風が鳴っている。
由美はカーテンを少し開けて、
星の光を頬の傷に受けた。
(健ちゃん……あなたは今、どこで何をしているの?)
涙が頬を伝い、
その一滴が傷の上を静かに滑った。
それは痛みではなく、
どこか清らかな感覚だった。
――願いを叶えたのは地蔵ではない。
――その代償を選んだのは、自分自身。
由美はようやく理解した。
幸福も不幸も、人の心が作るものなのだと。
彼女の口元に、ほんのわずかな微笑が浮かんだ。
それは、長い長い夜の終わりを告げるような微笑だった。




