第一章 約束の声
一 ふたりの幼い日々
川崎由美は生まれながらにして恵まれた子どもだった。
白い塀に囲まれた大きな家、外科医の父、敏光、そして市議の母、香代子。
玄関の先には磨かれた大理石の床が続き、階段の手すりには真鍮の光が走っていた。
だが、その家の中で由美の時間を満たしていたのは、両親ではなかった。
それはお手伝いの春子と、その息子の健一だった。
春子親子は由美の家に隣接したアパートで生活をしていた。
健一は、由美と同じ年。
小柄で髪が少し癖っぽく、いつも袖のほつれたシャツを着ていた。
けれど、目だけは不思議なほど澄んでいて、何かを守ろうとするような真剣さがあった。
春子が掃除をしている間、由美と健一は庭で泥団子を作ったり、桜の木の下で絵本を読み合ったりして過ごした。
高価なおもちゃよりも、空き箱と石ころの方が楽しかった。
「ゆみちゃん、こっちにおいで!」
健一が虫網を振りかざし、金色の蝶を追いかける。
由美は笑いながらスカートを押さえ、転びそうになりながらその後を追った。
2人の笑い声が、夏の庭に溶けていった。
夜、由美の部屋で健一と布団を並べ、天井の模様を見ながら話したこともある。
「ゆみちゃん、大きくなったら何になる?」
「お花屋さん。健ちゃんは?」
「うーん……ゆみちゃんを守る人!」
「おばあちゃんが好きな人を守る人になりなさいって言ってたから!」
由美は少し頬を赤くして大きく頷く
「じゃあ私は健ちゃんのお嫁さんになってあげる!」
由美の声は夢みるように甘かった。
健一は顔を真っ赤にして天井を見つめた。
その幼い約束が、2人の間に見えない糸を結んでいた。
二 怪談の夜
ある日の夕暮れ。
縁側の風鈴が鳴り、畳の上に夕日が伸びていた。
「ねぇ健ちゃんは怖い話って知ってる?」
由美が布団をかぶりながら恐る恐る尋ねてきた。
実は幼稚園でそんなことを同級生が自慢げに由美に話していたからだ。
健一は少し得意げにうなずいた。
「うちのおばあちゃんが言ってた話でさ、むかしむかし山の向こうに“無間地蔵”っていう地蔵様がいてな――」
彼の声は、妙に静かで真剣だった。
由美を怖がらせようといたずら心が働いたのである。口調も老人の語り口になっていた。
その無間地蔵は「困った人の願いを叶える地蔵」だが、代わりに“体の一部”をもらうという話だった。
嫁を望めば足の指を、富を望めば腕を、命を望めば――心そのものを取られてしまう。
由美は布団を握りしめ、その大きな瞳を震わせた。
「いや……そんなの、怖い……。私はお願いなんか絶対しないから!」
「うん。でも、どうしてもゆみちゃんが誰かを助けたい時は……」
「その時は?」
「俺が代わりにお願いする」
由美は小さな体を起こして、泣きそうな顔で言った。
「健ちゃん、そんなことしたらダメ!」
「だって、俺がゆみちゃんを守るって言ったもん」
健一のその言葉は小さいながらにも決意のこもった言葉だった。
なぜなら彼は無間地蔵が本当に実在している事を知っていたからである。
ふたりの間に沈黙が落ちた。
外では夜風が竹林を揺らし、どこかで犬が吠えた。
その静けさの中で、由美は小さな声で呟いた。
「……じゃあ、約束ね。ずっと一緒にいて、私のこと守ってね」
「うん。約束」
「でもお地蔵さんはダメだからね」
「わかったよ。しないって」
健一は苦笑する。
健一を心配して真剣な眼差しを送る由美が微笑ましかった。
由美も健一の笑顔にほっとした顔をした。
でも幼い彼女の不安はまだ残っていたようだ。
その小さくて愛らしい小指をそっと健一に差し出す。
「……ゆびきりして……」
2人の小指が触れ合い、そして結ばれた。
その約束は、やがて時の流れの中で色を変えていくとは知らずに。
三 揺らぐ季節 ― 小学高学年の頃
季節が巡り、2人は小学校の高学年になった。
由美は誰が見ても整った顔立ちで、クラスでも人気者になっていた。
一方の健一は、運動も勉強も平均より少し下。
しかし由美の隣にいる時だけは、少し誇らしげに笑った。
けれど、次第にその笑顔は減っていった。
由美が友達と笑い合う輪の中に健一の姿は見かけなくなり、昼休みも別々に過ごすようになった。
「ねぇ、最近あんまり遊ばないね」
ある放課後、由美が健一に校門で声をかける。
健一は帰宅したら母親の仕事を手伝いだしたので下校は由美と一緒だった。
「俺、由美の家の仕事もあるし……由美は、俺と遊ぶより、友達といた方が楽しいでしょ」
「そんなことないよ」
「ううん、俺、由美みたいに何でもできないから」
健一は俯いたままそう答える。
由美は綺麗になった。
健一はその美しく育った少女に嫉妬する自分の卑屈さをいつも感じていた。
由美が誰か別の男子と話ししているだけで胸が張り裂けそうな思いがした。
(こんな感情は醜い……!)
そんな自分を由美には見せたくはなかった。
健一は由美を置いて足早に歩いていく。
由美は健一の無言の拒絶に言葉が詰まった。
胸の奥に、どうしていいかわからない”もやもや”が広がっていく。
「健ちゃん、そんなの関係ないよ……」
そう小さく呟きながらも、心のどこかで、クラスでの評判が彼女の胸に棘のように刺さる。
健一はあなたにふさわしくない。それが由美のクラスメイトの評価だった。
由美は否定しつつも普段の健一のぶっきらぼうな態度に不満を募らせていたのだ。
2人のすれ違いは徐々に深まっていく。
その夜、春子が家に帰る背中を見送りながら、由美はぼんやりと思いを巡らせる。
(健ちゃん……もう私のこと嫌いになったの……?)
それは「幼なじみ」という小さな宇宙が、音もなく崩れ始めた瞬間だった。
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四 影の芽吹き
中学に上がる頃、由美の家はますます忙しくなった。
母は選挙活動に追われ、父は病院で帰りが遅い。
家の中で話し相手になってくれるのは、もう健一しかいなかった。
しかしその健一も仕事中は話しかけてこないし日が落ちると自分の家に帰る。
夜の静寂が広がる中、由美は自分でも理由の分からない寂しさを覚えた。
――あの頃は、健ちゃんといれば何でも楽しかったのに。
机の上の古い写真立てには、泥だらけで笑う二人の写真。
由美はそれを見つめながら、胸の奥がきゅっと痛んだ。
けれど翌朝、鏡の中に映る制服姿の自分を見ると、
その感情はすぐに奥へと沈んでいった。
もう子どもではない。
けれど、あの頃の約束の声だけは、心のどこかでまだ消えずに残っていた。




