第二章 光を失う夜
一 願いの祈り
それは突然の不幸だった。
由美の父・敏光の病室は夜の静寂に包まれている。
白い蛍光灯が淡く光り、点滴の滴る音が一定のリズムで響く。
由美はその音を数えながら、冷たくなりつつある父の手を握っていた。
医師は「今夜が峠だ」と言った。
母の香代子は涙を隠して選挙区の会合へ向かい、
病室には由美ひとりだけが残された。
「お父さん、お願い……行かないで……」
声は震え、喉が焼けつくほど痛かった。
だが、返ってくるのは呼吸器の機械音だけ。
「なんでこんな体になるまで仕事をしていたのよ……」
敏光は最後の力で呟く
「……すまない……」
敏光も寂しかったのである。
妻はいつも選挙で忙しい身だ。
それは医師として忙しい自分が妻に勧めた議員の仕事でもある。
2人の時間を過ごそうと望むのは自分の我儘だと思った。
だから敏光は益々仕事に没頭した。
それが医者の不養生に繋がるとは苦笑するしかない。
定期検診の後に発生した腫瘍がこんな短期間に広がるとは思いもしなかった。
すでに由美を見る視界も奪われている。
自分の死が間近に来ているのを感じていた。
その時、扉の外で足音がした。
振り向くと、健一が立っていた。
彼の手には、古びた木箱と――
黒く焼け焦げた小さな地蔵像が握られていた。
「健ちゃん……どうしてここに」
「由美が泣いてる気がしたんだ」
健一の声は静かで、どこか遠くを見つめるようだった。
「これ、覚えてる? 無間地蔵……」
「おばあちゃんの遺品なんだ」
由美の胸に、幼い日の記憶が蘇る。
『困った人を助けてくれる。でも、代わりに何かを取られる』――あの夜の声。恐怖に震えた記憶。
「そんなの……ただの昔話よ!」
「違う。俺は、信じてる。……だから願った。由美のお父さんを助けてくださいって」
由美は立ち上がり、健一の腕を掴んだ。
「やめて! そんなこと――!」
その瞬間、病室の灯りがふっと消えた。
次の瞬間、眩い閃光が走る。
思わず由美は頭を抑えてしゃがみ込んだ。
「何、今の……雷……っ!?」
それは一瞬の出来事だった。
病室の照明は通常の明るさに戻っていった。
「お父さんっ!!」
由美は父親の医療機械が止まっているかと心配になって確かめる。
だがそこで不思議なことが起きていた。
電気の唸る音と共に、モニターの数値が緩やかに安定していく。
父の力強い呼吸音が由美の耳にも届いた。
慌てた看護師が病室に駆け込み、驚きの声を上げる。
「まさか……脈が戻ってる!」
看護師が驚いた表情で正常値を示す脈拍計を何度も確かめる。
病室には担当の医師も駆け込んできた。
医師は敏光の体を入念に調べて息を大きく吐き出した。
「奇跡だ……。」
そう言って由美の方に振り向く。
「お父さんはどうやら峠を乗り越えたよ。」
由美の目が大きく見開いて瞬きをする。
「それじゃお父さんは……!?」
「ああ、まだ経過を見ないといけないが回復に向かっている。」
由美は父の手を握りしめ、涙をこぼした。
「お父さん……良かった……お父さん……っ!」
父もしっかりと由美を見つめて頷く。
「由美……由美……っ」
だがその背後で、健一がゆっくりと膝をついて四つん這いになっていた。
その手のひらは床を弄るように触っていた。
彼は立っていられずに床の位置を確かめていたのだ。
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二 暗闇の中の声
「健ちゃん……?」
由美が振り返ると、健一の顔が蒼白だった。
その瞳は――焦点を結んでいない。
「……ゆみ、そこにいるのか?」
「え?」
「声は聞こえる。でも、見えないんだ……何もっ……!」
由美の心臓が強く跳ねた。
「え……? 見えないって……どういうこと!?」
健一は手探りで宙をなぞるように腕を動かした。
その手は由美の居場所を探しているようだった。
その仕草が、由美の目にはあまりに痛々しかった。
健一の幼い日の元気な笑顔が由美の脳裏に浮かんですぐに消えた。
無間地蔵の願いの代償が脳裏を襲う。
……健ちゃんが……目を失った……!?
「俺……何もいらないって思った。ただ、由美のお父さんが助かればって……」
「健ちゃん……なんてことをっ……!!」
由美は叫び、健一の肩を抱いた。
涙が止まらなかった。
「どうして……どうしてなのっ 本当にこんなことが……っ!」
「あの地蔵は作り話だったんじゃないの……っ!?」
健一は由美の手を強く握り返した。
「おばあちゃんの遺言は本当だったんだ……」
「あはは……まいったな……」
「でも約束しただろ。俺が守るって……だからさ……」
「これで良かったんだ……良かった……」
健一は由美に微笑もうとしたがその笑みは酷くひきつって歪んでいく。
彼は目が見えないショックで体が絶え間なく震えていた。
目からは涙がとめどもなく流れていく。
由美はその健一の絶望に泣き笑う姿に驚愕し泣き崩れる。
「ーーー健ちゃんーーーっ!!」
由美は健一の服を両手で掴んで彼の胸に顔を埋めた。
ー父の病魔を断つー
それは救いではなく、由美にとっては”償いの始まり”となった。




