第三章 沈む陽の彼方に
一 壊れた日常
父・敏光は奇跡的に回復した。
退院後は穏やかに過ごし、新聞を読み散歩まで出来るようになった。
だが、その陰で――健一の世界は完全な暗闇になっていた。
失明してからは当然学業を続ける事も出来なくなり学校も自主退学となった。
晴子が手を引き、近所を歩く健一の姿を由美は何度も見かけた。
けれど声をかけることは到底できずに逃げるようにその場から立ち去るばかりだった。
(私のせいだ……)
由美は何度もそう自分に叫んだ。
足がふらついて何度も躓きそうになる。
酷い自己嫌悪と罪悪感。
だがそれとは別の感情も確かに生まれていた。
(この現実を一生背負うなんて、私にはできない)
(目の見えない健ちゃんの人生を……ずっと……)
健一の手を引く春子の姿が由美と重なる。
自分にはあのような献身的な生活に耐えられるだろうか。
由美はそう考えると余計に自分の醜い一面を思い知る。
( 出来ない…… )
その感情を自覚するたびに胸が締め付けられるような痛みを感じた。
罪悪感と責任の重さで、由美はそれからも枕を濡らす日々が続くことになった。
1人で背負うには苦しすぎる。
由美は生まれて初めて自分の無力さを感じていた。
そしてある日、由美はとうとうその胸の苦しみに耐えきれずに誰かに打ち明けようと
思い立つ。
由美の脳裏に浮かぶ顔は母の秘書である青年・加納であった。
二 青年の影
加納は二十代半ば、整った顔立ちで知的な雰囲気を漂わせていた。
母の秘書として冷静沈着に仕事をこなす一方、
誰よりも柔らかい物腰で人の心を見抜く鋭敏さも併せ持っていた。
そんな自信家で有能な加納を母はよく褒めていたのを由美は覚えていた。
心が弱っていた由美は加納が自宅に訪れていた時に思い切って相談したのである。
「そんなに自分を責める必要はないですよ、由美さん」
「でも、健ちゃんは……私のために目を……」
「それは彼が自ら選んだことです。あなたが責任を負うものではない」
加納の言葉は冷静で理性的だった。
無間地蔵という荒唐無稽な由美の話にも真剣な表情で耳を傾けた。
その冷静な大人の対応が由美の心にするりと入り込む。
加納の言葉は弱りきっていた由美の心にオアシスの水のように注がれていく。
「でも、彼は……お母さんと一緒に働いてる。毎日顔を合わせるのがつらいの」
加納は少し間を置いてから、静かに言った。
「なら、距離を置くべきです。あなたが苦しんでいても、彼のためにはなりません」
由美は涙をこらえた。
(そうかも……距離を置けば、少しはお互いが楽になるのかもしれない……)
だが、その提案が由美にとっては取り返しのつかない結果を生むことになる。
三 別離
数日後、春子と健一は屋敷を去ることになった。
理由は「人員整理」として告げられた。
だが由美にはわかっていた。
加納が母に“提案”したのだ。
引っ越しの日、由美は玄関の影から二人を見送った。
春子は泣きながら頭を下げ、健一は白杖を持って立っていた。
その表情には悲壮さはない。背筋を伸ばし真っ直ぐに前を向いていた。
健一は顔を上げて笑顔で言葉を告げた。
「ゆみちゃん……元気でな!」
その言葉に恨みや怒りはない。
最近では聞いたことがないほどよく通る声だった。
健一の別離の言葉は由美の心に深く突き刺さる。
(健ちゃん……っ!)
思わず両膝が崩れる。
由美には答えられない。息が詰まり喉が塞がれたように声が出なかった。
声を出せば健一たちを引き留められかもしれないのに。
由美は健一と離れるのをどこかで望んでいる自分に気づいていた。
だから声が出ない。
懺悔の涙だけが流れるだけだった。
2人を乗せた車が遠ざかる。
その瞬間、由美の胸に相反する感情が湧き上がった。
・・・悲しみと、解放。虚しさと自己嫌悪。
健一との離別、そしてそれは彼への負い目との決別でもあった。
その感情の矛先が彼女自身への”嫌悪”へと変わっていくのにそれほどの時間は要らなかった。
「……私は汚い……」
思わず口から漏れ出た言葉は呪いのように心に残る。




