第五章 見えざる光
一 暗闇の学び舎
盲学校の校庭には、春の匂いが満ちていた。
桜の花びらが舞い落ちる音を、健一は肌で感じる。
その音が、光の代わりに世界を照らしているようだった。
彼がこの学校に通い始めて半年が経つ。
初めの頃は、すべてが恐ろしかった。
白杖の扱い方も、点字も、音の方向さえ掴めない日々。
けれど今は、耳を澄ませば風の形がわかる。
声の響きで相手の距離もわかるようになった。
「慣れたようだな、健一くん」
声をかけたのは、盲学校で長年用務員として働く老人’’山ノ井’’(やまのい)。
白髪に穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「まだまだですよ。怖くて、時々足が止まります」
「怖くていい。怖いと思えるうちは、ちゃんと世界を感じてる証拠だ」
老人の声は柔らかく、まるで土の匂いを含んでいるようだった。
二 光を知らぬ者
休み時間、健一はベンチに座って風を感じていた。
山ノ井が隣に腰を下ろし、静かに言った。
「わしはな、生まれたときから何も見えんのだよ」
「……そうなんですか」
「そう。だから、“見えない”ことを悲しいと思ったことはない」
「でも……見える人たちを羨ましいとは?」
「羨ましいさ。ただ、羨ましいだけだ。悲しくはない」
健一は黙り込んだ。
風の向こうで、子どもたちの笑い声が響いている。
「君は、見えていたんだろう?」
「はい。……少し前まで」
「じゃあ、覚えておるだろう。君が愛した人の顔も、空の色も」
健一の胸に痛みが走った。
「ええ……全部、覚えてます。あの人の笑顔も、涙も。
それがあるから、生きてる気がするんです」
老人は頷いた。
「それは幸福だな。見えた記憶を持つ者だけの特権だ。
わしらには、想像するしかできん」
健一は静かに微笑んだ。
「……そうですね。
僕は、あの人を思い出す時、色が浮かびます。
それだけで、光がある気がするんです」
山ノ井はゆっくりと息を吐いた。
「君の中には、ちゃんと“光”が残っとるんだな。
目に見えぬ光は、誰よりも強いもんだよ」
三 沈黙の夜
夜、寄宿舎の部屋で健一は独り、布団の上で目を閉じた。
闇は深く、静かだった。
しかし、その中には音が満ちていた。
外を走る車、遠くの犬の鳴き声、風が窓を叩く音。
“世界は、音で呼吸している”
そう思うと、不思議な安堵が胸に広がった。
(由美……)
思い出すのは、あの夏の庭。
蝉の声、スイカの匂い、小さな指を重ねた約束。
“俺が守るから”と笑った自分の声が、遠くで響く。
守れたのか。
あの約束は、果たせたのか。
だが同時に思う。
もしあの時、彼女の父を救えなかったら、彼女はもっと苦しんだだろう。
そう考えると、不思議と悔いはなかった。
「失ったものの中にも、意味があるんだな」
健一は呟き、眠りに落ちた。
その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
四 見えぬ未来のために
それから健一は、点字と音声の勉強を始めた。
録音テープを使い、子どもたちに本を読み聞かせるボランティアに参加するようになった。
声のトーンを工夫し、登場人物の感情を声だけで伝える。
その時間が、彼に新しい“世界”を与えてくれた。
山ノ井が笑った。
「ほう、君の声は不思議だ。聞くだけで景色が見える」
「見えない僕に、そんなこと言ってくれるなんて……」
「見えない者だからこそ、声に世界を宿せるんだ」
健一はその言葉を胸に刻んだ。
失明して初めて、自分に“できること”があると感じた瞬間だった。
五 光の記憶
春の午後、校庭で山ノ井と並んで風を受けた。
「健一くん、君の心にはまだ光があるか?」
「ええ。見えないけど、感じます」
「それで十分だ」
風が吹き抜け、桜の花びらが頬に触れた。
健一はその柔らかさを感じながら、
あの頃の由美の笑顔を思い出した。
(由美……君がどんな場所にいても、
僕はこの闇の中で、君を照らす光を見つけてみせる)
その思いが、静かに胸の奥で燃えた。
もはや“哀しみ”ではなく、“生きる誓い”として。
――見えぬ世界にも、確かに光はある。
健一は白杖を握り、ゆっくりと歩き出した。
その足取りは、迷いのない、未来への歩みだった。




